服部英雄のホームページ 峠の歴史学 古道をたずねて

鎌倉街道が通る大野川中平1971ころ

紹介・書評

0701125朝日新聞

 

070916日経新聞

 

070916読売新聞・西部本社版

 

071019朝日新聞・西部本社版

 

080410『測量』58-4

 

0804『TUSACニュース』2008春季号

正誤表

3頁うしろから3行見出し 関寺→(正)関所 17頁 高田ルビ「たかた」→(正)たかだ 62頁後ろから2行 ロマンティッシュシュトラーセ→ (正)ロマンティッシェシュトラーセ 115頁  うしろから2行(誤) 目指していた十二月十五日----出発した直後に →(正)目指そうとしていた十二月初旬 219頁 6行 (誤)和泉佐野→(正)泉佐野 264頁  キャプション最下ルビ  (誤)まと→(正)まど 333頁 初出一覧 二章 「鎌倉街道---を改稿→二章 1,2「鎌倉街道---を改稿 3書き下ろし 165頁 地図 三方台場 滝尾平としているあたりが正しい。また滝尾平は稜線よりは 南で一の水(谷の名前)の上にある「滝の上平」が正しい(山江村管内地図では図示した 位置に画かれている)。 181頁 9行目 山砲二門を据え付けた(中略)山砲だから→(正)山砲二門を据え付けた百 間坂が政府軍台場である。その北の八木山は右が大槻村境だったとある(ただしくは渡村 境か)。いまもサンポウ台場といわれる889メートルの山あたりが、八木山で、百間坂はそ の手前・西南斜面であろうか。しかし、照角山から千メートルという距離はあわないので、 より照角山に近い山だったことも考えられる。谷をはさんで小字久木山と呼ぶ場所もある。 西郷軍の陣地となったのは堂ノ尾(ドノオ)、ビン水とも呼ばれる照角山で、いまも胸壁の 跡が明確に残っている。死骸が累々としていたと古老は伝承する。山砲だから

 安房峠についてはその後、 佐々成政のザラ越えと旧信濃国人・村上義長の動向 : 鈴木景二氏らの試案によせて、および安房峠追補

:http://hdl.handle.net/2324/17120 を発表した。 ほか 萩原大輔「佐々成政のさらさら越え」ルート私考 ―村上義長の動向を糸口として―  

富山史壇172号(2013.12)

関連して20140105中日新聞

安房峠里道改修目論見計画

追補として紹介した「安房峠里道改修目論見計画」は、 明治4年11月に南信と飛騨を合わせて筑摩県ができて、松本に県庁が 置かれるが、明治9年8月に筑摩県庁が焼けて、飛騨は岐阜県に、 南信は長野県に合併される(『長野市史考』(小林計一郎)。 安房峠はそれまで県内幹線道として重視されたが、分県によって危機 意識を抱いた地元が、明治11年この「安房峠道改修計画」を提出した という背景がある。 147頁:ウエストンは平湯から上高地に行くのにわざわざ島々宿 まで出て、それから徳本峠を越えている。…… 当時は平湯と上高地を結ぶ道、つまり今日の(新)安房峠が まだ整備されていなかったからではないか。 と本書147頁で記述した。 ウエストン『日本アルプス再訪』(平凡社ライブラリー)248頁に、 「このロマンティックな地域の<足慣らし>のためにもっと 好都合な天気のときに、これほど楽しいものはないと思 うのは、私が<高地ルート>と呼ぶもので、安房峠(標高 1860メートル)と中尾峠(標高約2165メートル)を超え て焼岳の裾と肩を回るルートである。上高地から梓川の深い 湾曲部に沿ってその上を高く巻き、大火山の東に起伏するご つごつした支稜を横切って、安房峠をこえる道である。 (中略) 平湯から早立ちすれば、わずか一日で谷をさかのぼって、中 尾峠をこえ上高地へといけるので」 とある。島々に出たのは何か別の理由ではないかという 意見が寄せられた(長野県・丸山和夫氏)。  ウェストンのいう高地ルートは、 栃尾(神坂)で左折し中尾を通過し、中尾峠から焼岳の中腹 を経て、細池・安房峠へ出る道(『アルプス越えの鎌倉街道』 99頁)とのことである。  前記の記述のもとは1892年と1893年の旅行で、『日本アル プス再訪』にある<高地ルート>の話は1913年で20年の 時間差がある。しかしながらこの細池側安房峠には平湯から のみちが古くから通じていた(上掲・明治一〇年図)。 大正池噴火後の陸地測量部地図には新安房峠道がある。信州側で 上高地は、木流しほかでの作業場だったから、歩道は白骨や 大野川本村から通じていたと考える方がよいかもしれない。

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