目次/立野河内:辺田/平野/山下/柳原

調査場所: 佐賀県杵島郡山内町大字宮野字立野川内辺田 中村 生子 久松 里美 聞き取りしたおじいさんとおばあさんの名前と 生まれた年: 山口 様 大正8年生まれ 山口 貞子様 大正11年生まれ @現地調査した場所について 佐賀県杵島郡山内町大字宮野字立野川内辺田 立野川内というのが小字に相当するものと思われる。 今回調査した辺田という地域は立野川内をさらに区分したものであ り現地の人は辺田部落というふうに、部落という言葉を用いていた。 辺田部落はさらに宮ノ元、乙宮に区分されている。これらは田んぼの 呼び名でもある。 辺田部落には現在17件の家がある。 また、立野川内には204,205件の家があり、人口は800人くらいであ る。 A しこ名について 辺田において [田畑] 辺田部落の乙宮のうちに、 オトミヤ(乙宮) ハチマンサンチャーバー(八幡サンチャーバー) もしくは、 ハチマンチャーバー(八幡チャーバー) 辺田部落の宮ノ元のうちに、 ミヤノモト(宮ノ元) ハチマンサンチャーバー(上記のものと同等) [ほか] 乙宮のうちに、 ヒクチ(樋口) テンノジュウダニ 宮ノ元のうちに、 ウータニ ショウブンダニ オサキ(尾崎) アマヅラ 辺田部落外と思われる場所(寺下)だが、'ジャガミ(蛇神)'というも のも教えてもらった。 以上のしこ名は地図に参照。 *ハチマンサンチャーバーのチャーバーとは、”広場 ”という意味 である。 *ショウブンダニは、昔の戦の名残から来たものだと思われる。 B村の水利 水田にかかる水は、狩立川から引水され、イッシュウ井手(地図参照) から取り入れられている。単独の用水だったと思われる。 過去に水争いはあった。その争いは村の中での争いれあった。田んなか から田んなかへ水を流していたため、上方の田を所有する者が下方の田 へ水をあまり入れないようにした場合に生じた、家々どうしの争いであ った。下方の田の持ち主が、夜に、水を多く取り入れる田の水の流れ口 を広げていたという話もある。 ◎1994年(平成6年)、今から5年前に、この地方には大旱魃があった。 この時、武雄、嬉野から山内町が水をタンクでもらいに行っていた。 そして、その水を水源地へ入れて利用していた。また井戸水も使って いた。風呂水は、2、3回繰り返し使っていたという。 ●もし、この大旱魃が50年前の出来事だったら・・・ ・川の水を風呂に利用していた。 ・テンノジュウダニから水が流れていて、これを飲料水や風呂 (五右衛門風呂)水として使っていた。 毎日水汲みに行き、4,5回は運んでいた。 ・川で洗濯をしていた。(川に洗い場があった) C村の範囲(辺田の範囲) 民家を境界として範囲をとらえているようで、あまりよくわからなか った。民家の範囲は地図に参照してある。 D村の耕地 圃場整備以前には、村の水田には湿田や乾田が入り混じっていたこと が考えられるが、昔この辺田という地域では、米が良くとれるところ、 逆にあまりとれないところがあるということはあまりなかったという。 戦前は有田のげ肥をお金を出して買い、それをリヤカーで引いて持っ て帰り利用していた。 化学肥料が入った後では、げ肥も必要なくなり、楽になった。また、 収穫量も増えた。逆に、有田の方では、お金はいらないからげ肥をも らってくれるように頼んだとか・・・ E村の動物 農業に利用するために、牛や馬は米をたくさん作る家にはいたとのこ とである。牛は各家に1頭はいたという。雄か雌かまではわからない。 F村の道 古道と現在の道はあまり変わらないので、隣の村に行く道と学校道は 現在の道と大差ないらしい。 また、塩は農協から買い、魚は伊万里、佐世保から売りに来ていた行 商人から買っていた。 G村の発達 村に電気が来たのは大正11年のことであった。 また、山内町の住吉農業協同組合に液化石油ガス販売の許可が下りた のは、昭和38年4月のことであり、実際の取り扱いはそれ以前であるよ うだとのこと。山内町立野川内の辺田地域への供給が行われ始めた時期 もその頃だと思われる。 電気やガスが来る以前は、薪やたきぎを使っていた。 H米の保存 米は農協に出す以前の時代は、聞き取りしたおじいさんあばあさんの 家では米をそんなにたくさんは作っていなかったので、自給自足の範囲 内だったとのこと。 家族で食べる飯米は保有米と呼んでいた。 米の保存としては、その家では7俵入る瓶に保存していたという。 また、かまぎという、藁で編んだものに入れて保存してもいた。この かまぎは東北地方で言う米俵とはまた別のものである。 種籾は紙袋に入れて保存したり、産業組合から買ったりしていたとの こと。 ねずみ対策として、“"ばな" という仕掛けでねずみを捕っていた。 50年前、食事における米:麦の割合は約、3:1くらいであったとい うことだ。稗や粟のような雑穀を主食にすることはなかった。 I祭り ・8月8日 八幡神社夏祭:青年団が主催していたが、現在は 青年団はなく、この祭りは行われ ていない。 ・9月23日(お彼岸の中日) 浮立(ふりゅう):子供会主催のもの。 J村の若者 テレビも映画もなかった時代、よる、若者は筵織りを男女ともやって いた。 青年団があり、毎月何回かクラブがあって集まっていた。夏祭近くに は、踊りや芝居の稽古をしていた。 よその村の若者は夏祭りなどのときにはやって来ていたが、決して仲 良くはなかったようだ。足を踏んだ踏まないでけんかすることもあった らしい。在郷者=じゃーごんもん(=田舎者)と言って他の村の者を馬鹿 にしていたらしい。 K村の生活に必要な土地 入り会い山はあった。場所は板ノ川内の山であった。村人にはしたばら いをする義務があった。 生活に必要な薪を私有の山を持つ人から買っていた。また山師からも 買っていた。 Lその他 ・簡易水道ができたのは昭和(1974)年。 1999年現在、下水道工事進行中。これから先、3年くらいかかるとい うこと。 ・八幡神社は、明治3年の神仏分離によって悉地院から分離してきたも のである。応神天皇と、神宮皇后を祭った神社である。 M山内町について 町土: 東西7.5km、南北7.5km。総面積 40.76平方キロメートル。 北西部は急峻な黒髪山系、南西部は神六山系の小高い山々に 囲まれ、標高100m以上の土地が全体の約80%を占めている。 歴史:旧石器時代から縄文時代にかけての石器類が町内各地で発見 されており、数千年前から人が住みついて、狩猟を中心とす る原始生活を営んでいたことがうかがえる。 1153年頃から武雄藩後藤氏の領有となり、その後、鍋島氏の 領有地となった。 昭和29年に中通村と住吉村を合併して山内村とし、昭和35年 9月に山内町となった。 *その日の行動 9:15 学校から出発 11:00過ぎ 山内町到着 町の中を歩いてみる 昼食 12:30頃 山口さん家到着 聞き取り調査 16:20 山内町から出発 18:30頃 学校に到着 *感想 聞き取り調査は、おじいさんおばあさんのおかげで無事に終了した。 山内町はだんだん高齢化しているのだと思う。 もっとたくさんの若い人が町にいたならばよいのにと思う。 昔のことを知ることができ、とても興味深く感じた。                     森田 裕資 余村 泰樹 調査年月日 1999年 7月 11日 調査地 佐賀県杵島郡山内町立野川内(タテノカワチ) 山下地区 今回の現地調査では、二人の年配の方に話しを聞くことができた。シコ名については、御二人とも覚えていることが少なく、まとまった情報は得られなかったが、昔の現地の生活についてなど興味深い話しを聞くことができたのでそれらを中心にレポートする。 ○ 田代 マツエ さん 明治41年 6月 5日 生まれ 91歳 のお話から 水について 立野川内を流れるカリタテ川(狩立川)は、松浦川の上流にあたり、昔はこの水を主に、 風呂水、農作業などに使っていた。それぞれの家は、庭に井戸を掘り井戸水を生活用水として使っていた。五年前の大干ばつの際は、その井戸水も枯れるほどであったが、それ以外は枯れたことがないほど、水の豊かなところであるらしい。そのため、田畑の水をめぐる争いは、小さいものはあったものの、大きなものはなく、飲み水に関しての争いも、なかったらしい。 現在は町水が普及している。町水は、十年以上前に、イヌバシリ(犬走)、ミズオ(水尾)などの、町の所有のダムから配管されている。 農耕について 山下地区を含め、立野川内一帯は山間部のため、棚田が多く、水田が数多く見られた。 話によると、稲の品種は変わったものの、以前からも水田が多かったという。 戦争の前は馬を使って耕したりしていたそうだが、戦争が始まると、農作業の中心が女性に変わったことから、牛に変わり、馬を使うことが多くなったそうだ。牛は、一軒に一頭というのが普通で、メス牛が多かったらしい。 米の保存について 米の保存は季節によって異なる。夏はモミ蔵に保存し、冬は缶に入れて保存する。夏は米の上にモミガラをかぶせて保存するそうだ。この保存方法を、このあたりの方言でスイノカと言うらしい。また、猫を飼うなどしてねずみにも対処した。 山の所有について このあたりの山は個人の所有が多いらしい。昔は、風呂焚きなどに山の薪をつかっていたらしく、山を持っていない人は、所有者と相談することで山に入り薪をもらい、また、山の所有者は、山の中の掃除になるので薪を取りに山へ入ることを許したという。余った薪は馬で有田まで売りに行った。有田では焼き物のため煙のよく出る松の木が高く売れ、その外の雑木は炭にしたらしい。 祭りについて 祭りはすぐ近くの観音堂で行われる。昔は青年団が踊りや狂言などをやったそうだが、現在は青年団がなくなって祭りの回数も少なくなったという。また、近くの八幡神社でも、田植えの後、収穫の後などに祭りが行われるそうだ。 昔の生活について 昔は近くに、松浦、小城、多久などといった、炭坑があったため、そこで使うような草履やわらじを作って、家計の支えにしていた。男性は有田まで歩いて焼き物の仕事をしに行ったりもした。有田までは昔から今の国道が大きな通りとしてあったためそれらが主に荷物の運送用としても使われた。 食生活に関しては麦ご飯が多く、ごぼうめしや、寿司といったものはごちそうであった。 肉はほとんど食べることはなく、魚も川で釣ってきた魚などで海のものはたまにではあるが、 鯨を売りにくることがあったそうだ。 電気について 電気が田代さんの家に来たのは田代さんがまだ、学生のときのことで、大正時代の終わり頃だそうだ。電気が田代さんの家に来る日は、うれしくて学校から飛ぶようにして帰ったと話してくれた。 ○田代 酉馬(トリマ) さん 大正8年 3月 15日 生まれ 81歳 のお話から 酉馬さんは若いころシコナについて調べてまわったがそのころですらすでにわからないことが多かったそうだ。酉馬さんの話からは、若いころから農業試験場の技術員として働いていたため、農業の話を多く聞くことができた。 この地域は、兼業農家がほとんどで、主に米を主力としているそうだ。これは、試験場でいろいろ試した結果あまり園芸関係の向かないことがわかったためだという。この地方の農業は気温の低さから平野部よりも10日以上生育が遅れる。そのため、酉馬さんは、かつて裏の山でやっていたみかんの栽培を(昭和34年頃〜55年頃まで)その気温の低さによる霜に悩まされた結果やめてしまったそうだ。 平野部の農業が大規模なのに対し、山間部の農業はさほど大きくなく、平野部ならポンプを使って水をくみ上げるが、この地域は、トウシコ(通し溝)、イデといったものを使って田んぼに水を引き込んでいたようだ。そのような状況のため大きな機械を非違と角の羽化で持つといったことがなかったらしく、共同でモミすり機をもっていたそうだ。 シコ名について シコ名については酉馬さんからいくつか聞く事ができた。 立野川内 小字 シラタケ(白岳) ツジ(辻)、コバタ(小畑) ヤマシタ(山下) ヒエダ(稗田)、ヤマシタ(山下) ホリノウチ(堀ノ内) オオノ(大野) オオマガリ(大曲)、ヤマテ(山手) ヘンダ(辺田) ミヤノモト(宮ノ元)、オトミヤ(乙宮) タテハタ(立畑) ※このうち乙宮の範囲ははっきりしていなく、酉馬さんの話では天満宮の南から立野川内分校のあたりまでを乙宮といったらしい。 井手について 井手についてはその名前はよく分からないが、井手の水の及ぶ範囲を少し聞く事ができた。 井手の位置 水の及ぶ範囲 分校の前あたり 山下、堀ノ内一帯 蛇神橋と乙宮橋の間 乙宮一帯(狩立川の南側) 横畠橋付近 立畑、乙宮、宮ノ元 横畠橋の井手はイッショウイデ(一行井手)と呼ばれていたらしい。 今回の調査を終えて 以上が今回の実地調査のまとめである。今回のところは、話を聞く事ができたマツエさんや酉馬さんですら、シコナを知らないという事が多かったが昔の話についてはたくさん興味深い事を聞く事ができたのでそれはとても良い収穫であったと思う。 田代喜孝様 マツエ様 先日は私どもの調査にご協力していただき、ありがとうございました。先日聞かせていただいたお話をもとにようやくレポートを書き上げる事ができましたので同封いたします。皆様にお見せできるような立派なものではありませんが、よろしかったらご一読下さい。 平野 小山 元洋 半崎 尊哉 樋渡 勝麿;大正13年生まれ 中尾 章 ;大正14年生まれ 中尾 俊昭;昭和19年生まれ 私たちが調査したのは平野地区でしたが、お話を聞きましたところ、平野地区のしこ名はご存じなく、その代わりに周辺地区のしこ名をお話してくださったことを、始めにお知らせします。 村の名前 しこ名 館(タチ) ロクンゾウ(六地蔵) 六地蔵・・・いぼの神様で、なすびのへたで、いぼをこすってお供えするといぼが取れるという言い伝えがある。お話をして下さった樋渡さんは、試しており実際にいぼが取れたそうだ。現在永田さんという方が管理をしているらしい。 大谷(おおたに) ササバア(笹原) 現在“サアバア”と呼ばれる場所には九州酪農講習所がある。講習所は昭和17、18年頃農兵隊が開墾し作り上げた、畜産試験場の名称が変わったものである。 開墾される以前に馬の牧場があり、今その場所には畜魂碑があり、昔その場所には馬頭観音と石碑が立っていた。 畜産試験場を作る際、馬の牧場や馬頭観音や石碑は当然崩されその土地をならして作られたわけだがそこで飼育されていた牛が炭素病という、伝染病にかかり次々と死んでいった。病気にかかった牛がいたところは、奇しくも馬頭観音像があった所で、馬と馬頭観音の祟りだと恐れ畜魂碑を建立したところ、病気がぴたりと治まったそうだ。 原(はら) オンダラ(恩だら) 恩の字の説明はできないと言っていたがダラというのいはタラの木が一帯に多く生えていたためらしい。 このオンダラと呼ばれる地域にある山内中学校周辺は古戦場で、武士の石碑が散在しておりそれらの幾つかを梶山さんという方が一個所に持ち帰り石碑で作った50センチ位の祠を自宅の庭に建てている。この石碑は大正5年4月1日に建てられた。 宮ノ元(みやのもと)オサキ(尾先) この地名の由来は立畑にある蛇神橋からきている。かいつまんで説明すると、この立野川内地区には、黒髪山の大蛇伝説が残っておりその伝説の大蛇が水をのみに来たのが蛇神橋のあるところで、その大蛇のしっぽがあった所が尾先である。ほかにも、立野川内から伊万里に行く途中に赤田と呼ばれている土地があるが、それは大蛇を退治したときに流れた血が、田を赤く染めたことから来ている。 平野および周辺地区の生活、風習について 平野観音 祭典は8月16日の灯篭かけ、18日の本祭となっている。 山内四国第六十番。本尊は大日如来。御堂の中には、“たて横に峰や山辺に寺たててあまねく人を救うものかな”という和歌がある。 毎年16日は小学生が各家を“じゃどん(お茶)豆どん(豆)あぶらじゃ(お金)あげんさい”と言ってまわり、観音堂に持っていって煮てお参りに着た人たちに振る舞うということをしている。また18日の本祭は約12年前から盛んになったそうだ。 この平野観音だが、昭和25年に谷をつむじ風がはしり、谷のところにあったために倒れてしまった。しかし倒れた観音堂はすぐに元どおりに立ち上がり、以後お参りする人が増えたそうである。 馬入川 農作業に連れていった馬や牛を帰りにこの川に入れてきれいに洗ってから帰っていた。平野の馬入川は水がきれいなので井戸を持たない家の貴重な水源となっていた。 馬入川はこの地区のあちらこちらにあったそうだ。 平野観音のところの川は今は岩で塞がれている。 農業 昔は田畑で野菜や米の栽培が主に行われていた。他にも畜産講習所のあったところは松林で松茸などがとれていた。 最近の野菜の栽培は、道の駅で売ったりする露店用の野菜が主で、米の栽培は昔からこの土地の主要農産物であった。また、白岳付近の田んぼでは昔から米がよくみのりお金持ちの人々が住んでいるそうだ。 宗教・祭り この辺は真言宗が多い。話によると、昔、空海が黒髪山に来ており(実際に来た印も残っているそうだ)空海が地面を掘ると水が湧き出たという伝説が残っている。そして、真言宗の信者が増えたそうだ。残念ながら今はもう水は出ていない。 有田焼工場のすぐ側にシュツ地院と呼ばれる寺がある。この寺の山側にある祇園社で、7月14日になると祭りが開かれる。昔は立野川内をあげて行われていたこの祭りだが今ではこの辺の集落だけで行われており区から4万円の補助が出ているそうだ。 このシュツ地院を含むこの辺りの寺院の総元締めは大地院といい、昭和14、15年頃に佐世保の方に移動した。大地院の跡は今も残っておりとまって修行するものもいるらしい。 蛇神橋を北に向かうと八幡神社がある。この神社では8月の20日に祭りが行われ、先ほど書いた平野観音の祭りと、山下観音(別名堀の内観音)という六地蔵の側の観音様のお祭り(2つの祭りとも8月の16日に行われる)とあわせて3つの祭りとしてこの土地の人々に親しまれてきている。 この八幡神社の祭りだが平野観音の祭りが大きくなる14、15年前“かっくんちゃん”と呼ばれる首のところに大きな瘤のできた人が毎年必ず来ており、裸同然の格好で1本三味線を弾きながら歌っていた。たいへん音楽の才能があったそうだ。このかたは年代をはっきりすることはできなかったが、昭和17年から23年の間に病気で亡くなったそうだ。 また、この神社には日露戦争のときの203高地の激戦の図の絵馬が飾られているが私たちは見る機会がなかった。 黒髪神社の流鏑馬・・・黒髪山の大蛇退治に関連して10月29日(この土地では“おとくんち”と呼ばれ、偶然にも、話をして下さった樋渡さんの誕生日と同じ日でもある。)に流鏑馬をしている。この流鏑馬の的には串焼きにされた“どんこうお”(漢字で書くと殿喰魚と書く。昔、住吉城の九人の殿様が来たのでもてなそうとしたが、この地区は山なので魚がなく切腹覚悟で川へ行きどんこを釣ってかえり出したところ、たいそう気に入られたので殿喰魚と名づけられた。)が的にくくられている。この的だが、3個所に3枚あり、計9枚を射ぬくこととなる。 道路 国道35号線は今は山の中を走るバイパスの様なものになっているが、旧35号線は日 露戦争の時物資輸送の手段として作られた。 鉄道 本来、この町には鉄道が走る予定はなかったそうである。ここを通らず、嬉野の方を通 る予定だったそうだ。昭和35年頃までこの線路を走る列車からアメリカ人があめやチョコレートをばらまいていたそうだ。 国鉄時代には線路工夫が手押しトロッコに乗って毎日やってきた。彼らは日常生活のふとしたことや、たわいもないことを上手に歌っていたそうだ。 電気・水道 この地区に電気が通るようになったのは明治時代からだが、水道が通ったのは今から十数年前のことになるそうだ。下水道の工事が今年の4月にはすべて終わるはずだったらしいのだが遅れており、3ヶ年で山内、三間坂地区は下水道普及率100パーセントを目指している。 それまでの水源は井戸、もしくは前にも書いているように馬入川の水だった。 市 三間坂市と呼ばれる市が、三間坂駅周辺で開かれていた。時期は田植え前で、魚を買いに遠くまで出かけるのは大変なので、塩鯖や塩鯨などの魚の塩漬けを大量に買い込んでいた。 他にも、六地蔵市(ろくんぞいち)という朝市が平野近辺であり、食料品を主に売る三間坂市とは異なり、主に生活用品を売っていた。子どもたちはくじを引いたり、こまを買ったりしていた。ここで、少し脇にそれるが、私たちはこま回しというと正月のイメージが強いのだが、ここでは、正月よりも“おとくんち”あたりで遊んでいたそうだ。 また、バナナのたたき売りがこの市に来ており、“このバナちゃん食べたなら、いつもがっこで優等生、さあ買え、さあ買え、さあ食べろ、さあ食べろ”と歌っていた。 黒髪焼き 今から400から450年前、豊臣秀吉の朝鮮出兵により渡来してきた人々によって、 始まった。 この黒髪焼きは、唐津焼きの流れで、たたき手法という方法で、形を作り上げていく。また、唐津焼きに用いる水の水源と唐津の中間に位置するところにあるため、大変よい土が取れるとのこと。 古戦場の武士の石碑で祠を作った梶山さんのお父さんは、陶芸をしており庭には陶製のかえるや、鬼瓦などがあり、祠を見に行ったときに見せていただいた。 陶芸のことなどよく分からない私ではあるが素直に“いいな”と感じた。 現地調査に出て 私たちは連絡を取った中尾さんたち3名と会い、お話を2時間ほど聞いた。こちらの質問に丁寧に答えてくれたばかりでなく、こちらの予想以上の答えがどんどん返ってきたので、とてもありがたかった。ただ、はなしを聞いていく内に、あまりにも興味をそそられる話をして下さったので話にのめり込み、このレポートにまとめるための、しこ名や水路、田んぼの名前をほとんどというか、ぜんぜん聞いておらず、お話をして下さった3名に申し訳ないと感じるばかりである。 お話を伺った後、周辺を見てまわったのだが、数歩歩くごとに“あれが…だよ。”と説明していただき、さっきまではなしを聞いていたのだが、地図で見たり言葉で聞く以上になんだかよく分からないが“すごい”と感じていたのを今でも思い出す。この“すごい”という気持ちは本当に説明ができない。なんだか直感的にすごいと感じた。 この文書を読んでわかるように、私は物を書くのが得意ではない。だからこのレポートを読んでも聞いた話の三分の一も読み手には伝わらないだろうなというのが私の今の素直な感想だ。 ほんの数時間だけしかいなかったのだが、とてもいい経験ができた。 7月11日 山内町聞き取り 場所:佐賀県杵島郡山内町立野川内徳蔵 調査者 岡田 直 斉藤 真 聞き取り者:多久島 守行 (昭和6年生まれ) 当初は、別の人にお話を聞く予定だったが、その方の都合が悪く、その方に 多久島さんを紹介していただき、別の班と一緒にお話を聞くことになった。 1、 多久島性の由来について この地区には多久島性の方がとても多く、最初にそのことについて聞いた。 長崎県の度島(タクシマ)から、先祖がこの辺りに移ってきて、一帯に部落を作った。 唐津、佐賀辺りにもこの名字は多いが、それはこの辺り一帯の出身者である。 2、 しこ名3、 について 主に耕作していた場所は、地図中央右寄りの松浦川の周辺のみで、その辺りのしこ名などについて教えていただいた。 小字 川良野(コウラノ)のなかの田畑のしこ名 1、ミゾノウエ(溝ノ上) この辺りの田は現在も溝ノ上と呼ばれているが、昔は田んぼも 多く、溝というものはなかったらしい。 3、テージンサンマエ(天神さん前) 4、テージンモイ(天神森) 5、テージンサンノシタ(天神さんの下) これらの「天神」というのは、テージンモイのなかに「天神森」 という、小高い所があったことに由来する。しかし、圃場整備 のあとに、なくなってしまった。そのため、今ではもう使われ ていない。現在は川良野(コウラノ)で呼び名を統一している。 天神森には、テンジンサマがまつってあった。 6、サヨサンノシタ(三夜さんの下) 三夜山という丘になった小さな山がすぐ南にあることに由来す る。現在も田をこのように呼んでいる。 7、ヨイイアータ(寄り合田) その地区の皆が協同で米を作っていた田んぼ。祭りなどの公共 な時に使う米を作っていた。誰かが米を持ってくるといったこ とはしなかったらしい。 水路などに関する呼び名 ミゾノウエスイロ(溝ノ上水路) コウラノスイロ(川良野水路) 4、 従溝 従溝は圃場整備後になくなった。 5、 小溝 6、 ガブロ 水の溜まり場(飲用ではなく田へのもの)。 人がおぼれて死んだこともあるらしい。 7、 車屋 水車を回して石料を作っていた。 8、 キンジョオトシ 水泳の場所だった。名前の意味はよくわからない。 その他のものの呼び名 1、 タブノキサン 洗濯場の呼び名。タブの木があったことからこの呼び名がついたらしい。しかし、昔この場所で戦争が起こり、1000人程が亡くなった。そのときの死者の耳たぶが埋められているからこのような名がついたという説もある。 小字 大野原のなかの呼び名 カバー井堰 ハダイデ井堰 小字 蜂ノ巣のなかの呼び名 1、 ミゾノウエイセキ(溝ノ上井堰) 2、 ハチノスガワ(蜂の巣川) 現在は水尾川と呼ばれているが、年配の人達は蜂の巣川と呼んでいる。 小字 徳蔵のなかの呼び名 1、 シンツツミ(新堤) 最近は車でも通れるが、以前は舗装されていなかったため、行きにくかった。ここでもおぼれて死んだ人がいるので、この地域の人はあまり近づかなかった。 小字 陣ノ尾のなかの呼び名 1、 ジン(陣) 山城があったといわれる。内容についてはよくわからないらしい。 小字 琵琶ノ首のなかの呼び名 1、 サヨサン(三夜山) 前述のように、丘になった小さな山。うずをまいている。 2、 トリゴエ・トイゴエ(トリ越え) 抜け道になっている。呼び名は、そこからか? 3、 マイデガワ(馬出川) 馬車で有田焼を運んだときなどに、馬を休ませて洗ったり、水を飲ませたりした。 4、 ハシツメ(橋爪) 水が流れてきたところ。 5、 ビワクビ・ビワンクビ 水を引いていたらしい。 6、真土手 泥で水害を防ぐための堤防の役割をするものを作っていた。今は、圃場整備でなくなった。漢字は正式なものかどうかわからない。 小字 上原のなかの呼び名 1、 マルヤマ(丸山) 採石場。世界一小さい死火山らしい。凧上げなんかをしたらしい。 その他このことに関して聞いたこと 琵琶ノ首にある久保田橋は、昔はなかった。 蜂ノ巣橋の辺りも昔は通るのは困難だった。圃場整備後に橋などができた。 ・水の分配について 水番を決めている。 6月の第1日曜日に水路などをきれいにする。 三夜山のあたりで酒を飲みながら取り決めをする。 今は、8月の第1日曜日に取り決める。 徳蔵と渕ノ上とは常に協同で取り決めを行う。 基本的には水番に管理してもらう。 水はドロボウ的なことはできない。 ・1994年の干ばつについて 田んぼの方は、水が足りなくなったということはなかった。 生活用水が足りなくなったので、井戸や他のところから持ってきたりした。 干ばつ中でも、お盆までは水があったので田の方はそんなに問題なかった。 ・昔の干ばつについて 昭和13年に水がなかった。 車屋の辺りの川の中に、井戸を掘って水を取り出し、バケツ(桶)で運んでいた。 昭和42年に、大水害の後干ばつになった。 大水害で田はボロボロ。収穫はほとんどなかった。 2年後に復旧。その後圃場整備があった。 ・塩・魚について 伊万里の方から自転車で運んでいた。 終戦後は、伊万里まで塩がまをやりに行っていた。 ・電気について 小さい頃は、電気は2つ。炊事場と小屋のみ。 終戦後24,5年まで勉強部屋に電気がつくということはなかった。 テレビの普及は、1964年のオリンピックのとき。 力道山のころは、テレビがある人の家に押しかけていっていた。 30年初めくらいまで、土葬だった。 その後火葬になっていった。 火葬場まで、薪などをのせて、リアカーで運んでいた。 ・娯楽について 武雄の遊郭まで行っていた。 長浜では、給料が8000円の時代に、泊りが1500円だった。 33年に売春禁止法が成立した。 相撲大会など、いろいろな集まりがあった。 「青年くらぶ」というのがあり、毎晩のように遊んでいた。 恋は、夏祭の時にできた。 くんち、ぎおんなど1ヶ月くらい祭りは続く。 金がかかる。酒の量はとにかく多い。 公民館なんかでする。 ・家畜について 40年ごろには、どの家にも1頭くらい牛がいた。 機械化が進み、牛は徐々にいなくなっていった。 ばくろうは、すこし遠くの宮野の方にいた。 今は、あまりいない。 馬を飼っていた人は、有田の方に荷物を運んでいた。 青田売りというのは、なかった。 農協・JAの前は、農会というものだった。やっていることはあまり変わらない。 米の保存について ごひょうかん(300Kg)にいれていた。 わらのときは、ねずみ対策が必要。 杉の葉を混ぜておくと、葉の刺でちくちくするため、ねずみがこない。 いくらかは効果があったが、それでもしょうがなかった。 竹の籠に保存する場合、風邪通しの良い場所につるすことで、カビを防げた。 ・下水道について ここ何年かで下水道工事をするので、川がきれいになるかも。 生活排水が問題。 ・宗教について 真言宗がほとんど。 浄土真宗・禅宗が少し。 ・酒について 終戦後22,3年までどぶろくを作っていた。 祭りの当番になった人が作っていた。 日常飲んでいたということはない。 ・雨が降ったときについて わらじ作りなどの仕事をしていた。 夜に暇なときも。 篠栗なんかに送っていた。 ・子供の時について ビー玉・コマ・メンコ(ペチャ)・竹馬・凧などで遊んでいた。 ・祭りについて どのような祭りがあったのか 正月祭り → 4〜5月 花見 → 夏祭 → 10月〜 くんち → 11月 おひ祭り(太陽をまつる)→ 年越し祭り 感想 今回の調査をしたことによって地方の独特の呼び名などについて改めて意識するよ うになった。今までそのようなことを深く考えたこともなかったため、このことは 自分にとってとても新鮮で勉強になったと思う。地方の一村をたずねて、こういう 昔の村の歴史や生活様式を調べることは自分の見分を広げることもできるし、将来 の人達にとっても、とても大事なことだと思う。これから専門に上がって農学につ いて学ぶが、今回の田の歴史などが少しでも生かせれば良いと考えている。 ( 斉藤 真 ) 今回の調査によって、歴史を学ぶ楽しさというものを改めて感じた。また、今回の ような調査はこれまでしたことがなく、とても良い体験でもあった。昔の生活や、 文化の一端にふれることができたのではないかと思う。この経験は今後、きっと役 に立つものになるだろう。 ( 岡田 直 )           調査日時:平成11年7月11日  調査地:佐賀県山内町立野川内山口   吉岡 愛 永田 依里  行動計画:12:30-15:00 都知木さん宅にて、都知木さん、大宅さんに話を聞く。 15:00-15:30 森さん宅にて話を聞く。  調査にご協力いただいた方のお名前:大宅 千万亀さん(大正9年10月24日生)                   森 一夫さん(大正12年生)    *しこ名一覧*   村名  場の種類   小字           しこ名                  山口    田  山口    ナカオ(中尾) イデ(井手) トチギ(都知木) ヒサベ(久                    部) イグチ(井口) ミヤザキ(宮崎) ナカヤマ(中山)                    ナカハラ(中原) ヨシオカ(吉岡) ナガタ(永田) マツオ                   (松尾)         畑    横畑    タシロ(田代) ミヤザキ(宮崎) ナカハラ(中原) ノガタ                   (野方) イデ(井手) ナカヤマ(中山) クサバ(草場)                    ナガタ(永田) ヤマグチ(山口) マツオ(松尾) サカイ                   (坂井)              立畑    ヤマグチ(山口) ナカヤマ(中山) ナガタ(永田) サカイ                   (坂井)        しいど(水路)     イデノカワ(井手ノ川の水路) ジャガミスイロ(蛇神水路)                 橋          ジャガミバシ(蛇神橋)   その他   田    館     フクシマ(福島) イデ(井手) モリヤマ(森山) ナカオ                   (中尾) ヤマグチ(山口) カワグチ(川口) マツオ(松尾)  *村の水利*   使用している用水名:井手ノ川の水路 蛇神水路(自然の流れを重視している)   用水源:木登池 日峯池(トンネルでつなげている。実用化はもう少し先だろう、とのこと)   昔の配水の慣行、約束事:特にこれといった約束事は無かったが、何か問題が起こったときにそのつど               お互いの話し合いで解決した。   昔の水争いの有無:旱魃などの場合には争いがあることもあったようだが、ほとんどの場合話し合いで            解決した。   特別水利に強い村の有無:特に水利に強い村は無かった。水については、なるべく皆に平等に回るよう               に溜池に村の人達が交代で番をして(番人)、水の量を調整していた。   川について:農業用水の多くを川の水でまかなっており、特に旱魃の年は使う量の方が多くて、昼間の         うちに川が枯れてしまう。夜に他の溜池などから水が流れ込んできて、翌朝には川の方に         も少し溜まっている、という繰り返しであった。  *5年前(1994年)の大旱魃について   どのような方法で水をまかなったか:[生活] 生活用水(飲料水等)は自衛隊からの給水があり、それを                    利用した。                    [農業] 雨が降らないため川の水が急激に減り、農業用水にも限                    界が出てきた。そこで田を優先して水をひいたため、枯渇してし                    まう畑もあった。田にひく水は話し合いによって皆平等に分配し                    た。川の水だけでは足りないような場合には、井戸のある家から                    井戸水をわけてもらったりした。田に優先的に水をひいたが、ど                    うしても水路、川から遠い田には水が届かず、だめになった田も                    あった。川の近くの田を持つ人達は、何とか自力で水をひこうと                    した。この旱魃をきっかけとして、ダム建設計画が持ち上がり、                    現在建設中である。このダム建設計画はこの旱魃があったから実                    行に移されたのであり、今だったら実行に移されていなかっただ                    ろう。   水対策:上でも述べたように、飲料水等の生活用水は自衛隊からの給水でまかなった。それでも水の量       が少ないために、風呂の残り湯で洗濯をするなどの水の節約に努めた。(洗車するなどもって       のほかだった。)   時間給水について:そのまま時間給水と呼ばれていた。時間帯は皆が家にいる夕方で2時間程度だった。            その時間帯で水を溜め、一日の生活用水にした。   もし、50年前に同じようなことが起こっていたら:今のように水路や河川がきちんと整備されているわ                          けではなかったから(基盤整備がなされていなかっ                          たから)、被害は更に大きなものになっていたと考                          えられる。   *村について*   圃場整備以来、米がよくとれる又はあまりとれない田の有無とその理由:     以前は川から遠く水があまりこない場所であまりとれなかった。また川の整備がなされていなかっ    たために、堤防の低い所は大雨の時に洪水で苗や稲が流されるなどの被害もあった。他には、土質の    違いも米の出来を左右した。現在は堤防をかさ上げするなど川の整備がなされているため、大雨のた    め水害を被ることは少なくなった。また、土質が悪い所には他から質の良い土を持ってくるなどして    土壌を整えているので、全体で平均して米がとれるようになった。   化学肥料が入る前:米の出来が田によって差があった。   化学肥料が入ったあと:普及事務所の指導で化学肥料が使われるようになった。土作りのための元肥、              その後追加して与える追肥など、その時期に応じて肥料を与える。米の量は化              学肥料を使っていなかった頃と比べて増加している。また肥料は農協に予約し              て買うことになっているが、その種類は様々で、田によって異なる。   戦前の肥料:まず第一に戦前の肥料としてあげられるのが山肥(山の草)である。これは、村共有の山         から刈り取ってきた草を、田畑を耕す場合に土の中にすきこんでいくものである。またこ         の場合、機械ではなく牛を利用した。次にあげられるのが人のし尿である。これは家々を         まわり集めた。そして、田ごとに設置されている大きな桶に入れて保存されていた。子供         がそれに石を投げて遊んだりしていたようだ。   電気、プロパンがきた時期:電気の普及は早く、戦前からあったようだが、それに比べてガスの普及は                遅く、昭和34−35年くらいだったようだ。   電気、プロパンがくる前の生活:電気がくる前の生活は聞くことができなかった。                  プロパンガスが普及する以前は薪を使用していた。その薪を手に入れ                  るために家族総出で山に入り、一年分の薪を取ってきて薪置き場に保                  存していた。最後の方の薪は、虫に食われているものもあった。                  また、炊飯器の普及以前には米はおかまで炊かれていた。(写真)                  現在のように、スイッチをいれれば炊くことも保温もできる、という                  わけではなかったため、女性は朝早くから起きてご飯を炊いていた。                  また、炊いたご飯を保存するのには、竹で編んだかごが使用されてい                  た。竹は殺菌効果があったため、保存にはよかったらしい。   村の共有林の有無:村の共有林というわけではなく、立野川内区共有の森林はあった。ここから生活に            必要な薪をとったり、肥料となる草を刈り取ったりした。また、村の人たちの個人            所有の山林の総計は約170haである。これらの山林を伐採し、薪として売ったお            金で公民館などの公共の建物を作ってきた。ちなみに、木材を買い取る業者は昔は            自分で山に赴き、牛馬で運送していたが、現在は諸費がかかるせいもあり、木材の            市場へ行って買うようになっている。   農協がない頃の米を売る方法:農協がない頃にも、その前進として早くから産業組合という組合があり                 そこを通じて米を売っていた。   青田売りの有無:無かった。   家族で食べる米の名前、保存方法、ネズミ対策:      家族で食べる米は保有米と呼ばれていた。保有米は、金属製の容器(ふた有)の中に保存されて     いたため、ネズミの被害にあうことは無かった。ただし、コクゾウ虫という黒い虫が米につく場合     もあったので、その場合は人体に無害な殺虫薬を米に混ぜていた。   種籾の保存方法、ネズミ対策:昔は、自分の所で作った種籾を籾倉と呼ばれる倉又は缶の中に保存して                 いた。ところが現在は、消費者が米をその品種で選ぶようになってきた                 ことから、品種ごとの種籾を農協から分けてもらったり、また自宅で育                 てる余裕がない人は農協から苗を買うようになってきた。   50年前の食事での米、麦の割合:米と麦を混ぜて食べてはいたが、その割合は家によって異なった。                  自分の家で食べる分の麦はぺちゃんこにしてから米と混ぜて炊いた。                  この麦も自分の家で作ったものである。その他にもお茶や菜種(菜種                  油にする)も自分達で作っており、自給自足の生活であった。   稗・粟が主食となることはあったか:食べることはあったが、凶作の年でも保有米分は確保できた。                    (売る分まではとれない)[   牛・馬は各家に何頭いたか:普通、牛・馬は家に一頭ずついたようだが、多い所では二頭いる所もあっ                た。性別は家によって異なっていた。牛・馬の他にもヤギ・豚を飼ってい                る家もあった。なお牛は肉牛で、乳牛ではない。   博労(ばくろう)はいたか。どんな人だったか:      博労とは、牛・馬の売買における仲介人のようなものである。子牛(子馬)を育てるのを専門と     している人と取引をし、そこで育てられた牛・馬をそれまで農家で働いていた成牛(成馬)と交換     する形で取引をする。博労は一つの村に二,三人おり、定期的(だいたい三年ごと)に農家を訪れ     話し合いをする。あまり長く働かせすぎると、年をとりすぎて食用肉としての品質がおちてしまう     ので、その前に引き取りにくるのである。ただし、もし牛・馬がケガ・病気等で働けなくなった場     合には、博労と連絡をとると、ちょうど働ける時期の牛・馬を持ってきてくれる。   「−・・ノウテ」と呼ばれる道はあったか:[小作道] 田や畑を仕切っている畦道を示す。田や畑を通                       る時の通り道であった。   塩・魚の入手ルート:農家では米だけでなく野菜も作っており、それを有田の野菜専門の売人に渡し、             現金もしくは塩・魚等と交換していた。魚は塩つけの鯨が多く、一年分まとめて             買ったりしていた。農家では肉を食べないので鯨が主体であった。中には野菜専             門の売人にではなく、自分で直接有田まで売りに行く人もいた。有田とは繋がり             が強く、出稼ぎも有田への依存が大きかった。   村の神様、祭りの形態など:「八幡さん」=八幡神社  昔は季節ごとに村全体で花見や祭りなどをし                ていた。田植えが終わると、稲が虫に食べられないように、と田祈祷をし                てお札をもらい、それぞれの田にさしていた。また、村でぼたもちを作り                皆で食べたりしていた。つまり、村の結びつきが強かった。                 今でも田祈祷はあるが、その他に村全体で行う行事は、お盆前の掃除と                草ぬきくらいになった。現在では村の結びつきはあまり強くはなく、近所                にも無関心。  *その他*   映画もテレビもない時代に何をして過ごしていたか:     [夜にする仕事] 裁縫(女性)     [昼間遊ぶ] 五目並べ(男性) まりつき お手玉 あやとり(女性)     [夜遊ぶ] 五目並べ 将棋 酒を飲む 話をする(男性) 裁縫 お手玉 あやとり(女性)     [天気の悪いとき] 売るためのわら細工(むしろ:梱包に使われる)を家族全員で作っていた。子供             がわらをうち、お年寄りがむしろを編む。   力石の有無:力石は無かったが、腕相撲や相撲大会(12月16日の八幡さんのお祭りの中で)はあった。   若者たち:「くらぶ」に集まっていた。他の村の若者とも交流があり、酒を飲んだり話したりしていた        結婚する場合には、相手は親が決めるため、自分の意思ではなく親の言う通りにした。  *村のこれから・・・村の姿の変わり方と今後     村の姿として、以前は村の団結が強かったが、現在は隣近所にあまり関心がないなど、団結力はそ    れほど強くはなくなってきているということは、前にも述べたとおりである。また、村よりも小さな    集団である家族の中でも、以前は家族が協力して農業をやっていたのに、現在では親は農業をしてい    るが子は他の職場に働きに出ており、休みの日にも手伝うことは少ない、などのケースが多くみられ    る。このことから、現在農業を営んでいる人達の中には「先祖からの土地を守りたい」という意識    を持っているものの「自分の代で終わるかもしれない」という危機感を抱いている人も少なくない。    実際、村から見えるところでも棚田が減少し、基盤整備されたところが使われているくらいである。    一度放棄田となってしまうと再び整地して田に戻すのは、経済的・労働力の問題からもほとんど不可    能であるのが現状である。     なぜ農業を捨て、他の職業に就く人が増えているのだろうか。その理由として考えられるのが、農    業のみによる利益の少なさである。最近の減反政策によって大幅に減反された田に、いくら新しい機    械を導入しても、得られる米だけではあまり利益にならず割に合わないため、他の仕事をして働いた    方が利益になると考えられているからである。    また、農協から農業普及委員(=流通指導員)が来て、研究所の土壌調査の結果をもとに農家に指導    しても、田によってその土壌性質が異なるため画一的な教え方になってしまい、良い結果に結びつか    ない。農家自身で研究することが最善の方法なのかもしれないが、実際にそれを行っているのは山口    村の農家154件のうち、ほんの14件ほどである。これは、現在、目の前にある利益を追ってしまいがち    な若者には、気の遠くなるような話なのかもしれない。     農業とも切り離せないところで問題となっているのが、村の高齢化・少子化の問題である。村の人    口分布表によると、村の全人口1646人の内、生産人口と呼ばれる15歳ー60歳の人口は1047人となって    いるが、その大部分を占めるのは今まで頑張ってこられて生産人口から出ようとなさっている方々で    ある。また、これから生産人口に加わってくる0-14歳の人口は、325人と全人口に占める割合が低く、    暗い見通しとなっている。     以上のことから、村が今後取り組んでいかなければならないのは、村の高齢化・少子化に対する対    策を考え実行におこすことと、農業の難しさを知った上で拡大が必要な農業用地の確保である。  *今後の日本の農業への展望*     減反政策、輸入の拡大など、今後の日本の農業は厳しい状況におかれるようだ。生産業・畜産業だ    けを中心に、暮らしを営んでいくことは難しいだろう。     だが、そういう状況にただ流されるのではなく、機械類や農作物の輸出を増やすなどして、適応で    きるように対策を練っていかなければならない。 山内町立野川内柳原 渕上 桂子 田中 邦典      井出 運太郎 さん   大正13年4月27日生まれ      井出 雪雄  さん   昭和4年4月26日生まれ         調査をした山内町立野川内の柳原は基盤整備のため境界が変わって   いたため、事前に調べた柳原の位置とは多少異なっていた。 行動記録:はじめに柳原橋まで行き、ダム建設があることを知った。        井出雪雄さんのお宅におじゃましたところ、井出運太郎        さんを紹介していただき、雪雄さんと運太郎さんにお話        をうかがった。   しこ名 小字柳原 アランキリ、ナカガミ、ジンゴロウ 小字日峯 ヒダカキ、スミダ(墨田) 小字横畑 ショウジンクウ、ヤガクラ(矢ヶ蔵?) 小字松ノ木原 (マツノキバル) コウミテ   橋 日ノ峯橋 ダム建設の関係でつくられた 中神橋 林道の関係で移動 山ノ上橋 ダム建設の関係で移動 コウミテ橋 昔はまだ無かった 小字山口には『クツワイデ』と呼ばれる場所があった。(狭い範囲)  ここは有田まで薪を運ぶための馬を休ませるための休憩所であった。  またここには『バトウ観音』と呼ばれる観音像もあった。 横畑には今はもう無くなってしまった道があり、その道は上記の 『クツワイデ』で合流していた。  ・柳原橋を渡ったところに林業の作業場があったが、現在はダム建設 の事務所となっている。  ・その林業の作業場の北側には『イデンカワ遺跡』と呼ばれる遺跡が  あった。また柳原橋から南西方向には『イデンカワ水路』と呼ばれる  水路があった。 『イデンカワ水路』が通った谷は、昔『ゴエモン谷』とよばれ、その 南部には『ソマダン谷』とか『ジンベエ谷』と呼ばれていた谷がある。   お話によると「谷の名前は、その付近の地主の名前からついたのでは   ないか」ということだった。 小字松ノ木原のコウミテにはそこを流れる川の水利権があった。 ・コウミテには『山神様』と呼ばれる神様がまつってある祠がある。  この『山神様』には、林業関係の人々が1年の安全を祈願して、毎年  1月9日に『初山神さん(はつやまがみさん)』、1年の安全を感謝して、  12月9日に『終山神さん(おわりやまがみさん)』と呼ばれるお祭り  が行われ、この両日は祭日とされている。神様は南や東を向くのが  普通であるが、『山神様』は北を向いており、なかなかお願いを聞いて  くれないしたたかな神であるらしい。そのため神主も慎重に御払いを  するのだが、ダム建設のため掃除もしなくなっているのが心配である  らしい。 ・小字横畑のヤガクラはバイパス建設の際に、矢じりや陶磁器、黒曜石  が出土したため遺跡調査を行った。この付近の山は『カンノン山』と  呼ばれ、太古の昔、狩人同士がなわばり争いで激戦したところであった。  ヤガクラはこのための武器の製造場所であったのかもしれないらしい。  従って「ヤガクラの由来は、『矢ヶ蔵』からきているのではないか」と  いうことだった。また遺跡調査で、狩人一団の住まいも見つかり、皮を  はぐ包丁やかまどの跡も出土した。 日峯池の南部、有田方面の道は『ワランコエ道』とか『フッコバ道』と 呼ばれていた。 ・木登池の北東部には『盗人岩(ヌスドイワ)』と呼ばれる洞穴があり、盗人 がここに身を隠し、食料や衣類が隠されていた。  ・この地区に電気がきたのは大正10年で、それまでは、なたね油や石油   ランプを使用していた。電気がきたときは各家から1本の木の電柱を出し   電気を引いた。プロパンガスがきたのは今から40年くらい前で、それ   までは薪を山に取りに行き使用した。また現在もお風呂は薪を使用して   おり、大工さん達は薪を処分するのにお金を出さないといけないので、   捨て木をもらって薪としている。 昔、米は庄屋や米屋に売っていた。保存は籾の状態で保存した。  籾には虫がつかないので、籾の状態で俵に入れ、2階の『ねだ』と  呼ばれる所にあげて保存した。夜『とうす』で皮をむき、臼でついて  精米した。 5年前の大旱魃のときは、ポンプを使って川の水をくみ上げたり、  川の湧き水を使用した。お風呂の水はくんだ水を使用し、飲料水は  自衛隊の給水車による水を使用した。また40年前にも大旱魃が  あったらしく、当時はポンプなどが無かったため、川の脇を掘って  池をつくりくみあげた。 南部には若者たちが夜、力比べのために相撲をとった『カクノクラ』  と呼ばれる場所があった。また木登池近くには、風流を楽しむ  『風流谷』と呼ばれた谷がある。柳原東部には、遊び場としてや  恋人たちが会う場所として『チョンノクボ谷』と呼ばれた谷がある。  ここの洞穴は出入り口が狭く内部はとても広いものであった。     柳原の今後 柳原付近は10年に2回は渇水があるために、現在建設中の『木登ダム』 を優先的に使えることになった。このダムは日峯池のダムとつながって おり関連ダムとなっている。 水 … ダムができる事によって、水の心配は一応ないのだが、ダム      ができて栄えた町は無いため、とても不安に思われていた。      発達するかどうかは、政策に期待するところであるそうだ。 ・風 … ダムができる事によって、風が変わってしまう事がある      そうだ(下図)。                        水蒸気               南風                       北風       ダムの下は空間になり風がこなくなり、北風が厳しくなる。       このための農作物への影響が心配される。 酸性雨の心配は無いだろうとおっしゃっていた。 渇水のときのほうが収穫も結構とれたので、普段は農作物に水を やりすぎているのではないか?「稲はどんどん干せ」 ダムができても地元にはあまり利益はない。むしろ伊万里、唐津など が潤うための犠牲となっている。 国や県が調査して強引に建設していくので、結局、涙を飲むのが地元。  地元の要望が「予算がない」といって聞いてもらえないので、地域的  に見てもらえる方法があれば幸いとおっしゃっていた。


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