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背振(脊振)山系

◎金山

97/10滝川谷沢登り→百名渓

○背振山

車谷から(年月日失念) 山頂のみ(別の時、駐車場から) 自衛隊の地下要塞がある。神社からの視界もド−ムで一部が遮られる。

◎井原山,またの名を合戦場、肥前側では灰払山

98年以降いくども。グルメキ谷、洗谷

◎山の名が佐賀県側と福岡県側でちがうということ  山の名がそれぞれの両側でちがうことはしばしばあることで、黒部五郎岳は東の信州側 の呼称で、西の飛騨側では中ノ俣岳と呼んでいました。船形山は東、宮城県(陸奥)側の、御所山 は西、山形県(出羽)側の呼称です(『日本百名山』)。  井原山は筑前国怡土郡(明治以降福岡県糸島郡)井原村の山という意味です。井原村の人 びとは山頂を合戦場とよんでいます。戦国期にこの山にて原田了栄と神代(くましろ)氏 との間で合戦があったようです。格調が高い名前なので、こちらが復権することを期待し ます。  井原山は山というよりは村の名前と考えます。佐賀県側には山頂を井原山と呼ぶことは なかったはずです。福岡県側にて井原山と呼ぶ山を、佐賀県側では「はいはらい」と呼ん でいます(富士町上合瀬)。ヒャアヒャリャーと聞こえることもあります。灰払の字を宛て ます(明治15年郡村誌)。払いは焼き畑を指します。  なお井原山は「いはらやま」ではなく、「いわらやま」が正しいと思います。  雷山を佐賀側では三の塔と呼びましたが(同上)、この名前は、私の知る限り、記憶され ていません。  羽金は佐賀県側(旧富士町)の村の名前です。羽金山は佐賀県側の呼び名で福岡県側は本 来小倉山といっていました。獅子舞山ということもありますが、現在は羽金山の一部をさ すようです(2万5千図では山頂の北側に獅子舞岳)。佐賀県側では獅子舞石という岩の 名前として知られています。  浮岳の女岳を指して深江岳という場合もありました。『筑前国風土記拾遺』浮岳の項に 「東の高山有、めだけという。又真名子とんほうとも云」 とあります。十坊山にならって、真名子十坊といったようです。真名子は筑前側にあった 全10戸の集落で、昭和47年に集団移転したと『福岡・佐賀県の山歩き』(吉川満・1992) にあります。 また九千部山は肥前ではトウゼンサンと呼ばれていました。『養父郡村誌』(『中原町史』所 収)では 「唐山山トウゼンサン一名ハ九千部山、又大山ト云」とあります。 背振山系にはほかにウウタオ(三瀬峠東の二つ目の山)のような地元(三瀬宿)のみに伝 えられてきた山名があります。くわしくは服部『四千人が二千の村で聞き取った四万の地 名、しこ名』(花書院・近刊予定)をごらんください。

井原山西谷の地名 ズリダニ シシトキブチ(*洗谷下部のゴルジュ帯) シシトキダドコ 洗谷 ワサビダ ニ クロダニ 天神ノ谷 大久保 井手の口 ヒラキ カクラ マイノウ 白木 井原山東谷の地名 七合谷 ノンボリ谷 テイシノ畑 奥の森 ヤナガ谷 カナヤマ ダヅメ ヨウラガタニ  ダルメキ谷 フジノオ クエ谷 ナカトウ スラノ谷 カメスラ谷(上スラ谷)  チョウドウ シノマル カナヤマ ニタノオ 天神タン アラタニ セイセイ カマトキ  オオズミ オイノコウチ オチョウズ ナカノタニ 上大ズミ トビイシ グンゼイワ  小峠 堀切峠 (楠瀬慶太編『怡土・志摩の村を歩く』花書院84頁)

五月井原山ツツジ 2006年

2008年

四月井原山新緑洗谷・ 2008年4月27日

2011年5月8日(まだほとんどつぼみ)と14日(雨で落ちてしまったツツジ) *10〜12日まで豪雨、花は満開を迎えることもなく散ってしまったようだった。 ひとりしずか、ほうちゃくそう、つくばねそう、なるこゆり など。 5/8まだほとんどつぼみだった

5/14落花あわれ

5/14つくばねそう

5/14:3日間の雨で、あんの滝は水量が異様に多い

井原山キツネノカミソリ

井原山讃歌

これまでで最高の年だった2015井原山のミツバツツジ

◎背振山系・雷山

秋の雷山をいく

◎十坊山


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