(その2)
村の水利
水田にかかる水はどこから引水されているのか。水は高い方から低い方にしか流れない。ポンプ
が使われるようになったのはまだ六,七〇年ぐらい前のこと。用水源は川か、ため池か(*クリー
クは今回の調査域にはあまりないだろう)、そして何という井堰(井樋、いかり)から取り入れる
のか、その用水はその村がすべて使うことができたのか、つまり単独の用水だったのか、他村と共
有だったのか、共有の場合、受益する村は何カ村で、何という村だったのか、配分に関して特別の
ルールはあったのか、それはどんな内容だったのか、例えば下流の村に少し水を流すため、コンク
リートにはできないとか、昔はむしろを当ててはいけなかったとか、また特別に水利が強い村はあ
ったのか、過去に水争いはあったのか、それは村の中での争いだったのか、または他の村との争い
だったのか。あとだとすればどこの村と争ったのか。
◎水利を聞くには、村だけの地図ではなくより広い範囲を示す地図(二万五千分の一図)が必要
◎水利に関する慣行もきく。
ため池をめぐる行事の例
のこし,池の魚をすくって浅くなった池の泥を取る。
ため池まくり,村人がため池に入り、足でかき混ぜてから、排水する。泥が流れ出て、ため池がき
れいになる。
ふうつう:溜池の管理人をフーツウといった。水の配分を決める。
○田植えの時に水不足であれば、「歩(分)作り」をした。区長と水利委員が検査員になって、耕
作面積の何分の一にだけ、水を入れた。
○むかしの堰はドヒュウ(土俵)で止めていた。そこに井樋番が、一晩中蚊帳をつって、番をした。
昔は若気のいたり。水番を川に投げ入れて、上がってくる間に土俵を止めるためにに打ち込んであ
る竹を抜く。下の土俵に縄を掛けて、下から水を盗んだ。
○各井樋ごとに水を使う田が決まっていた。それ以外から汲み上げようとするから争いが起きた。
○水の入り口をイガマという
旱魃
○1994年(平成六年)、つまり今から7年前に、この地方には大旱魃があった。この年、どの
ように水をまかなっていったのか。何か特別の水対策をしたのか。普通他の村から水を分けてもら
う、とか、時間給水(時間によって水を分けていく方法)を行うとか、犠牲田を作る(他の作物に
切り替える;大豆など)とかを行う。時間給水は場所によってときすい(時水)、番水などといっ
ている。この呼び方も併せて尋ねる。
もしこの大旱魃がさらに50年前の出来事だったらどうなっていたのか、雨乞の経験も聞いてみ
よう。いつ、どこで何をして雨ごいをしたか。その効果はあったか。
○雨ごい,町部(別府)全体、薪や藁を持って天山の頂上に上がる。これをこづんでどんどん燃
やす。「真っ黒なって降ってきた。真っ黒なって降ってきた。」といいながらドラ(鐘や鍋)をた
たく。子供心に半信半疑。でも本当に降ってきたので驚いた。しかし少し田が湿る程度で流れるま
では降らない。センバタキといった(*多久市別府の場合)。
○ため池に、龍の絵のついたお銭を投げ入れる。
○神様がのどが渇くように、祠に味噌を塗る(嬉野・井手河内)。
○氏神の前に海水を供える。海水を飲んだ氏神が喉の渇きを潤すために雨を降らせる(武雄市若木
町永野)。
災害
水害はあったか。古い堤防はどこにあったか(干拓地などは堤防の位置が海側に前進するから変わ
っていく)。台風の被害は?切れ所(堤防が切れたところ)はあるか、またどこか。
風避けの例はあるか。山の上から下まで大注連縄をつなぎ、風の神様である弁財天さまが通れない
ようにする(まじない)。
村の範囲
訪ねた村の範囲はどこからどこまでか。どの道、どの水路、どのホリが境界かを聞く。
村の耕地
圃場整備以前には、村の水田には湿田や乾田が入り交じっていた。麦が作れる田(裏作ができる
田)が乾田、できない田が湿田。どの田が湿田で、どの田が乾田かたずねよう。そして昔(圃場整
備前)この村では、とくに米がよくとれるところ、逆に余りとれない田んなかがあったのかどうか、
場所による差があったのかどうかを尋ねてみる。またその理由が分かれば聞いてみよう。
またそれぞれ戦前、化学肥料が入る前で米は反当何俵か、良い田と悪い田でどれほどの差があっ
たのか。化学肥料が入ったあとではどう変わったのか。戦前には何を肥料にしていたのか---化学肥
料の前は金肥(干鰯・ホシカ)、その前は堆肥か人糞か、あるいはカッチキ(カリシキ・山の草)
か。良田(一等田)、悪田(八等田)は地図の上で確認する。
耕作にともなう慣行
○ゆい(共同作業)→「ゆい」「いい」、「いいしゅい」どのようなものだったか
○福岡では「手間がえ」「手間返し」「手間加勢」など。手間代返し・ゆい返しイイカエシ・イイス
(ゆいで手助けしたお礼)は?
○手間返し:牛は飼うのに一頭一年で草地が四反いる。牛を飼えない人は借りて、そのお礼に麦を
作って労力奉仕をした。人間だけでなく、牛へのお礼。
○あぜ(畦、畔),あぜに大豆や小豆を植えることはあったか。なぜか。なぜなくなったか。あぜ
もどのあぜに植えてももよかったわけではなく、個人の田に接する部分だけだったらしい。
○農薬のない時代の様子。虫避けに、菜種油を撒いて、夫婦で蹴って広げてたりした。あるいは鯨
油・石油をまく。どうしてこうしたものが防虫になったのか。
農作業に伴う楽しみ・苦しみ
共同田植えはいつまであったのか。農作業は楽しみか。たとえば田植えの後のさなぶり(早苗振)。
五月女(早乙女)さんにアタック。さなぶりは誰が費用を出したのか。稲刈りの後はなにをするのか。
ほかどんな楽しみがあったか。苦痛は何か。
田にはどんな生き物がいたのか:ひる、がむし、ドーメ
村の生活に必要な土地
山の利用(草山、萱山、松山、杉山など---)
山に近い村だったら、入り会い山(村の共有の山林)はあったのか、あったとすればどこにあっ
たのかをも聞く。これはガスが普及する以前、村の人たちがご飯を炊いたり、風呂を焚く燃料ある
いは田に入れる肥料(くさ)をどこからとっていたのかにも関係する。山が遠い村だったら、どう
していたのか、薪を誰かから買うことがあったのかも聞きたい。
○入会山の管理のため、山仕事に出ることをデゴトといった。下草刈りや枝打ちの仕事。
○一月〜二月が薪取り。山と家を一日四往復。一回三十キロぐらいの薪は背負った。一年分の薪。朝
早く行かないと、だんだん遠くて不便なところにしか薪が残っていない。
田の近くには草切り場(草を取って牛の餌にしたり肥料にした。干草場ヒクサバとも干草切り場
ともいった)。あるところとないところがある。ないところはどこから牛の餌をえたのだろうか。
太平洋戦争の頃まで佐賀の山間地では焼き畑が行われ、ハラーヤ(払い野?)とかキイノ(切り
野)などとよんだようだ。熊本県ではコバ作、大分県ではカンノ〔苅野)という。草切り場や焼畑
があったのか、あったとすればそこをなんと呼んだのか、その位置はどこか、誰の土地だったのか
(個人のものか、入り会い山<共同の土地>かをきく。なお焼畑は三年ほど耕作した後、他の場所
に移る。一〇年単位で回る。三年たつと、同じ場所では行われない。
○炭は焼いたか、収入はよかったか。焼いたとすれば自家生産か、ヤキコか。薪とりに山は生命線だ
った。
村の生活に必要な土地
山に近い村だったら、入り会い山(村の共有の山林)はあったのか、あったとすればどこにあっ
たのかをも聞く。これはガスが普及する以前、村の人たちがご飯を炊いたり、風呂を焚く燃料ある
いは田に入れる肥料(くさ)をどこからとっていたのかにも関係する。山が遠い村だったら、どう
していたのか、薪を買うことがあったのかも聞きたい。
米の保存
米は農協に出す前の時代は、いつだれに渡したり、売ったりしていたか。地主と小作人の関係は
どんなものだったのか。小作米に出す米の質は?くず米(質の悪い米)はあったか、それはどうし
たか。青田売りということはあったのか(米の場合、不作が続く時などあったらしい。あまり記憶
はされていない。野菜などではいまもある。事前に買って、お金を払った側、つまり買った方が収
穫する。不名誉なことだからあまりしゃべってはもらえないかもしれない)。家族で食べる飯米
(はんまい)はなんといったか(福岡県ではひょうろう<兵粮>米といった。佐賀はハンミャーか、
保有米か)。どうやって保存したか。次年度の作付けに必要な種籾はどう保存したか。ネズミ対策?
五〇年前:食事における米・麦の割合は?稗や粟、芋のような雑穀を主食にすることはあったのか。
たべもの
○干し柿はどうして作るのか。どうしたら粉が吹くのか。一本の柿からどれだけの干し柿ができるか。
〔「連」とはどんなものか?自家用か販売用か。一家族の何日分できる?)どれだけ保存できるのか。
○栗の木は栽培か山ぐり(篠栗)か。カチグリ(干した栗)はどうやって、どれだけ作るか。〔何升?
販売用?一家族で何日分?)、どれだけ保存できるのか。
たべられる野草・きのこ あかざ、あおざ、あざみ、たんぽぽ、くず根(かんねかずら)
村の動物
牛や馬はいたか。各家に何匹いたか。雄だったか雌だったか。雄は去勢していたか否か。
ふつうはおとなしい雌牛を飼うがとくに力作業が必要なときは、力の強い雄牛(コッテイ、コッ
テ牛といった)を飼った。家で1ぴきがふつう。博労(馬喰・ばくろう、ばくりゅう)はいたか。
ばくろう(牛方、馬方)は牛や馬を交換してもうけていたから、口がうまい人が多かったというが、
ほんとうだろうか。馬洗い場(馬入れ川)や馬捨て場はどこにあったか。
*牛洗い川は珍しい。なぜ馬洗い川があって牛洗い川はないのか。聞いてみよう。
村の道
昔の隣の村に行く道はどれか。学校道はどれか。牛が通る道はどこか(牛は谷川の丸木橋は渡れ
ない)。古い道をどんなものが運ばれてきたのか、を尋ねてみよう。山の村だったら、塩や魚はど
こから来たのか。だれが運んできたのか。峠はどこか、峠を越えてくる動物はいたか(動物の道。
鳥はカスミ編みを仕掛けて取ったりした)。道は地図の上に記入する。
まつりと行事
村の神様の祭りには一年を通じてどんなものがあるか。どんな組織で行うか、全員参加か、そう
でなければどんな人が参加できるのか。昔はどうだったか。
6月:田祈祷(たぎとう)・風日、風避かざび(8/31二一〇日一番かざび・9/10二番風日)一〇月
願成就ガンジョージュ
村の発達
村に電気はいつ来たか(ふつうの村は大正の頃だから、話者は生まれていないか、子供だっただ
ろう。山の村では遅くなってから電気がきた。プロパンガスはいつ来たか。だいたいは戦後の昭3
0年代か。それらが来る前はどんな生活だったのか。
昔の若者
テレビも映画もなかった時代、とくに夜、若者は何をしていたのか、働いてばかりだったのか
(男子は夜にどんな仕事をし、女子はどんな仕事をしたか)。あるいは遊んでいたのか、遊んだと
したら何をして遊んだか。力石(力試しの石)などはあったか。干し柿泥棒・すいか泥棒・にわと
り泥棒をしたという話も聞く。お日待ち・神待ちのような特別の日には神様に捧げるからと、若者
が勝手にもっていくことも許されたという地方もある(もしそうなら、それは何日か)。
若者たちが夕御飯のあと、特に集まる場所があったのか。あったらそこをなんと呼んだのか(わ
かしゅう宿とか、若いもん宿、わっかもん宿とかクラブとか青年クラブという地方が多い)。規律
は厳しかったか(年長者の下級生への制裁などがあったか)。戦後まもなくは食べ物がなかったので、
若者組や消防団が犬を食べたりしたらしい。そんな話を聞いたか、またはみたことがあるか。
またよその村の若者が遊びに来ることはあったのか。そうしたよそものを村に立ち入らせないよう妨
害したり、あるいは自警団のように活動することはあったのか。通してもらうために、よその村のも
のが酒を持ってきたりすることはあったのか(よその村に恋人がいる若者はそういうことをして通し
てもらったという地方もある。祭りの時には出入りは自由。そういう制約はなかった→恋のきっかけ
になる)。若者たちはどんなふうに男女が知り合い、恋をしたのか、恋愛の自由はあったのか---むず
かしい質問だが、尋ねたい。
(参考)ここまで話してくると、「夜遊び」や「ヨバイ」の話しになることがある。夜に娘の寝て
いるところに忍び込むという話である。夕方娘たちは二人一組で重い臼を摺っている。親の蚕を飼
う仕事を手伝ったりして忙しい。そういうときに若者が来て、一緒に臼をひいてくれたり、仕事を
手伝ってくれると、楽だし、うれしい。下心は見え見え。ライバルも現れる。そういうなかで恋が
芽生える。今も昔も一緒。むかしだって積極的な人、遊び好きな人、消極的な人、まじめな人。いろ
いろいた。遊び本位の若者の行動が誇張されて、ヨバイは興味本位に語られている。しかしよく話し
を聞いてみれば、みんなの恋愛と余り変わりはない。
親も公認でつきあっているのだから、妊娠すれば、まわりも認めて結婚させるのがふつうだった。
ただ認められなければ悲劇になった。逃げる男もいた。他人に押しつけようとするずるい男もいた。
このあたりは話者によって、さまざまに話が展開する。プライバシーに突っ込んではいけないが、こ
ういう世代はもう余りいない。「ヨバイ」の風習はあったのか。聞いておこう。
村のこれから
相手が疲れていなければ---村の姿の変わり方、村はどうなったのか、これからどうなるのか、今
後の日本農業への展望を聞いてみよう。諫早干拓についてのご意見は?ガタリンピックのまちおこ
しは?その他個人的に聞きたいことも含め、何でも尋ねてみよう。
┌─────────────────────────────────┐
│  教師は教壇の上、大学の中にだけいるのではない。        │
└─────────────────────────────────┘
最後にお話をしてくださった方の氏名と生年(例えば大正何年生まれなど)を聞く。
*以下余裕があれば別の古老にも同じことを聞く。現地にはいって最初に詳しい人から話を聞けた
からといって、そこで調査を打ち切らない。村のすべてを知っている人はいない。その人が一番詳
しいかどうかは、他の人の話も聞いてみなければ分からない。調査時間をフルに活用する。なお現
地を見ることも忘れずに。お話を聞いたあと、現地を見ると理解度がかなり深まるだろう。カメラ、
デジカメを持っている人は撮影してください。
終わったあとのお礼の手紙はレポートに同封する形でみなさんのものと服部のものを出すが、成
績をつけ終わって整理した後になるから、相当に遅くなる。別に各自からお礼のはがきを出してく
ださい。
実際の聞き取り時の注意
事前にマニュアルをよく読んで、メモ書きにしておく。当日、マニュアルをみながら聞き取りを
すると、「えーっと、次は?(ーーーー沈黙)」となります。異様に間が空いて、場が白けるし、
向こうの方も困ってしまう。この子たちは勉強せずにきているなと思うでしょう。準備が第一!
参考文献:「地名の歴史学」(角川書店・図書館参考図書)、現地に行く前に読めばよかったという
人が多い。目を通しておいてください。
「二千人が七百の村で聞き取った二万の地名、しこ名----佐賀平野の地名地図」(花書院刊)

その3