御所地区に関する調査報告 調査日:1999年12月26日(日) 語り手:川内 豊 昭和4年5月12日生 松尾 末次 大正10年5月13日生 聞き手:加来 みを 河角 あや しこ名(村の名前:若木町御所) 田畑 小字脇ノ川内のうちに........八幡田(ハチマンダ) 小開のうちに............茶園林(チャエンバヤシ) 平松、祭田のうちに......樋渡(ヒワタシ) 九浦、万場のうちに......古屋敷(コヤシキ) 大山口のうちに..........柿木原(カキノキバル) 橘のうちに..............殿辻(トンノジ) 山林 小字火箱谷のうちに..........永尾(ナガオ) 九浦のうちに............陣屋(ジンヤ) 橘のうちに..............茅切谷(カヤキリダニ) 宅地 小字長谷口のうちに..........迎(むかい) 三本柿のうちに..........鳥居張(トリイバエ) 三本柿、森ノ元、九浦....堂本(ドンモト) 九浦のうちに............陣屋(ジンヤ) ∵村の水は? −ここは飲料水は水道。99パーセント水道です。 ∵水利とかは? −溜池と川。 あんまり渇水のときは足らんけんど、大体ここは川(永野川など)からが多かよ。 ∵94年に大旱魃があったときはどうしたか? −大体川の水は深みがあると、ポンプでくみ上げて、田んぼに投げてね。 溜池はぎりぎりまで水位を落として、そんなふうにして何とか乗り切ったね。 なんかしたの部落といざこざがあったりしてね。 〜水利権の話をしていただく。(水利権はなかなかあがんとらしかったもんね。) 溜池などで、水利はこの区が持ってるが、その水源の地区が違ったときなど。 永野地区との契約書を交わしたりして。以前の取り決めばってんね。 水ばもらおうと思ったら、ね。 何月何日から何月何日までは水を堤に入れても良い、といった内容の契約を結んだ。 (実際見せてもらった契約書では、10/1〜4/20までであった。) ∵古い道はどこを通っていたか?子供時代は。 −大体小字の境界線が元の県道 裏のこまかか道があったね、あれが今の字の境になってる。 市道もあった。 今でも市道か? −今は改良して新しい道になっとるけん、元の道は車はとおらん。 ∵このへんは山村ですけど、むかしは塩とか魚とかはどこから来たんですか? −私のじいちゃんがおったときは塩屋さん、魚屋さんやったけんね。 附防という部落に店があった。 30年くらい前まで、塩は専売品やった。 終戦後は塩が足らんごとなった。伊万里まで塩炊きに行った。伊万里まで、馬車に まきをつんでいった。2晩でカマギ一杯分(米俵のようなもの)くらいしかとれんとよ。 政府も塩は専売品だったが、大目に見てた。 魚は高橋というところに魚市などがあった。そこから、魚屋が運んどった。 馬車に積んで、っていうか車力で引っ張って。 じゃあ、結構食べられてたんですね。 −今んごと食べはせんばってんが、今より粗食やったから、おいしかこともあったね。 塩鰯を焼いて食うてね。 塩炊きに行って、魚市で、魚屋さんから木で作った箱をうまいこというて、もらってから、 それをまた2〜3人で分けたりした。 今は肉が多くていかん。 ∵50年前に旱魃があれば、雨乞いはしたか? −雨乞い、あった。経験がある。高橋まで塩水を汲みに言って、それを二つに分けて竹筒に入れて (25cmくらいか。)村社(町で一番偉い神社)と部落の氏神さんにそなえて、恵みの水をお 願いしとった。 もうひとつは、繭山ってとこに一年中水の切れんとこがあった。(龍王さんとよばれている。) もうひとつはセンバタキちゅうて、何やかんや持ち寄って、山の上で燃やして、雨雲を呼ぶ。 もうひとつは太鼓を打ち鳴らして、雨乞い。樋渡(しこな)の小高い山で雨乞い。 とにかく田んぼという田んぼが焼けてしもうた。 効果はあったか? −(一同笑)いつかは降ったっちゃけんね、まああったといえばあった、なかったといえばなかった。 偶然といえば偶然。黙っとっちゃおられんから、気休めよ。 あんたたちが、大学、高校を受けるときに大宰府神社にまいるのといっしょさ。 勉強せんけりゃ、受かるわけなかもんね。気休めやもん。 そんなふうにしてね、だいぶん苦労したっちゃ、苦労したとよ。 水も川も魚でも、なんもかもぜんぶ死んでしもうた。飲み水がなかった。 谷から水を汲んで生活用水にした。それが枯れてしまった。 ∵電気はいつごろついたか? −私たちが知らんように昔から、あった。 大正10年か11年にはわしの家にはきとったとは思う。 今は全家庭が自由に電気を使えるが、当時はわりかた公共の場所では従量制(一日中電気が ついてる。)だが、家庭では、ていかくせい(電気線が別にあり、契約した後、夕方5:00〜 6:00くらいから送電)。「あー、電気のついた、はよかえらんば。」 電気も中心のところに、一ちょしかなかった。(20wか40w。へや全体が明るくなるわけ じゃなかった。) 戦争中になるとそれも足らんごとなった。同じワットでもボルト数を下げるわけ。 裸電球はぼやっとつく。ろうそく送電とかいいよった。 もっと厳しくなると、線香送電とかいいよった。ついてるだけで、針仕事なんかはできんやった。 戦後、すべての家庭がジュウリョウ制になった。昭和35年ごろ工事を見た。 自分が使いたい放題に。「ぜいたくになったね。」 ∵プロパンガスはいつ来たんですか? −戦後は戦後。昭和30〜34,5年ごろか?(あまり記憶にないよう。) それまではまきを使ってた? −そうそう。だから、2000年問題も心配なかよ。 その代わり、小さい子供たちまで、「今日は共同風呂の風呂当番だけんが、、風呂わかさにゃ いかんけん、まきばとってきとけ。」というかんじで、裏の山にいっとった。 ∵入り会い山はあった? −誰がまきをとっても良い山は、モヤイヤマ。(区有林。) (入り会い山はこっちの部落の山が向こうの部落にあって向こうの山がこっちにあって、 というかんじのもの。) 薪は冬中の仕事だったけんね。 若木の中でも御所は一番多かった。以前は山を売って金は全部生み出しよった。 ∵農業以外の収入は? −戦後26,7年みかんとか、タバコがいっしょにはいってきた。 タバコは10年くらい続いた。よか金がとれた。 みかんも収入はよかったばってんが、産地に押されてしまい、あんまりぱっとせんかった。 農業は後は、米麦のみ。今は、米だけ。 あとは、弁当もって、日帰りで出稼ぎ。普通は武雄北方。職種は、土建業。 それで、細々と(笑)生活してた。 ∵村の祭りはどんなものが? −今現在残っているのは、8月15日の大綱引き。普通の綱引きじゃない!!直径60〜70cm、 長さ50mの綱。もとは毎年やりよったけど、今では1年おき。なぜかと言うと、いまではひとが おらんわけよ。御所全員合わせても、160〜170人。一番思い出に残っているのが、皇太子殿 下(今の天皇陛下)が見にこられたとき。 ∵では、昔はもっとお祭りが多かったのか? −7月14日の鐘浮龍(地元の人は“かね”と呼んでいる。)面をかぶったり、太鼓をたたいたり… でもこれは戦争前のことで、戦争で途絶えてしもうた。 8月31日の八幡さんの祇園舞じゃね。終戦後は、“素人演芸”ゆうてから、踊りの詩なんかを 読んで、習って、踊ったりしていた。どこそかの役者さんを雇って、これはもうだいぶ派手にやっ ていた。でも、人が減少して、これをする人がいなくなって、とうとう途絶えて、今では、8月の 末には、お参りするだけになってしまった。 ∵自分たちのころは? −終戦後、男も女も踊りを習って、男は芝居もやったりしていた。各国で、流行ったよ。 7月14日の祇園のとき、お地蔵さんに、豆ドンをたいて、お茶請けにした。ほかにも、おみくじ を作って、その売上で、盆の綱引きのちょうちんの張り替え資金にした。 御所には、44戸で、子供は、13人しかおらんとよ。 もとは、綱引きのときは、青年組対子供組に老人組をまぜたものだった。 綱引きちゅうても引っ張り合いはするばってん、盆の15日に、地獄の釜の蓋のあくっちゅう時、 地獄に落ちた人ば、引っ張りあげるちゅう言われの綱引きじゃけんね、よその綱引きとは違う。 おもしろおかしく、歌でもうとうて、 (歌)盆の綱引きゃどうなたさんもご苦労、ご苦労ながらもおもしろや エイトエイトサートコユウチャエイトエイエイト 御所で名所は弓かけ松よ、松は枯れても名は残る うれしめでたの若松様よ、枝も栄えて葉もしげる 御所綱引きゃ歴史が古い、鎮西八郎のむかしから (綱引きがニュースで取り上げられた時のビデオを見る。) ニュースによると歌は1〜16番まであってこの歌を地区の子供たちに覚えてもらおうと、 8月に入ってから、小中学校の子供たちに指導してきた。以前はどちらにつくか年々決まって いたが、今では明確な区分けはなく、みんながわきあいあいと綱引きを楽しむ。また、だれでも 自由に参加できるので、よその地区からもたくさんの人が、応援にかけつけていた。 ∵米の保存は? −わらで編んだカマギ囲炉裏の上に虫のつかんごとあげといた。 梁の上に載せてね、貯蔵しとく。 昔の人は、生活の知恵で、(エヘへ)虫のつかんごとね、。 ∵家族で食べるお米は? −保有米という。 保有米は梁の上にあげてね、出す分は、すぐに出しとった。 その当時一人、150kgくらい食べる。(今は一人60〜70kg「それで米が余るわけ。」) 昔は田舎の人なんか、一日に四回も米を食べとった。 ∵昔は村で、牛とか馬とかかっていたか? −各家に一頭はいた。使役用でね。水田を耕すためにね。で、戦後になると繁殖用に二つか三つ かって、販売する。農業収入がないため。 ∵隣にいく道は? −里道。(さとみち)早いから、畑の中をとおったり。 県道とは別に各家にあった。どこでも車が通る必要がなかったから、狭くてもよかった。 ∵テレビも映画もない夜、若者たちは何を? −青年クラブ。公民館に宿泊施設みたいなんがあった。(よそではわっかもん宿) そこに学校卒業して嫁さんもらうまでの人は、いって寝泊りしとった。青年宿。 ただ、むりやりじゃなく、先輩たちがいろいろ世の中の事なんか教えるわけ。 その当時は、みんなが、中学、高校に行く時代でもなかった。 月に一回くらい集会をした。どっか学校の先生なんか呼んでね、勉強もしよった。 当時、進学するのはクラスに5,6人。頭が良いばっかりではだめ。問題はお金。 昔、裕福でない人が多い。 女の子は自分の家で家事手伝いや裁縫を習う。昼はよそのお師匠さんの家に習いに行く。 ∵力石は? −あったよ〜〜〜〜。(懐かしそうに笑う。)青年クラブで。 一番大きいのが140ケン(70kg)二番目が80ケン(50kg)。二つは大体あった。 強い人も弱い人も。最近は力石を持ち上げる人もおらんし、石そのものがどっか旅行してしもうた。 昔は公民館の庭に。「よ〜〜しよった。」(ちょっとさびしそう。) 今の御所ではシゲちゃんが担いだ。 ∵干し柿泥棒は? −干し柿泥棒は青年たちの特権やった。部落の人たちもそういうのを大目に見てた。 夏はスイカ泥棒をしにいって、公民館はスイカだらけになった。祭りのとき作った団子が、 裏の方につってあった。それをとる泥棒さんもいたが、準どろぼうもいた。 ∵よその村の若者が遊びにくることは? −一時は相撲がはやって、もう御所じゃ飽きたらず、附防などに行っていた。(いわゆる交流試合。) 別によその人が来ているからって気になるって事はなかった。拒むことのまずなかった。 (ちょっと沈黙の後)しかし、昔は良かった。 今、2000年問題で、もしかしたらもう一度1900年が来るちゅうが、ほんとにくりゃ−せんかな。 ∵昔はどんな風に男女が知り合っていたのか? −青年クラブに泊まっとって、夜遊びの練習はよ〜しよった。(笑いながら) 夜ばいの真似事みたいなのも、しよったよ。 嫁さんが遠ければ、腰に弁当を下げて、尋ねていく。 しかし、昔は、車もないので、みんな近くの人で結婚してたが、 今の人は、交通や通信が発達してから、遠くの人とも結婚するようになった。 ∵恋愛の自由はあったのか? −親に反対されようが何しようが、本人たちの意志で決めること。 親に隠れてでも、堂々とでも、恋愛していい。 そもそも嫁は、親の嫁じゃのうて、息子の嫁じゃし、息子さえよけりゃいい。 その辺は、今も昔も変わらんよ。 “聞き合わせ”とゆうのがあって、近い人や親戚に頼んで、下調べ、または相手の気持ちの確かめ みたいなのをしていた。 ∵村は変わったか? −う〜〜ん。世の変わり方に比例して、変わりはしようばってんが… 過疎が進んで…10年経てば、30戸ぐらいになるかな。二人家族の老人が多いから。 この御所も、あと、10年以上もすれば、区として成り立っていかんで、隣の部落と合併 したりしていくんじゃなかろうか。 ∵小路は? −ここはそんなではわけんで、昔の戦争の名残で、隣保班とゆうのがある。 戦争中に10軒ぐらいを単位にそれをつくった(隣組制度のとき)。 この辺は50軒ぐらいだから、大体第一隣保班〜第五隣保班。 1〜3には特別な名はないが、4班は鳥居張(トリイバエ)といって、5班は、迎(ムカイ) でも5班でもよかった。 そこには班長さんがいて、なんでもしてくれるちゅうこと。 ∵化学肥料が入る前と後で違いが? −収穫は全然違う!! 以前は、化学肥料ちゅうのは、チッ素リン酸カリを買ってきて自分の家のと配合して、 田んぼに合った肥料をつくった。 昔は山から切った草を、有機質を、ようけ、いれよったわけ。 化学肥料のものは、見た目にはきれいかけど、食うたらおいしくない。ようけとれることは とれるので、金ばとろうと思えばいいけど…。おいしか米を取ろうと思えば、無農薬。 ∵場所によって取れ方が違うのか? −そりゃ〜ある。山で、埋め立てたものと、掘ったものでは、埋め立てた方が土が柔らかく、 深根がはいっていくので、よくとれる。しかし、水があまりない。 ∵御所での上等な田んぼは? −小字でいうと、平松、森ノ元、祭田、前田、大山口まで。 10a当たり10俵できっちゃろ600kg。 ∵品種は家によって違うのか? −その人の好き好き、または、家の繰り合いで。