(無断転載不許可)倭城の保存をめぐる近況 (その2)
『日本歴史』606、110-119頁
服部英雄
(3)倭城研究の課題 倭城の跡を歩くと地表に落ちている瓦や土器を観察することができる。瓦は韓 国で製作されたものである。日本製ではない。土器も同じである。被虜人となっ た人々が日本に連れてこられて焼いた、例えば日本でいう初期薩摩焼と全く同じ ものである。このことは倭城で用いられた瓦・土器が朝鮮人の手によって焼かれ たものであることを物語っている。倭城は日本人が設計したものではあるが、上 に載る瓦は朝鮮式のものであるから、屋根の反り方など、ずいぶん朝鮮風の外観 がおり混じった城だった。朝鮮瓦のもっとも典型的なものは滴水瓦であろう。今 日の韓国内でも多用されている倒三角形に垂れ下がるこの瓦が、機張倭城や金海 竹島倭城など、倭城からも出土している(黒田慶一「倭城の滴水瓦について」< 『倭城の研究』一ー巻頭グラビアおよび八三頁>)。 滴水瓦は日本国内の城でも多く使われた。朝鮮から直接もたらされたといわれ る対馬の金石城のほか、朝鮮に出陣した将たちが築城した城でも多く出土する。 肥後でいえば小西行長、加藤清正の宇土城、熊本城、佐敷城などが出土地である。 あるいは被虜人となった朝鮮人瓦工たちが焼いたのだろうか。姫路城の天守閣に も滴水瓦が用いられている。築城者の池田輝政は、自身は朝鮮の役には参加して いないが、家臣が出兵した。彼もこの異国情緒たっぷりの瓦を好んだらしい。滴 水瓦は今日にも朝鮮瓦、波瓦などと呼ばれて、各地の民家の桟瓦でも使われてい る(渡辺誠『日韓交流の民族考古学』一九九五・名古屋大学出版会、一四一頁〜、 一六四頁図では滴水瓦の国内出土地が二二カ所示されている)。 さて倭城の屋根に朝鮮瓦が載り、倭城の内部で朝鮮の土器が日常的に用いられ たとすれば、それらは日本・豊臣軍が略奪したか、市場にある者を購入したか、 または特別に注文したかのいずれかになる。築城の際の瓦のような大量製作は特 別注文以外には考えられない。けっして好んだわけではないにせよ、日本に協力 させられた朝鮮人もいた。おそらく当時の史料にしばしばみえる「サルミ」がそ れに該当しよう。サルミはサラムの古語で「人」の意味。サルミは日本軍による 狼煙台設定の際、朝鮮側烽火台の案内をさせられるなど、情報提供に関しても日 本軍に協力させられてもいる(服部「中近世に使われた『のろし』」(『烽の道』、 一九九七年所収)。 藤木久志『雑兵たちの戦場』(一三五頁〜)に詳細に記述された伊丹屋清兵衛 や、また「天正二十一年」(=文禄二年<一五九三>)三月の「高麗国にて銀子 借用状」(弘文荘古書目録に写真掲載)に登場する豊前豊永別四郎のような戦争 商人・高利貸しもそこで活躍した。戦争には商人はつきものだ。何万人もの人が 新たに生活を始める。新都市の出現に同じである。物資調達のプロが必要だった。 「大坂冬の陣図屏風」には物売りの姿が画かれている(朝日百科・日本の歴史別 冊『城と合戦』六九頁)。島原の乱では原城落城の日、本丸塀際の攻防で何千人 もの手負死人が出る光景を、京都の町人が見物していた(『綿考輯録』六ー一七 〇頁、「京あたりの町人迄大勢我等側にて大勢見物申し候」)。朝鮮でも石見銀 山の「地吹公用銀」が、国際通貨として使用されただろう。日本の戦争商人が朝 鮮側の商人と取引を行う光景も見られたはずである。 倭城の周辺には日本人町が形成された。藤木著書によれば、唐島(巨済島)に は浜の町があり、久簡屋をはじめとする浜の町衆がいた。釜山にはそれより大規 模な町が形成されていた。心ならずも日本に協力したサルミは場合によってはこ うした倭城に近接した地域、ないしは内部に居住させられたのかも知れない。文 禄四年(一五九五)、講和交渉時の禁令が逆に語るように、サルミは日本に連行 されやすかった。日本に協力してしまった以上、朝鮮内部での地位が不利になる こともあったのだろう。日本国内の城の滴水瓦を焼き、薩摩焼や高取焼などを創 始した瓦工、陶工の中にも倭城での物資供給に協力した人々がいたのかもしれな い。 このようにざっと歩いただけでも、倭城は多くのことを考える視点を与えてく れる。課題は多い。倭城のうち、狐浦里(コポリ・湖浦)倭城がすでに数年前、 地下鉄車両基地の新設工事のため消滅した。釜山西部、洛東江河口には加徳新港 建設計画がある。倭城が多く築かれたまさにその海が埋め立てられる。加徳倭城 (訥次島倭城)をはじめ、安骨浦倭城、熊川倭城などその海に面した倭城も土取 りほか開発の危機にさらされているという。一時期は梁山倭城も危機が伝えられ た。危機は順天城だけではない(町田貢「倭城始末記」<『現代コリア』一九九 六ー一二>)。 われわれの現地見学の際、遺跡周辺の市民・住民は倭城の存在を知らず、無関 心のようにみえた。しかし韓国では歴史に関心のある人ほど倭城の存在を忌まわ しく思う傾向にある。韓国の研究者の中で倭城に関心を持つ人は少ない。調査を 必要と考える人は、決していないわけではないが、例外的な少数者のように思わ れた。 もとより倭城は日本の文化財ではない。大韓民国の文化財である。くわえて植 民地時代と秀吉時代の猛省が大前提に必要だ。だが日本の学界には本当に発言権 はないのだろうか。倭城は日本が設計したが、朝鮮の人たちが築城に動員された。 実際には朝鮮の技術が多く投入されている。石垣は一見すれば日本風で、朝鮮風 石積ではない。しかしいわゆる典型的な穴太積み(横積みで、横目地が通る)と も異なっている。両国の技術の折衷が、風雪に耐えうる堅牢な石垣になった。ま た倭城は朝鮮側の正規軍、および義兵に対する日本軍の恐怖も如実に示していた。 抗日戦勝利の遺跡でもある。本質の理解が進めば、活用の方法も多いと考えられ る。日韓交流の歴史を考え、新しい両国の関係をつくりあげる上でも、きわめて 重要な遺跡であろう。日韓双方の多くの方々が倭城に関心を持たれることを希望 する。破壊が避けられないのなら、せめて調査を願う。仮にそれすら不可能なら ば、破壊される前に多数の人に見学していただきたいと思う。