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     倭城の保存をめぐる近況

             『日本歴史』606、110-119頁

服部英雄

(1)大韓民国指定史蹟の解除  大韓民国の南部沿海、慶尚南道を中心に倭城と呼ばれる遺跡が残る。文禄慶長 の役(壬辰の倭乱、丁酉の再乱)のおり、日本軍(豊臣軍)が築城した日本城で ある。これらは日本軍の撤退による廃城後、原則的には再利用されることはなか ったはずだ。日本国内の当該期の拠点的な城の多くが近世にも利用され、維持、 改修のために手が加わり続けたことと比べると、国外にあった倭城の場合には、 四百年前の石垣など構築物がそのまま凍結されて残っていることになる。築城技 術の点からみても、織豊政権期のわが国の築城史上、もっとも高度に発達した段 階のものがそこに残る。大韓民国所在の文化財ではあるが、日本軍が構築した城 であり、文禄慶長の役を考える上でも、また日本国内の城郭遺跡やその歴史を考 える上でも重要な遺跡であり、多くの研究者の注目を集めてきた。  倭城遺跡は、日本が朝鮮半島を植民地支配していた期間には、朝鮮総督府が 「古蹟」として保護・顕彰した。朝鮮総督府が昭和八年(一九三三)八月九日に 公布した朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物保存令(制令第六号)に基づくものである。 日本国内(内地)に施行されていた大正八年(一九一九)四月に公布された史蹟 名勝天然紀年物保存法また昭和四年(一九二九)に公布された国宝保存法をあわ せたような法だと考えられる。宝物は国内の国宝に、古蹟は史蹟に該当した。古 蹟の保存については「現状ヲ変更シ」「保存ニ影響ヲ及ボスベキ行為」について は朝鮮総督の許可を必要とし、朝鮮総督は「保存上必要」ある場合は、「一定ノ 行為ヲ禁止」「制限」することができる規定だった。これに基づき、地番を官報 に告示し、耕作の禁止を命令してもいる。また古蹟の管理に当たる地方公共団体 に対し、国庫より一部を補助できることも定めている。この法の全文や、各個別 指定物件については朝鮮総督府官報(韓国学文獻研究所編.ソウル:亜細亜文化社、 一九八五年刊、国立国会図書館<東京>蔵)によって知ることができる。官報に よれば、各倭城の指定年月日は下記の通りである。 昭和一〇、五、二四  古蹟二一号 釜山鎮子城台 *プサンチンチャソンデ 同          古蹟二二号 蔚山鶴城 *ウルサン 昭和一一、五、二三  古蹟六一号 釜山日本城 *プサンイルボンソン 同          古蹟六二号 馬山日本城 *マサンイルボンソン 昭和一三、五、三   古蹟八〇号 順天新城里城*スンチョンシンソンリソン 同          古蹟八一号 泗川船津里城 *サチョンソンチンリソン 同          古蹟八二号 金海竹島城 *キムヘチュクトソン 同          古蹟八三号 機張竹城里城*キヂャンチュクソンリソン 同          古蹟八四号 熊川安骨里城*ウンチョンアンゴルリソン 同          古蹟八五号 西生浦城 *ソセンポソン 同          古蹟六二号 馬山日本城(追加指定) 昭和一四、一〇、一八 古蹟九三号 勿禁甑山城 *ムルグンシュルサンソン 昭和一五、七、三一  古蹟六二号 馬山日本城(一部解除)  昭和一八年一二月三〇日には宝物四一九号、古蹟一四五号、天然記念物一四六 号が指定されており、およその指定総件数が分かる。ほかにも古蹟及名勝四号 (昭和一七年六月一五日)、名勝及天然記念物二号(一三年五月三日)等が指定 され、また仮指定も行われていた。指定には遺跡の範囲確定と一筆毎の所有者の 確定等、膨大な事務量を必要とする。広大な面積の確定を必要とする名勝(自然 名勝)の指定はほとんどみられないが、法令制定後わずか十年で七〇〇件以上の 物件の指定を行った。迅速といえよう。法令制定以前から準備が進められていた のであろう。古蹟一四五件の内倭城は一一件、一割弱、八パーセントだった。 倭城については指定から光復(日本の敗戦)までの期間が短かく、かつ戦争中 でもあったから、この期間に積極的な保存措置がとられたとは考えにくい。先述 のような耕作禁止策は倭城に対しては行われていないが、こうした姿勢から判断 すれば、「古蹟」の公有地化は行われなかったのだろう。順天新城里城のように、 中にもともと広大な国有地があるものもあったが、官報告示をみる限り、「古蹟」 指定地の大半は民有地だった。しかし中には順次公有地化され、公園化されたも のもある。泗川(サチョン)倭城(泗川船津里城)の公有地化には島津家の尽力 があったといわれ、桜を多く植裁したその手法は、植民地における皇国思想の普 及をねらうものだった。また釜山倭城の一部なども公園化されていたと思われる。 しかし大半は公園化されず、未整備のままだった。  光復すなわち日本の敗戦による解放後は、これらはどのように扱われたのか。 「宝物」は「国宝」として継承され、一般の「古蹟」は「史蹟」として継承され た。ただし指定名称に「日本城」が含まれていた釜山日本城および馬山日本城は 指定が継承されなかった。そのほかの倭城は順天新城里城が昇州新城里城の名称 に変わるなどのわずかな変化はあったが、おおむね「史蹟」として保護されてき た。泗川倭城は長く公園として整備された状況が変わることはなかったが、近年 城跡の中心地区に隣接して耳塚慰霊碑が建てられた。日本国内、京都方広寺にあ る耳塚(朝鮮将兵の耳を埋葬した塚)の霊魂を帰還させたもので、韓国の歴史観 に基づく史跡整備、顕彰である。  釜山子城台(チャソンデ)は日本軍の進攻に最初に戦い、守将鄭撥将軍も戦死 した聖地である。今は朝鮮時代の建物が復原され、顕彰されている。日本軍の築 いた石垣も森の中に保存されている。しかし本来の城域のかなり多くは市街地化 され、保存されているのは中心部のみである。  釜山母城は当初は動物園、近年は運動公園として、本来の史跡保存の方向では ない別の観点にたつ公園化が進められた。近年になって天守台など石垣の一部が 取り壊されて、バスケットコートが拡充され、石垣は近代的手法で積み直された りしている。  朝鮮総督府指定古蹟は大半が大韓民国指定史蹟として継承された。ただし倭城 遺跡の指定は積極的継承とは考えにくい。実情は放置であろう。倭城に格別の保 護の手が加わることはない。だが韓国では最近までオンドルなどの燃料として、 山からつねに樹木を採取し続けていた。かつ山は牛馬飼育のための採草地でもあ ったから、管理されない状態で山林化することはあまりなかった。石垣の保存に とっては幸運だった。 これらの倭城を訪ねてみると、墓地化しているところが多いという印象を受け る。山に墓地があるのはとりわけ倭城跡に限ったことではない。指定時の官報を みると今も多くの墓地が目立つ金海竹島城には当時から三一筆の墳墓地がある。 ほか泗川船津里城には九筆、勿禁甑山城では三筆と、当時から地目墳墓地が含ま れていた。機張竹城里城や熊川安骨里城のように、指定当時は墳墓の地目は含ま れていなかったのに現在は墳墓地になっているところもあり、墓地は城跡内で増 え続けているようだ。ただ墓地は多く平坦地を選んで作ったから、クルワの内部 は占有されるが、クルワ取り(輪郭)を構成する石垣がこわされることは少なか った。  耕作が継続されたところも多い。この場合は耕地の拡張のため、土塁を削った り、耕耘機を入れるために石垣を除去するなど、保存には好ましくないこともい くぶんは行われた。しかし総じていえば、「大韓民國指定史蹟」として保存され てきた倭城の残りは良好だった。 近年、こうした状況に変化が生じた。日本国内でも報道されたからご存知の方 も多いと思われるが、一九九六年から九七年にかけて大韓民国政府はこの倭城の 史蹟指定を解除した。日帝支配の残滓の一掃、つまり日本の植民地支配の時代に 朝鮮総督府により指定された文化財の評価の見直しである。解除された史蹟は各 道、実際は倭城所在地の慶尚南道と全羅南道において、再指定し保存することと されている。保存すること自体にはそれなりの意味があるが、韓国政府としては 行わないということだ。ただし現実にはその再指定はいまだなされていないのが 昨今の状況のようだ。いわば未指定状態になっている。そして日本の指定史跡と 同様、国指定と道指定では財政的な裏付けもおおいに異なるため、道指定では大 規模な遺跡の保存政策を進めることは難しいという。こうしたこともあって、な かなかに倭城の史蹟再指定は進んでいないようだ。 *以上に関連して福島克彦「戦前の倭城研究について」(『倭城研究』一ー一九九七)、 八巻孝夫「明治から敗戦までの城郭研究の流れについて」(『中世城郭研究』一〇、 一九九六)、『日本史研究』四二九(一九九八ー五)掲載の部会報告、黒田慶一「倭 城をとりまく諸問題」、高田徹「倭城の原状遺構」、福島克彦「倭城研究の成果と課 題」、呉世卓(椎名慎太郎訳)「植民地朝鮮に対する日帝の文化財政策---その 制度的側面を中心にして」(『考古学研究』45-1・1998-6)。  倭城が立地する各地域はいままでは概して開発から取り残される傾向にあった。 そうした地域にも、近年になって急激な開発が押し寄せている。以下では倭城の うち最西端に位置し、小西行長の守城として、明軍・朝鮮軍との激しい戦闘を経 験した順天倭城の事例を見てみたい。 (2)順天城の場合   初めて順天倭城を見学したのは一九九五年の秋だった。本丸からみた浅い海に は確かに十字に切られた数本の道が作られていた。自動車工場が作られるため埋 め立てが開始されているとは聞いた。しかしそのきらきら輝く海がまもなく消え てなくなるとは、にわかには信じがたかった。順天のみならず熊川倭城や安骨浦 倭城からみた美しい海にも、そして三浦のひとつ薺浦(チェポ)の海自身にも、 同様の運命が待ち受けていた。数年後にこれらの海が消滅するとは、ほとんど考 えることもできなかった。 この年に私は確かに順天倭城を見学した。しかし時間の都合もあって見学でき たのは本丸を中心とした主郭部のみであった。戦前に陸軍関係者によって作られ たと考えられるこの城の図面(九州大学大学院比較社会文化研究科・九州文化史 研究所所蔵図、佐賀県教育委員会『文禄慶長の役城跡図集』所収)には何重もの 堀や土塁、そして惣構(外郭)が画かれており、それらの遺構をみる時間のない ことが心残りだった。   二年後、この城が開発により消滅しそうだという情報が入り、私は同僚の朝鮮 語学松原孝俊先生に同行して、再度この城を訪れる機会を得た。最初に順天市文 化財担当の趙俊翼(チョー・ジョンイク)氏らから話を聞く。自動車工場の誘致 運動があり、木浦(モッポ)と順天(スンチョン)が候補地となったが、順天市 ・光陽湾に工場設置が決まり、順天城前面の海が埋め立てられていること、順天 城の一帯を除き周辺は土取りによって既に削られていること、順天城は「国指定 史蹟」として文化財の扱いだったが*、日帝時代の指定物件の見直しが行われ、 一九九七年の四月一日に国指定から道(全羅南道)指定文化財への移管が行われ たこと、だが今は国指定が解除されたのみで、道指定作業が進んでいないので、 法的には未指定であること、順天市でも従来はこの城の範囲は本丸だけだと考え ていたこと、これほどまでに広いということは最近になって九大実測図をみるこ とによって知ったこと、地元ではこの機会に開発してほしいという要求が強く、 倭城の保存は本丸を除いてはむずかしい情勢にあること、本丸は今後一〇年、二 〇年後にも残されているであろうけれども、民有地が大半の惣構(外郭)は、明 日壊されてもおかしくはないだろうこと、周辺は土取りが進んでいるのに、かろ うじて今、順天城が残されているのは自分たち文化財担当者が努力しているから であり、そのことは認めてほしい、などの話を聞いた。 * 古蹟の指定地域がそのまま継承されていたとすると、新城里五番以降六四八番地 に至るまでの各筆の内、五四筆、及び一部道路、合計三六、〇四七坪また新城里山一 番から一〇番の一に至る各筆の内の六筆、一七町プラス三一、一〇〇歩が指定範囲だ ったはずである。総督府支配下での度量衡は日本と統一されていたというから、指定 面積の総計は四〇町近くになる。このうち国有地は新城里山一、二、八番の合計一六 町程で、ほかは民有地だった。地目**(**は水田の意味)はわずか二筆で、ほか は田(田は畑の意味)または林野だった。  翌日韓国側の協力も得つつ、第一の塁線である惣構(外郭)や第二の塁線本城 の山麓の土塁や堀を踏査した。主郭・本城のある山裾の長い堀をはじめ、惣構と その出丸など前回見ることがなかった堀や土塁・石塁を見ることによって、初め てこの城のもつ本質に触れることができた。日本軍の恐怖、脅えが切実に伝わっ てくる。国内の城でこれほど堅固な塁線を持つ城はあるのだろうか。  遺構はおおむね九大図に合致していた。しかし注意してみると、部分的な破壊 はあった。本丸のある山への入口の虎口部分は、道路建設や耕作のため崩壊して いた。小西行長が居所とした可能性の高い出丸は、九大図には土塁が描かれてい るが、残ってはおらず、たまたまその畑にいた耕作者の話では自分が以前に撤去 したとのことだった。また惣構に連続して海と城内を区分し、小西がいたと推定 される出丸と外城を結ぶ特異な石垣塁線はほぼ同じ位置にあったが*、石垣は積 み直されて、九大図にある「櫓台」風の遺構も残ってはいなかった。しかし総じ ていえば保存は良く、日本国内でもこれほどの規模を持つ城が、このように良好 に保存されている例はないだろうと思われた。 *初回の調査時には、惣構(外郭)は新城里(シンソンリ)集落と現在忠武(李舜臣) 廟のある丘陵から始まるものと思いこんでいて、そう報告したこともあったが、そう ではなく、実際の惣構(外郭)はもっと東の水田の中に残っていた。城郭グループが 作成した縄張図面でも同様に間違えたものを見たことがある。 とりわけて惣構(外郭)の石垣ラインは長大だった。慶長三年(一五九八)九 月十九日から十月はじめにかけて行われた、順天倭城での攻防を描いたものとし て、中国の「征倭紀功図巻」が知られている(朝日百科『城』五ー三〇〇頁)。 その描写された場所に該当する惣構(外郭)の出丸(張出曲輪)や大手門と推定 できる虎口も壮観だった。四万七千人の明、朝鮮軍対一万三千七百人の日本軍と の戦い。「宇都宮高麗帰陣物語」(『文禄慶長の役』二四一頁)には惣構の塀よ り三十四、五間隔てての攻防戦が具体的に記述されている。(敵が)「鉄楯、木 楯、鉄笠を付立て魚鱗の如くに押し寄せた」「楯の内より鉄砲、半弓、筒矢を放 し懸候」。この記述の具体的な姿・様子は、「征倭紀功図巻」にもよく画かれて いる。朝鮮、明側は「輪車」「高梯」で攻撃した。後年島原の乱での原城攻城戦 で使われた「仕寄」先端の「井楼」によく似ているが、車輪付で移動が容易な装 置が、明・朝鮮側が用いた「楯」、「飛楼、防車=輪車、移動銃撃台」だった。 中国大陸の石垣でできた都城の城壁を攻撃するための兵具である。豊臣軍もこれ を模倣した兵具を作り、晋州城攻撃に用いたことがある。しかし小西ら豊臣軍の 多くの将兵にとっては、輪車によって逆に攻撃されることは、国内戦ではもちろ ん、この戦いを通じても経験のないことだった。攻防は「城西狐頭」即ち惣構西 端、張出出丸一帯で行われ、城兵は「薪を投げて、輪車・竹編<鉄砲避けの竹束 >を焚いた」という。  惣構には二段の石垣と横堀を持つ箇所がある。日本国内の城の感覚からすれば、 過剰防衛に近い。だが経験のない戦法に対処するためには、防禦上少しでも有利 になる施設は、すべて導入しておく必要があった。また海の城として干満差に応 じた作戦をとるため、海岸にも塁線を設け、その外に柵を設置し、敵が近寄るこ とのない安全な船の係留地とした。五百艘がこの船溜に繋泊した。陸海の防備が 順天城の縄張上の特色である。  犠牲者も多く出た。明側では八百人の死者と記す。「宇都宮高麗帰陣物語」に よれば、日が暮れて塀際に押し寄せていた「唐人」(明・朝鮮軍)もやっと引き 上げたので、惣構えの壁下の「忍びの口」を開けて外に出てみたところ、「死人 と深手負ひたる者」が数多かった。日本側は行動能力を失った重傷者を殺し、す でに死んでいる者からのものも含め、二百七十余りの首を取って大手門脇に懸け たとある。まさしくこの惣構(外郭)に沿って、壮絶で残酷な戦いが展開された。 屍が累々と倒れていた。ここは韓国の人々にとっては、祖先の無念の怨みがこも る霊地、聖地ではないのか。そう思った。くわえて抗日戦勝利の遺跡でもある。  この時の調査の結果、九大図が、本城と惣構(外郭)に大きく二つの部分に分 けて実測され、そののちに一枚の地図に合成されていること。つまり複数の人間 が分担して作っていること。その二つの間では、縮尺率の差があるらしいことも 分かった。また惣構、張出出丸の形状も大きく修正できた。しかし成果はまだ公 表されるに至っていない。  なおその後の情報(九八年はじめ)では、開発の結果、惣構(外郭)一帯は商 業地域に、本城山麓の堀の一帯はバスターミナルになるようだ。ビルが林立する 景観になるのだろう。順天城を韓国側は「倭橋」(ウェタリ・曳橋、倭台とも) とよんでいた。「橋」は「台」に同義という。だが曳橋の語感は本城と惣構(外 郭)を結ぶ中間の枡形虎口一帯の地形になじむ。本城、外城(惣構)、その二つ の城郭を結ぶ低い稜線に、南北の海側の両方から次第に堀が迫り、あたかも橋の ような景観を呈している。この場所も、また実戦の舞台として多くの犠牲者が倒 れた地でもある惣構(外郭)塁線も、ことごとく開発されて無くなってしまう。  そしてもう一つ困ったこともあった。保存がほぼ約束された本城部分では最近 一部の石垣が崩れた。九八年二月から三月にかけての修復事業の際、地元業者が 大幅に他の石垣まで積直してしまい、倭城の石垣が、朝鮮風の石積になってしま ったという。  *同様のことは西生浦(ソセンポ)城の惣構でも起きたらしい。オンドル用薪材採 取の山だった頃には石垣に悪影響を与える樹木が繁茂することはなかった。いま山は 木々におおわれている。また時期からいっても四百年も修理せずに石垣が維持される ことは限界に近いのかもしれない。石垣の保存には新たな課題が発生している。  順天倭城遺跡は、同時代の日本国内の城と比較してもはるかに大規模に、かつ 良好に保存されていた。開発による消滅はまことに残念というほかはない。せめ て十分な調査を期待したいが、倭城に対する韓国研究者の意識のありかたを考え ると、明るい展望はない。原因者負担方式は日本の埋蔵文化財行政と同じである。 朝鮮民族の遺跡自体も激しい勢いで破壊されつつある。日本城の解明のために、 資金を捻出し、労力と時間を提供しようと韓国側が努力することは考えにくい。 韓国側の主体的調査に、日韓交流のための学術基金などが使えれば、展望が開け る可能性はあるのだが。 その2に続く

    
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