附防調査報告

                                                        佐々野綾

                                                      重光まなみ	

調査日:平成11年12月26日

語り手:樋渡政実(昭和5年11月23日)

        渡辺隼人(昭和5年11月22日)



しこ名

村の名前    若木町附防

しこ名一覧  小字 次郎ヶ谷のうちに......岡元(オカンモト)

            小字 小開のうちに.............小峠(コトウゲ)

            小字 道免木のうちに.........道免木(ズウメキ)



ノウテ(縄手)

ノウテ一覧  楠川橋〜鳥井出橋...............オイナリサンノウテ

            楠川橋〜小峠橋...................ジゴクノウテ



その他

その他一覧  小字 大畑のうちに.............団子掛松 (ダゴカケマツ)

            小字 小開のうちに.............矛さん(ホコサン)


<しこ名の由来について>

道免木(ズウメキ)

  神功皇后時代のお側役である武内宿禰(200年生きたといわれている)は、人望が厚

くそれをねたんだ弟が応神天皇に何やらよからぬ事を企てていると密告したのだった。

そしてついに、天皇は討伐の令を出し追われる身となったのである。

そのとき、彼を信頼する壱岐真根子神(イキノマネコノカミ)は、たいへん武内宿禰に似

ていたため、身代わりとなって自らとらわれた。しかし、刑場に運ばれる時に偽者である

ことがわかり自殺してしまったということだそうだ。

壱岐真根子神をかわいそうに思った武内宿禰は手厚くまつった。若木の村社である伏尸神

社に今でもまつられている。

また、武内宿禰は子孫に姓を「壱岐」と名乗るように命じたということで、今でも子孫の

方が壱岐におられ若木町に二度ほど訪ねてきたそうだ。

「胴埋地」という字の由来は真根子の遺体を運ぶ際に川古にさしかかるあたりになると遺

体が重たくて仕方なくなってしまいその場に埋めることになった。その、遺体を埋めてあ

る地ということに由来している。真根子の遺体は他にも小塚(コヅカ)や金の御前(カネ

ノゴゼン)といった所にもまつられており、きれいな姫が埋められているという言い伝え

もある。

この話は、村の歴史をまとめた本にも書かれているが、渡辺さんはお母さんから聞かれた

ということだ。



<その他>

矛さん(ホコサン)

田を作ったりする、耕したりする時、地面に埋まっている石を一つに集めて小山をつくっ

たが、それがなぜ神様と結びつくのかはわからないということだ。

平たい石を5つ積んだ、五輪さんがあるが触るとたたりがありそうなので、あまり触りた

くないと言っていた。



古登比羅さん(コンピラサン)

附防地域では、12・1が祭りである。そこで8つに分かれた隣保班(町内会)でそれぞ

れに参りに行く。明治32年2月に附防の上に位置する永野から移されて建てらたこの社

には古登比羅大神とかかれた石碑が残っている。



団子掛松(ダゴカケマツ)

昭和21年に枯れてしまったのだが昔この松にお弁当の団子(ダゴ)を掛けていたことより

ついた。現在地元の小学生によって補植されている。

<附防区の成立について>



区:一番小さい自治体集落



元は川内(カワチ)区の一部であったが昭和14,5年に附防区として独立した。書類上

では大正13年に分離している。

初めは15,6戸だったこの地域も、現在では210〜214,5戸になっているという

ことだ。

もともと、通称上若木(カミワカキ)といわれる、菅牟田(カンムタ)、川内(カワチ)、

永野(ナガノ)、中山(ナカヤマ)、御所(ゴショ)の五つの地域の交通の要として発展し

ていった。またここは、附防という名前の他に小峠(コトウゲ)という通り名がある。

この小峠とは、楠下橋から小峠橋までの道が坂になっていることからついた。また、この

道は伊万里〜佐賀間の最短道路であった。小峠の先に女山峠(オンナヤマトウゲ)があり、

冬になると凍結するため現在トンネル開通工事が行なわれている。完成したら、再び主要

道路として交通量が増えるのではないかということだ。

「附防」という字は、昔は「附房」や「附坊」など幾種類かが普通に使われていたが今か

ら20〜30年ほど前に「附防」に統一された。附防区の一番古い公式な書類(大正13

年)には「附房」が使われている。

なぜ現在の字に決定したかはよくわからないということだ。

だから、附防地域に住む人のルーツをたどるとほとんどがこの上若木から来た人たちだと

言う。



電気

大正11年に川古宿、本部宿に電気が導入された。これにより水車が廃止され、電気によ

る精米所が作られた。

電気料金は一棟につきいくらというふいうになっており、どの部屋にもあるわけではなく

一軒につき二つくらいあったということだ。

単位はワットではなく「燭光」を用いており、豆電球くらいの2燭光からお祭りの時など

に用いる100燭光があったそうだ



雨乞い

雨が降らなくなると、この地域の人も雨乞いをしたということだ。

その方法は、竹筒に塩水を入れてそれを氏神様に差し上げるというものである。

なぜ塩水かというと、塩辛い水を飲んだ氏神様が、喉が渇いて水を飲みたくなるために、

雨を降らせるというからと言われている。

塩

塩を買うようになるまでは、高橋(タカハシ)〈現武雄北方インター〉まで有明海の海水を

取りに行っていた。

塩はとても貴重なもので、終戦後24,5年までは大事な仕事として行われていた。方法

は、海水を夜通し2日間炊きつづけ濃度をある程度濃くしてから最後に塩分を強くするた

めに生の大豆を加えるというものだった。塩と大豆に因果関係があるのだろうか?



青年団〈青年倶楽部〉

若者たちは皆、ある一定の時期を青年倶楽部に入って過ごした。これは、村の自警団的な

役割までも担っていたため、たいへん意味のあることであった。

青年倶楽部に入る歳は、数え年で16歳であり、これは義務教育課程終了後である。彼等

は「小若衆(コワッカシュウ)」といわれた。

これに対し「大若衆(オオワッカシュウ)」は24,5歳までの結婚前の青年達である。

青年倶楽部は結婚が大きな節目であり、結婚を機に脱団した。

若者達は夕食後に公民館に集まって、皆で寝泊まりして話したり騒いだりいた。普段は、

自衛団的に活動しており、火事の際には消防団として活動したり誰かの出産の際には走っ

て産婆さんを呼びに行ったりした。

他には、素人演芸で遊んだり、11月30日の夜からのお唄(オウタイ)の練習をした。

さまざまな年齢の若者で構成されるこの青年倶楽部のなかで生活することによって年上の

若者から礼儀やお唄を教えられた。こうすることによって社会人としての一般的な常識を

身に付けていくのである。

青年倶楽部は男女で別組織であったが、合同で活動することもあり、男女が知り合う貴重

な場でもあった。現在では、2,3年前からもう青年倶楽部というものはないということ

で、若者の減少だけでなく、若者達だけで何かをしようという意欲が見られないことを嘆

いている。



昔の古い道

今、旧道となっている所にあたり、昭和42,3年にバイパスが完成した。それ以前にも、

定期バスが通っていたということだ。



祭り

村にはいくつかの祭りがあるが、12月1日の米の収穫後に行なわれる秋の祭りが今でも

残っている祭りである。これは「神待(カンマチ)」といって、11月(神無月*正しくは旧暦一〇月)に出雲大

社に行っていた神様が12月1日の早朝にお戻りになるためにそれを皆でむかえるそうだ。

この地域の氏神様は、豊受神社(トヨウケジンジャ)の豊受姫(トヨウケヒメ)だという。

12月10日に行われる古登毘羅(コンピラ)さんのお祭りは、全国的に10日に祭りが

行われている。ここの地域の金毘羅さんの字は、讃岐とはちがっているが、なぜなのかは

わからない。また、昔は、耳が遠い人のことを、耳がとおか(10日)から「あの人は古

登比羅さんじゃのう。」と言ったそうだ。〈どっと笑う〉

ずっと以前には米ができた当座の11月15日には、「お日待(オヒマチ)」といってお天

道様への感謝の気持を表す祭りが行なわれた。青年達と、隣保班の人達で、14日の夜に

米を蒸し、15日の朝、太陽が昇る前に塩味で煮た小豆をまぶしたまるいもちと、ナマコの

形に似せたナマコもちをそなえた。これは、太陽と月の形に似せているのではということ

だ。

他には11月30日のお唄い(オウタイ)がある。これは謡曲のことで、地区の青年が神社

にこもり文字通り一晩中お唄を歌って神様を待つというものである。

〈渡辺さん詩吟披露〉





品物の行き来

附防の場合、農家は半分ほどで商売人が多かったため、様々なものが行き来したようだ。

主な店として、魚屋、床屋、鍛冶屋、桶屋、畳屋、精米所、酒屋、雑貨屋、医者、温泉(若

木温泉)そして寺があったそうだ。基本的に品物はお金で買い、物品交換ということはほ

とんどなかったという。ただし、昔は殆ど食料品は自前だったためお金がなくても2,3日

は暮らしていくことができる、今と違ってのんびりとした時代だったということだ。



農業について

農家は、稲の後に麦を植えるという二毛作によりほとんど切れ目なく田を使っていた。

5反(50アール)もあれば、いい百姓だったそうで、豊作の年には1反で7俵(420キロ)

がとれたという。干ばつなどの時には2,3俵しかとれないこともあったが、平均して5,

6俵がとれたということだ。また、良田、悪田というものは特になくとれないときには皆

どこもとれないといった感じだそうだ。

農家では、自家米として一人当たり2を取っておいた。種もみの分は、5反で2俵ほどと

そんなに多くは必要なかったようである。



肥料について

昭和45年くらいまでは人糞も使われていたが、現在では使われていない。石炭チッ素以

降は硫酸アンモニア(チッ素)とカリン酸石灰(リン酸)が使われていた。いまのように、

化学肥料が混合されているのではなく、自分達で、単品を混合して用いていたそうだ。



米の保存について

農協ができる以前には、米商い(コメアキナイ)と呼ばれる人たちがいたということであ

る。売る時期は、お金がない人は青田の時期にもう売ってしまい、お金持ちの人は、米が

品薄となる端境期に売ったということで、貧乏人にはいつもお金がなくあるところにはあ

るということを言っていた。

地主は各区に2、3人ほどいたそうだ。自作農は農家全体の3分の1くらいで、残りは小作

農として米を作っていた。小作農は、一反につき2、3俵の借り賃を地主に払わねばなら

ず、その生活は苦しかった。

米というものは、昔は様々な物品の計算基礎となっており、米に換算することによってそ

の時代ごとの貨幣価値が分かる。

たとえば、奉公に出ると一年で俵の米が支払われたし、親が亡くなった場合、子供は香典

として米を1俵づつ庭先積み上げたということだ。また、附防地域では、この地区に住む

ために[加入米(カニュウマイ)]というものを支払うことになっている。昔は、1石2斗

の玄米を収めることになっていた。分家した家族は、1斗1升でいいことになっている。

ちなみにこの決まりは現在でも残っている。もちろん、今となっては米で支払う人はいな

いそうだが、米でも別に構わないそうだ。

どの家にも籾倉があり、籾殻がついた状態で保存しておき、食べるぶんだけ籾摺りして食

べていたそうだ。米缶缶(コメカンカン)といわれる大きな缶に保存している場合もある。

しかしもう使われなくなって粗大ゴミ行きになっていることもあるようだ。

戦時中は麦をかなり食べたそうだが今ではもう食べることもないそうだ。粟は、粟飯や、

粟もちにして食べていた。粟もちに関しては、今でも珍し物として食べることもある。附

防地区では、稗は作っておらずどうやって食べるかは分からないということだ。



共有地について

入会山(イリアイヤマ)といわれるこの地区ごとの共有地は附防地区では本部ダム付近の

村山(ムラヤマ)にあたる。

ここでは、立ち枯れた枝は誰でもとっていいことになっていたので、燃料の薪を拾う人も

いた。以前、地区から離れて遠くへ行くときにこの入会山も自分の一つの財産としてもら

う権利があるのではないかという入会権が問題になったこともあるらしい。

薪はここで拾う人ばかりではなく、自分で作る人もいれば、またそれを売る人もいた。



家畜について

現在では、労働力が機械化してしまったために家畜は飼われていないが、昔は、馬や牛を

飼っていた。耕運機代わりの大事な労働力としてたとえ1反の田しかなくても飼っていた

そうだ。雌牛か雄牛かは買う人の目的によって様々であり、貴重な現金収入として子牛を

生ませて売る人もいた。その際仲買人として馬喰(バクリュウ)とよばれる牛馬商の人が

いた。博労(バクロウ)と書く場合もあるが、ばくろうがなまってばくりゅうになったの

だろうという話だった。附防地区にも10人ほどいたそうだが、人柄は面白くて酒飲みが

多かったそうだ。指を握って売り値を決めるという方法を取っていたそうだが、案外間違

いが多かったという。

馬は、最高で2、30頭いたそうだが、牛が多かったので馬洗い場というよりかは牛入れ

川と呼んでいた。戦時中は馬にも召集令状が来たので校庭などで乗馬訓練も行われていた。



ノウテ(縄手)について

ノウテとは、人里の途中の道で、風が強く寒いというイメージがあるそうだ。附防地区に

はオイナリサンノウテ、ジゴクノウテなどがあるそうだが、漢字までは分からないという

ことだ。



シュウジ(小路)について

自分の家のことを指す。今で言う隣保班のことは講内(コウチ)、または古賀内(コガウチ)

という。



遊び、若者の生活について

青年倶楽部に入っている若者たちは夕食後ともに過ごしたため、仲間内で遊ぶことが多

かったようだ。青年倶楽部の庭では力石(チカライシ)と呼ばれる70〜80キロ位の大き

な石を投げる力比べをしたり、11月15日の祭りの夜には小若衆が神様に供えるという名

目で野菜や干し柿などをかっぱらったそうだ。今考えると、野菜などはともかく手のかか

る干し柿をいっぺんに取っていったりするのは残酷だと思うが、当時はそこにスリルがあ

ったそうだ。しかし、遊びといっても普段は若者は仕事中心なので夜皆でおしゃべりをし

たりお稽古事をしたりするくらいだった。

意中の人のところへは夜這いという形で会いに行っていた。家族も含めてお互いに心得た

ものだったという。好き人のところにしか夜這いにはいかないし、好きな人しか受け入れ

ないのでそのまま結婚する人がほとんどだった。しかしこれは戦前の話で、いまではもう

法に触れるということですたれている。

集落外でお嫁さんをもらう場合は、相手方の青年倶楽部に酒を持っていって挨拶をしたそ

うだ。



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