目次/三間坂:鶴の原/茅場

佐賀県杵島郡三間坂鶴の原現地調査レポート 井口佑美 松尾あかね 私達は佐賀県杵島群三間坂の鶴の原というところを訪れた。村は国道に近く、穏や かでのどかな農村地帯であった。国道といっても交通量は少なく、周囲には田が広 がっていた。 むらの家々は、田舎で土地があるからか、どこもどっしりとした大きな家で、立派 であった。新しい住宅よりは、古くからある、家の横に農作業用具を置く小屋があ るような家が多かった。 訪問する前に約束していたお宅は、いざ訪ねてみると、役所に行かれているとかで、 会えずじまいであった。そこで、急きょ、いろんな家を訪問してしこ名の調査をす ることになった。 長老でなおかつ土地に詳しい方は亡くなっておられるようで、しこ名は大変調べに くかったが、いくつか挙がったので下に記したい。 なお、お話は主に岩崎正常さん(大正10年生まれ)、浦川初男さん(大正12年)、 しこ名は主に小柳一義さん(昭和7年)、平島伊四郎さん(昭和6年)に伺った。 佐賀県 田畑 小字羅ノ原のうちに オツケゴ、モンベアシ、ツンノイデ 鶴の原 八ツ田のうちに カワンタニ 坂ノ下のうちに ダンチノ ため池 柿木田のうちに カキダのため池 古場田のうちに タチガワ 大坂口のうちに オオサカグチのため池 山 古場田のうちに タッチュウ(滝中) 前田 のうちに ハッテンサン(八幡山) 橋 陣ノ内のうちに ネゴリバシ(根子利橋) 道 ホリキリセン(堀切線) ソラミチ(空道) 調査を通して気付いたことだが、しこ名を訪ねる際には5000分の1の地図より も住宅地図を見せながら聞いた方が、聞かれた側も分かりやすく、もっと具体的に 教えてもらえたのではなかっただろうか。最後の方になってそのことに気付いたが もっと早く気付いていればよかった。 また女性は、お年寄りでも、他の村から嫁いで来ているからか、「元はよその村の ものだからこの村のことはよく分からない」という人が多かった。 以下質問したことをまとめた。 圃場整備前などに使っていたしこ名はありますか? *圃場整備は10haから8.5haなどに減反をしただけで、元の地名はで きるだけ残そうという動きがあった。だから、ふつう、現在の地図に載って いる小字名を使う。明治のころや、国土調査の前にはいろいろあったらしい *基本的にこの地域の地名はほとんど変わっていない。 *部落、集落のことを、「団地」と呼ぶ。 水田の用水源について教えてください。 *用水場、川などからポンプで。(現在は水道) *雨が降らないときはため池から。 *村の水の管理人(水番)が水門を調節し、それ以外の人は使えない。 *管理人は村で選出 *昔はダムのことを池と呼んでいた。 *川に病原菌がいるという話もあった *昔ながれ川(?)はながれ川山岳地で、今は水洗便所になって水も汚くなった。 (S.20年ごろ水洗便所になった) *川から水を汲んで、桶に入れて風呂に使ったり、飲料水として使ったりして いた。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(用水源、水争い、配水について、会話概略) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ Q.水路やクリークには名前はなかったですか? *ため池はこの辺にはなかね。(地図を見ながら)柿木田やろ、水洗やろ、小越 というのがね、伝説はね、あっちから、おろちに捧げないかんって、娘さんが 小声で泣いたから小越っていうんよ。 Q.へえぇ・・。おろちってへびですよね? *そうそう、ヘビヘビ。(地図を見て)小越ってあったろう?うん、人質ね。 Q.水の調節とかするのは・・・。 *雨の降るときは板を取って、井堰のとこに水路つくっとくわけね。 Q.水門を調節する人とか? *そうそう水番とか。 Q.うちの実家も父が水番してましたよ。役割を決めて、池に行って水門開けたり とかするんですよね? *そうそう。 Q.どこの家に入れるとか、そういうの決めるのは誰ですか? *区でね。今は区制が廃止になったけど、(地図を見ながら)こっちが三間坂区 で、こっちが鳥海区やもんね。で、三間坂から鳥海に流れていくわけやけん よ、上と下で、区長が話し合う分けたい。水門もっと上げてくれとか。 Q.すごい昔、水争いとかあったんですか? *ある。あったよ。今でもある。極端にいえば、自分のとこさばっか、井堰を ずっと上げとうと。若い人と年寄りとかも、意見が違うって喧嘩になったり してね。 Q.そういえば、うちの実家も父が、水番必ず2人で行ってました。もし1人で行 くと自分のとこばっか入れたりするって。 *(笑)そうそう。 Q.水利が強い村とかありましたか? *うーん、区長と区長とね、話しおうて、水利権なんかは三間坂区は三間坂区 で、4、5人おったかね、その人たちで話し合う。あんま水の流れの悪かと きは、来年また新しく水路2、3年かけて作ったりして。今は圃場整備がほ とんどでけとうけんよ。 Q.圃場整備で変わりましたか? *変わったね。 Q.コンクリートになったりして? *そうそう。側溝。U字溝ね。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 薪はどうしていましたか? *山から取ってくる。どの家も大概自分の持ち山を持っていた。 *持ち山を持たない人は、、他の山を持つ人からもらっていた。 *薪を買うことはほとんどなく、自分の山から取ってきていた。 *今は山にあるのはひのき、杉ばかりだが、昔 ***イメージ図*** は松ばかりで、薪には松を切っていた。先が * (断面図) * 細くて反対側が太くなっている斧で木を切る。 * * 自動車がないので、牛車で運んだ。 * * *風呂をたいたり、ご飯を炊くのに、薪を使う * * のは、たいへんな仕事だった。 *********** 入り会い山はありましたか? *区の共有林があった。 *共有林は、誰も行かないようなへんぴなところにあった。 *そこまで行くのは、よっぽどのこと。管理しにくい場所にあった。 電気はいつ頃来ましたか?またそれによって、農作業にどのような影響がありまし たか? *電気は自分が生まれたころにすでにあった。だからきっと、明治29年頃、 山内東小が出来たときに、来たのだろう。 *ガスは、昭和30年頃からプロパンガスが来た。 *電気製品が出来てからは、主婦の仕事が楽になった。 *ガスが来てからは、風呂をたいたり、ご飯を炊いたりするときの薪とりをし なくてよくなったので、その分大分楽になった。 動物はいましたか? *1件につき1、2頭。今のようにトラクターはないので牛車がその役目を果 たしていた。トラクターは昭和32、3年ごろから導入された。 *戦時中は、馬は徴集され、牛ばかりになった。 *主にめすを飼う。理由は、種づけして子牛を作ることができたから。子牛は 売ったりする。 *今のように人工受精になる前は、おすのいるところに種づけに連れて行って いた。 ばくろうとは何ですか? *牛を仲介する人。牛を連れてきて、農家の牛と交換する。双方比べて高い牛 と安い牛の差額をどちらかが払う。町にたくさんいた。 ばくろうには口がうまい人が多いとか? (たいがいのお年寄りは笑う) *だまされたりする。 *酒を農民に飲ませて、タダで牛を持っていく人もいたりする。 *だからばくろうという言葉はちょっと馬鹿にしたようなニュアンスを含んで いる。 農協に米を出す前について教えて下さい。 *地主によるヘイケ(平均?)売り。 *土蔵に米を虫などがわかないように保存して、米の値が上がらないように年 間を通して少しずつ産業組合に売る。 *昔(江戸時代など)は、五公五民(つまりとれた米の5割は年貢として殿様 に納め、5割が自分の取り分になるということ。)や、ひどいときは六公四 民で小作農は、米に麦を混ぜて食べていた。つらい生活だったと考えられる お米の保存方法について教えて下さい。 *米蔵を2階などの冷えた場所に作る。(地主の場合) *貯蔵方法はとにかく西日にあたらせないこと。 ねずみ対策は? *もみがらをならべて広げて、ねずみとりの薬をまく。薬がついていてもねず みは食べる。 *そのもみがらをいろいろな所に置いて、ねずみが死ぬようにする。 虫はつきますか? *つく。それを防ぐのに一番いいのは、かめに米を貯蔵すること。10表入り とか6表入りとかのかめに入れる。今でもそれが一番いい。 *かめに入れれば虫はつきにくい。もしつけば、にんにくやこしょうなど、人 間に害の無い物を入れる。ただし、にんにくなどは入れると臭くなる。こし ょうも効く。米をとぐときに洗えばよい。 自分の家で食べる米を何と言いますか? *飯米、または保有米。 *昔は家族一人につき3表(120kg)とっていた。現在は、6人家族なら 720kg、つまり一人1表とる。 湿田、乾田はありましたか? *あった。水が来なくて全くの乾田もあった。 *今は圃場整備で湿田、乾田はなくなった。 地図上でどの田が湿田か乾田か分かりますか? *その場所に行ってみないと分からない。 地図上でいい田んぼとか悪い田んぼとかはありましたか? *圃場整備まではあった。圃場整備後はそんなに変わらない。 どの田んぼが良かったとか覚えていますか? *もう分からないが、おそらくその土地に行って田んぼを見れば分かると思う この辺りの田んぼはどうでしたか? *普通だった。 *昔は機械がなく、全て手作業だったので農作業は大変だった。 *長靴も何にもない時代なので、全部裸足でやるから足が血だらけになった。 今は機械でイネ刈りをしますが昔はどのようにしていましたか? *カマで1づつ刈っていた。 *その後はワラを乾燥させていた。 *家族みんなでやるとても大変な作業だった。 圃場整備がされていなくて、入りくんだ田んぼにトラクターが入らなかったりし たらやはり手でやっているんですか? *手でやっている。 この道を通って、町から商品が来たとか、塩が来たとか、覚えていますか? *通って来ていた道は今はもうない。 *棒の前後にざるをかついで、小売りで塩の販売に来ていた。 *それは、塩、魚などがあった。 *それらはほとんど伊万里から来ていた。この辺では魚などは伊万里が一番 安かった。 *魚は、川魚をとったりしていた。 *戦時中は、伊万里までまきを持っていって海水を煮て塩を作っていた。 *道で、一番変わっていないのは国道25号線。 *国道は、明治に出来てから全然広くなっていない。他の道は広くなった。 当時の若い人たちはどんなかんじでしたか?やはり学校を出たら家を継いでいた のですか? *兄弟が5人も6人もいたら、長男が家を継いで、他はみんな家を出ていた *長男が1人で財産でも土地でも何でも継いだ。他の兄弟は家を出た。 *長男の結婚相手は親が決めていた。(今もその傾向はある。)そのためか 長男には常に家を継ぐという意識がどこかにあった。 *昼間から恋人と歩くということは絶対になかった。会うとしたら、夜に人 目を盗んで会っていた。 *結婚をしてから親と暮らすか、家を出て行くかが今と昔の違うところ。 *今は、結婚して家を出て行っても、また帰って来る人もある。 *いろいろもめごともあるが、親にも子にも長所もあれば短所もあるのでお 互い様。 *頭のいい人や、財産のある人は大学に行っていた。 若いころは、テレビもないし、夜は何をして過ごしていたのですか? *青年クラブという若者の集まりがあった。(若もん宿とも言う) *そこでは、夜に集まって勉強をしたり話したりしていた。 *村に何かあったときも青年クラブに行くと必ず若者がいるので、村の安全 面での役割も果たしていた。 *たまには干し柿をとったりスイカをとったりと、悪いこともしていたが、 村の青年がやることだから、と大目に見られていた。 *あとはせいぜい新聞とラジオがある程度。 だいたいこのような内容だった。最後に”これからの村について何か希望など ありますか?”と質問したところ、”そういうことは若い人に聞いて下さい。も うこの年ですから特別な希望とかはないです。”と、笑っておられた。 農業をしている人は、さまざまな知識をノートなどに書き留めるわけでもなく 全てが頭の中で整理されていて、必要に応じて必要な部分だけを頭から出して使 っている、という印象を受けた。それはおそらく、長年の農作業によって培われ てきたものなのだろう。100個の知恵を持っているから百姓と言うのだという ことをどこかで聞いたことがあるが、私達も今回の調査で、その事を実感した。 また、私達の心を引いたのは、家を継ぐのは絶対に長男で、長男は自分で結婚 相手も選ぶことが出来なかったという点である。同じ若者として、それは時には 大変辛いこともあっただろうということを思った。しかし、今よりもずっと農業 が盛んだったのでおそらく多くの場合は、家を継ぐということは名誉な事だった のではないかと思う。 そして今では、家族といえどもそれぞれの仕事が忙しく、家族全体で農作業を したりすることはほとんどない。また、近所の集まりなどもないところが多い。 それを昔と比較すると、昔の方がはるかに隣近所の結びつきが強かったと考えら れる。農作業をまともにしたことのない私達が昔の事を調べると、単純に、退屈 そうだ、と思ってしまいがちだが、昔の人たちは心豊かに自分の仕事を楽しんで いたのではないかと思う。機械のない時代の中で、いかに工夫して作業をするか という事を、隣近所の人と相談したりして考えていくうちに、いわゆる’100 個の知恵’が生まれてきたのではないだろうか。 現地調査をしていくうちに、いろいろな人に出会った。駄菓子屋のおばあさん や、よそからお嫁に来たというおばさんなど、もっと時間があれば全部の人にお 話しを伺いたかった。また、浦川さんの家の前では、イチゴ畑があり、農学部の 私達は心を躍らせた。(余談:ちょっと脱線して、イチゴの育てかたなどを聞いて いたのだが、イチゴのほふく茎はランナーと呼ばれていた。それがほふく茎を著わ すのに、すごく的確で、感じがでていて、かわいい言葉だなあと思った。ランナー という言葉は、実は一般的に使われている言葉で、私が単に知らなかっただけかも しれないが、なんだかとても良かった。)教室の中で勉強していると、多かれ少な かれ偏見を抱いてしまう傾向がある。しかし今回の現地調査では、”人生こんな のも、アリやね!”ということを認識することが出来たので良かったと思う。 秋元ひかり 越智敦子 調査地:佐賀県杵島郡山中町三間坂茅場 中尾れい子 昭和25年生まれ 〈小字(公称)と通称地名(しこな)について〉 中尾さん宅で土地台帳を見せていただいた。 同じ小字内で複数の田畑、山林があったが、現在はそれらを番号分けすることで呼び分けている。 田んぼが圃場整備される(昭和59年)前は、小字内にあった田んぼは特に区別せずに (小字)の田とか、どこどこの前ん田などと呼んでいた。 〈小字の由来について〉 三間坂地区の鶴原に空道という小字があり、その由来について教えていただいた。 空道は、そこが坂道で集落から離れて家が2軒あり、田んぼが山沿いに作られているということで、このような小字がついたといわれているそうだ。 〈水利と水利慣行について〉 芽場下・・船ノ原の神六山から流れる鳥海川 ため池(ツツミと呼ばれている) から水田にかかる水は引水される。 圃場整備は昭和59年におこなわれた。 ・1994年の大旱魃 井戸のある家は井戸水を使うことができたが、古い井戸が多いので 町内で水質検査が行われた。水質が良くない井戸水は飲料水以外の用途に 使われた。 各小字の公民館で時間給水が行われポリ容器に入れて持ち帰った。 水は犬走のダム、長尾地区の水源からのもの。 水田は地割れが起こったが無事だった。それは通常、田植えの時期 に開くツツミ(ため池)をずっと開いて常に水を流していたからだった。 また、川の水をポンプでくみ上げていた。 ダム建設 前々からダム建設の話があったが、先の大旱魃がきっかけとなって 実現された。立野川内に建設中の狩立・日ノ峯ダムは平成14年3月に 完成予定である。これらのダムはツツミだけでは用水が足りない場合に利用される。 井戸水は飲用水には使われない。 〈昔の暮らしについて〉 昔の村の人々の生活 昔の人々は、自給自足できるくらいに畑作も行っていた。 老人の方々は昔、野菜を売り歩いていた。野菜を売り歩く事を楽しみ としている老人の方も多かった。 今は畑作を行っている農家は山内町にはほとんどいない。それでも老人の方々 は週一回、青空市場を行っており野菜を持ち寄って売っている。 青空市場は、老人方の生きがいになっている。 農業をしていない家も多い。そういった人達は、有田町で窯焼きや絵師、有田焼を 焼く仕事に就いている。 村の耕地 少しでも出水する場所は、水田に開墾している。 圃場整備前は地盤の深い所に作られた田んぼが豊作だった。(中尾さんの田では松ノ元Cの田んぼで米がよくとれたそうです。) 一反七俵、平均して収穫される。 収穫した米の保存 現在では、収穫した米を山内町の東区、西区にあるライスセンター(農協)へ そのまま持っていけば精米、保存ができる。 昔は、収穫したもみは各家に持って帰り乾燥機を用いて乾燥させ、家族が食べる 分はそれを袋に詰めて精米所へ持っていった。 昔は、家族で食べる米の事を自方(じかたん)、ひょうろ米、作米(さくまい)と呼んで いた。今では保有米(ほゆうまい)と呼ばれている。 ネズミ対策 昔はかます(わらであんだ袋)に、米を入れて保存していた。しかし、ネズミがかます を食い破って米を食べていた。そこで、米を缶々に入れて保存することにした。 これによりネズミの問題は解決した。 今は、米を密封した袋に入れて涼しい所に保存している。 村の動物 今は家に動物(牛など)飼っている人は少ない。 昔でも、家ごとに飼っていた訳ではない。だいたい一つの小字の中で二軒くらい。 牛(食用)二,三頭と、乳牛を飼っていた。 山内町に佐賀県畜産試験場があるが、町内自体は畜産が盛んであるとは言えない。 村の発達 三間坂地区では大正八年に電気が通った。 かまどは今ではほとんど使われてない。 〈村の祭りについて〉 ぎおん(7月15日―8月25日 計11地区でおこなわれる) [ぎおん]の祭りは、山内町の夏を迎える行事であり、町内の各地域ごとに それぞれの氏神様で行われる。 元々は、疫病や害虫などの災害に悩まされていた農家の人々の疫病神や 害虫退散の祈念のために行われた祭りだったが、今では山内町の農民の 娯楽の夕べとなっている。 (山内浮立) お参りに来た村の人々が行う古くからの伝統芸能。いくつかの系統があり、 浄瑠璃やお伽草子などを浮立化した舞浮立を行う地区もあれば、青年団が 主催者になり歌や踊りなどの隠し芸がアットホームな雰囲気で行われる地区もある。 (ぎおんだご) 山内町のお祭りにはかかせない一品。がんまいの葉(サルトリイバラ)に包んだ食べ物。 家々によって素朴な深い味わいがある。 盆踊り 7月15日に行われる盂蘭盆(うらぼん)は、古く飛鳥時代から始まったと言われている。 年に一度、この世にもどって来る先祖様や精霊を迎え、また送るための風習になったもので、神送りの一種として行われていたが、現在では、その宗教的な意味も薄れたものになっている。 黒髪山大巡り 大正3年5月2日に新西国霊場が開創され巡礼が始まり、以来毎年八十八夜の日に行われている。 早朝、打初所(うったちじょ)の三十三番礼所「定林寺」を出発し、小路、浮待坊( ちまちぼう)から雌岩、雄岩を経て、黒髪山へ登る。太鼓岩不動尊から表参道を下って、 水尾の滝の観音を経由、有田の泉山までのコースで行われる。参道を登り小さなお堂をくぐると、そこには接待(せっちゃあ)と呼ばれる地元のおばさんたちが、手作りのよもぎまんじゅうや漬物、お茶でもてなしてくれる。参拝者と地元の人たちの楽しい交流の場となる。この行事が盛んだったころは、三千人近い参拝者があったが、最近は千人くらいである。しかし、山内町で毎年行われる行事で最もにぎやかなものの一つである。 (有田陶器市) 黒髪山大巡りの翌日に「有田郷」の巡拝がある。そこへ参拝するお巡りの方々へ、窯元、商人のおかみさんたちが焼き物の半端物や傷物を格安で売り出したのが今のような一般の方を対象とした「有田陶器市」の始まりだといわれている。 (一日の行動記録) 9:15 六本松出発 バスで佐賀へ 11:05 三間坂に到着 (約束の時間まで間があったので、付近を散策した。 水田は圃場整備が行われており、きちんと区画された田んぼが整然となら んでいた。だが、水路などすべてがコンクリートで固められている訳ではなく、土手など土のままになっていて、雑草が生えることで崩壊を防いでいる。小さな水路には、田んぼ毎に板で関がつくれるようになっている。 川は壁はコンクリートで固められているが、底は土であり丈の高い草が 生い茂っている。 山の斜面に作られた田んぼは、比較的小さく、形もいびつである。いわゆ る“棚田”になっている。 13:30 中尾さん宅訪問 この地区は古老の方がもともと少ない上に、地区の集まりがあったのでお 年寄りに話をきくことができなかった。 昔聞いた話を思い出して教えていただいた。 16:10 中尾さん宅から出る。 16:20 バスで福岡に帰る。


一覧へ戻る