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        書評・中野等『豊臣政権の対外侵略と太閤検地』
                    『史学雑誌』107-6、89-99頁     
                                                  服部英雄

   天正十八年(一五九〇)二月に筑前の領主であった小早川氏が、筑後広川村の
庄屋を任命した文書が残っている。おかしい。この時広川村はいまだ小早川領で
はなかったはず。こう疑問を抱いた著者はまず次のことを見つける。この文書は
「家勤記得集」という近世に編纂された古文書集に収録されている。原本をその
まま使った部分もある編纂物で、文書集でもある。この本はのちにいくつもの写
本が作成され、多くの研究者が依拠してきた。問題の文書は花押があって原本と
考えられる文書(A)である。さらにその写(B)もある。そして実は(A)と
(B)には次のような違いがある。
(1)原本(A)には「天正十八」の付年号があるが、写(B)にはない。
(2)(A)には宛所を「広川古賀村」と書くが、(B)には古賀村とのみある。
(3)おなじく(A)では宛先を「稲数式部殿 まいる」とするが、(B)には
 「式部丞殿」としか書かれていない。
なぜ原本のはずの(A)が様式上丁重で、写のはずの(B)には省略が多いのか。
こう考えて著者は稲員家に残る原「家勤記得集」を調査する。そしてこれら(B)
にはなくて(A)のみにある文字がすべて追筆であることを発見する。「家勤記
得集」を編纂した稲員孫右衛門が、自家の都合の良いように、正文に書き込みを
した。その誤れる注記が、以後長く通用していたのである。
  かくしてこの文書の真の作成年代が確定されていく。本書を通じて一貫してい
るのはこうした一点一点の史料を大切にしていく著者の姿勢である。文書の日付
だけをとっても、例えば年欠文書の年代比定に関して、従来の研究史の比定を改
めていく部分が多い。また年が書かれていても、実はそれが後から遡って記され
たものであることも多い。それを逐一見破っていく。文書をとらえる上で、字面
のみではなく、そこに書かれた事実一つ一つとその脈絡を大切にしていく。この
著者の姿勢があってこそ、はじめてこうした発見が可能になっていく。
   本書の著者中野等氏は、永年柳川古文書館(九州歴史資料館分館)にアーキビ
ストとして勤務してこられた方で、大友・立花氏に関わる文書や柳川藩藩政文書
の整理に当たられるかたわら、矢継ぎ早に論考を発表して、さまざまに問題提起
をしてこられた。その氏によってまとめられた豊臣政権に関わる論考集。それが
本書である。
 評者はこうした研究には全くの門外漢である。知識不足から的外れな感想を持
つのではないかという危惧もあるが、近年の狭い範囲でやりとりされる専門家
(同業者)どうしの「社交」「たこつぼ」書評ではなく、異なる分野の人間によ
る書評もたまにはあっても良いし、外からの論評も必要だと思う。以下本書に導
かれつつ、素人なりに感じた問題を述べてみたい。
  本書はまず豊臣秀次政権の性格をめぐって、朝尾直弘氏説の批判を中心に展開
される序章に始まる。次に文禄慶長の役=壬辰倭乱・丁酉再乱(朝鮮侵略戦争)
を主として兵站補給の点から考察した一編、次に九州の太閤検地の実態を政治史
的視点から論じた二編、次に大友領、島津領を通じてみた九州大名と秀吉政権の
関わりを論じた三編から構成される。
 このうち従来もっとも議論されてきたのは序章である。本書においても中心を
なしているかのような印象のある部分で、今谷明『武家と天皇』(岩波新書)な
どが、この章の論証の過程で発見された事実を高く評価しているように、近年の
この分野の研究でも多く議論されてきた。本書の価値をもっとも高めている叙述
といえよう。門外漢にとっては秀吉と秀次政権の「二元論」よりは、やはり死ぬ
まで秀吉が独裁者であったという方が分かりやすい。天下を二分、三分して争っ
た足利尊氏と直義の場合と、瞬時についえ去った秀次政権のあり方とは政治構造
も多いに異なるはず。その点は明快な印象を残す。既に発表された各位による本
書の書評(注1参照)でもこの部分を中心に議論されてきた。そこで本書評では
紙幅の都合もあるから序章の検討は割愛し、評者にも深い関心のある一編の「朝
鮮侵略戦争の輸送史的考察」から検討に入ることにしたい。
 一編では文禄・慶長の役における輸送・兵站補填が検討されている。正面戦争
を支える裏面。重要なテーマでありながら従来見落とされがちで、手薄でもあっ
た分野について、著者は史料の博捜の上に、次々に問題を提起していく。まず著
者は兵粮の供給ルートについて、初期には現地(朝鮮)調達路線であり、それが
うまく行かなくなった中期以降になってやっと国内からの輸送ルートが確立され
るという図式を強調する。その背景にあったのが、秀吉の「朝鮮はグレーゾーン」
という認識だという。降伏して日本に協力するかもしれない。そうすれば朝鮮が
兵粮米をさしだすだろう。だから日本から兵粮は持っていく必要はない。こうし
た「秀吉の独善的な政策」が現地調達路線の背景にあったと著者はいう(七七〜
七九頁)。
  ---侵略当初の分は別として、その後の兵粮補給には綿密な計画もなく、現地で
の調達によってまかなう予定だった。(七七頁)
  ---国内統一戦においては糧秣の組織的補給を展開した豊臣軍は、ここにきて兵
粮を「敵地」に求めるという逆行した政策を採用している。(七八頁)
 ---兵粮を現地調達するという「稚拙」な補給計画の背景には、正面の「敵」で
ある朝鮮を、開戦までグレーゾーンの存在と考えた秀吉ら政権中枢における対外
認識の甘さがあった。(七九頁)
 こうしてくりかえし強調される氏の認識は一編全体の基調となっている。兵粮
の現地調達とは略奪を意味するもののようだ。実はこの認識は、著者独自の観点
というよりは、研究史を継承してのものらしく、森山恒雄氏ら幾人かの研究者に
も同様の見解がみられる。中條健太「豊臣政権の兵糧米政策について」(『日本
史研究』四〇三<一九九六>報告要旨)を読むと若い世代の研究者にも浸透して
いる共通理解のようでもある。
 近年、藤木久志氏らが強調してきた戦争が略奪を目的として行われたという指
摘と、この著者たちの観点は共通する。本書は引用していないが、池内宏氏が紹
介した陣地の構築時の「兵粮取」、北島万次氏が強調した朝鮮や明側の史料に見
える朝鮮民衆を人質としての兵粮米の徴収、龍山倉のような収税倉庫の接収行為、
また「吉見家朝鮮陣日記」に見る現地での稲刈(苅田)等の事例は著者の論に適
合するように思われる。
  しかし現地での略奪が基本政策であるといいきってしまうと、それはもうひと
つの研究史に抵触する。朝鮮出兵の開始に際し、秀吉は各大名に大動員を命ずる
とともに、同時に大量の兵粮ほか軍事物資を名護屋に回送・集積した。こうした
評価・イメージ(例えば永原慶二『戦国期の政治経済構造』二七七、三二二頁)
とは相当なギャップがある。津軽・南部でも若狭小浜でも、日本列島からは大量
の兵粮米がかき集められ、名護屋に送られていた。 
 侵略戦争における現地調達には二つのものがあると評者は考える。
 第一は相互に通用する国際通貨による交換。普通は戦争商人を媒介とする。武
力制圧地、服属地(植民地)での支配の方法である。通貨は銀。秀吉は朝鮮に植
民地支配を行い、銀を通貨とする支払いと物資の調達を試みていた。たとえば藤
木氏が紹介する釜山在住の御用商人伊丹屋清兵衛、また「天正二十一年」(=文
禄二年)三月の「高麗国にて銀子借用状」(弘文荘古書目録に写真掲載)に登場
する豊前豊永別四郎らは、豊臣軍とともに行動し、軍の物資を調達する戦争商人
だった。彼らは数百枚、数千枚の銀、いまでいえば何十億、またそれ以上の金を
持ち、高利貸さえ行う。銀は「地吹御公用」だった。秀吉は博多では「博多御公
用銀」による支払いを行っていた。高麗での調達方法は国内征服戦争の延長上の
策だった。
 この現地調達は決して「稚拙」な方法ではない。しかし通常の商業行為だった
から、史料に残ることは少なかった。日中戦争時に上海や香港で中国側商社と取
引し、日本軍の軍事物資の調達に当たった大手日本商社の先駆けである。
 第二が著者が重視し、強調する「略奪、徴発」である。支配下に入らない敵対
地域には徹底して略奪を行う。古今東西を問わず、どこの軍隊にも共通しよう。
しかしこの時代、食料を奪われれば、奪われた方が飢死にしなければならない。
戦争になれば民衆は食料を持って、または隠して、死にものぐるいで逃げまわる。
だから略奪は戦略としては最も困難で、成功率の低いものだった。そのことは国
内統一戦を戦ってきた百戦錬磨の秀吉軍にはとうに承知のことだった。百人単位
ならいざ知らず、何十万という人間が動くのだ。一番隊を例に取れば二万人に近
い兵員だったから一日一人が五合で百石が必要だ。舟一艘分。四斗俵にして二百
五十俵。毎日毎日これだけの量の現地調達がノルマ化される。略奪に明け暮れる
から進軍はおぼつかない。仮に先発部隊が成功しても、荒らされたあとを行く後
発部隊はどうするのか。正規軍と対峙する以前の段階で日本軍の敗色は濃厚にな
る。そんな作戦はとうてい考えられない。戦争こそ最大の先行投資と考えたのが
秀吉。彼は計算尽くでしか行動しない企業家でもある。周到な用意の上に侵略戦
は開始された。
  著者が現地調達(=略奪)説の根拠とした史料を読み直そう。主な根拠として
氏が挙げた三点の史料をみたい(いずれも天正二十年<推定を含む>)。
(1)五月十六日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状
「船差合兵粮遅候ハンと思召候処、たくさんニ有之由、何より以可然候」
(2)二月九日大友吉統宛黒田長政書状
「御兵粮運送之儀、先千石御廻し被成、其外御無用之事」
(3)六月八日安国寺恵瓊書状
「当国之事、第一兵粮沢山之儀、不可言竭候、ーー一城ニ白米四五千石、黒米籾
大豆麦以下雑穀等之蔵之事者、更以不知数候ーーー、城々ニて兵粮下行候間、高
麗着以来ハ、日本之兵粮少も不入候、我等兵粮之事、名護屋のこともと申所、対
馬の豊崎又釜山浦所々残置候、如此候間、此方への気遣、少も不可有之候」
   確かに一見すると開戦当初の豊富な食糧事情がうかがえる。引用を省略したが、
(3)には「朝鮮の城には夏に酒を冷やす氷の蔵まであった」とある。略奪に成
功して小踊りしている日本将兵の姿も思い浮かぶ。なにしろ五千石、毛利隊三万
人の三十日分の食料がういた。この調達を豊臣軍の「基調」とみるか、偶発的な
「幸運」と見るかが、著者と評者の分岐点だ。以下順次史料の内容を検討してみ
よう。
 まず(2)。大友吉統と黒田長政は両者で唐入りの「三番」を編成していた。
そうした立場からの書状であろう。大友の兵員割り当ては六千名である。ひとり
一日五合だから千石は三十三日分の食料である。この史料からは、「兵粮は一月
分用意してほしい」と読める。「其外御無用」とは「あとは後方部隊(作戦司令
部、ないしは黒田部隊)が責任を持つから心配いらない」と読むのがふつうだろ
う。それを「ほかは準備せずに現地で調達せよ」と読むのは苦しい。(1)も引
用の前段に「兵粮之儀、所々入念改置候由」とある。手はずどうり備蓄がうまく
行っているという意味だろう。(3)ではたしかに略奪の成功を語っている。だ
が後段をみると「釜山にも対馬にも名護屋の<ことも>(今の呼子町小友)にも
兵粮の備蓄があるので心配いらない」とある。どの史料によっても、あくまで基
本(主)は国内からの輸送であり、略奪は補完(従)の扱いだったことが分かる。
  基本は国内からの兵粮の輸送・搬入である。状況次第で用意の軍資金=銀によ
る交換も行う。戦争の常として敵対地や逃亡した所からは略奪もする。ゆくゆく
は軍事制圧地からの兵粮米徴収や年貢徴収による補給の確立も考えてはいた。初
期には戦争になれていない朝鮮側の無警戒もあって、日本軍の略奪はかなり成功
した。同調者の確保もある程度はできた。朝鮮側も一枚岩ではない。反李朝派、
豊臣軍迎合派=戦争協力者もそれなりにいただろう。しかし戦争が膠着すれば略
奪・徴発はうまくいかなくなる。日本が劣勢になれば同調者(=朝鮮側商人)も
逃げる。国内からの輸送・備蓄という基本路線のみになるから、それが史料上も
目立つようになる。
 日本豊臣軍が略奪した龍山倉の朝鮮側による焼却は、戦線の帰趨を左右するほ
どの重みを持った。また歴史上には、敵側から食糧・弾薬を奪えと指示し、自軍
による補給をしなかったインパール作戦も存在した。また秀吉は朝鮮通信使の来
日を帰順の意に理解した可能性がある。確かにこうした部分部分はあるが、全体
像は異なろう。
 評者は著者がいうような兵粮調達に関する「政策の変換(変容)」は文禄の役
の開戦時にはなかったと思う。朝鮮侵略戦争全体を通じても、基本的な政策の変
化はなかったとは思うが、もしも政策の変化があったとすれば、「版図の確保」
に目的を切り替えた慶長の役、侵略戦の再開時であろう。「仮途入明」(=明へ
の道を貸してほしい)を主張した文禄の役と、「稲禾を刈って糧に供せ」「首を
取らずに鼻を削ぎ、塩蔵して京に送れ」と命令された慶長の役とでは、建前上、
後者の方が略奪指向は強かった。「兵粮は諸人より憎まれながらも現地調達いた
すつもり」。島津義弘の書状中の言葉である。これも文禄開戦当初の話ではなく、
慶長三年の史料に登場する(正月九日・旧記雑録後編)。著者の論旨とは逆にな
るが、慶長再戦時に敵対地への略奪指向、武力による威圧政策が強化され、宣言
された。
 次に輸送の問題に移りたい。まず二章は朝鮮における日本軍の城(倭城)の
「置兵粮」、「城詰米」、つまり篭城用の米、備蓄米を論じている。合戦がもた
らす食料戦争。それぞれの城には一人一日五合、兵士千名に対し千五百石、つま
り十カ月、三百日分の置兵粮(城詰米)が完備してあり、不測の事態に備えてい
た。以下、まず自分なりに交通整理しておきたい。
 本書は次のようにいう。「太閤検地と兵農分離を経て編成される近世の軍隊は
その内部に兵站を担当する補給部隊を設けて「分業体制軍団」を組織しており、
この点は兵粮自弁の将兵からなる戦国的なそれと大きく異なる。」(六八頁)。
 このうち兵粮自弁についてはのちに検討するが、豊臣軍の場合でも、豊臣政権
が全ての食糧を負担するわけではない。兵粮自体は各大名側が負担する。大名が
「政権」(=豊臣秀吉、大坂方)に対して負担する軍役自体は、御恩に対する奉
公だった。軍役のうちに含まれる兵粮の費用は当面大名の負担になる。著者がし
ばしば兵粮米を「政権」側が大名に「貸与」したという言葉を使うのはそのため
だ。史料中に多く「算用」が登場し、豊臣政権が運送した兵粮米について、大名
側が「請取(状)」<領収書>を出している。請取は借用書となる。この構造は
大名の家内部でも同様になる。大名家でも、大名と主従制的な関係にあり、兵粮
料所を与えられていた家臣たちは、みずから率いる小軍団の兵粮を負担した。
 さてそれでは著者のいう「兵站補給部隊による分業」とはいったい何かという
と、それは「豊臣政権」が輸送部隊を確保(多くは各大名の持ち船の借用)する
ことと、水夫への給与など輸送費用を「政権」側(=豊臣方)が負担したことを
いう。前者は「渡海」軍としての基本だったからであろう。個別大名側が負担す
る部分も当然多くあったが、全てを個別に委ねてしまえば、いざという時や、負
担しきれないものがいた場合、戦争の継続に支障を来す。直轄部分を保有してお
く必要があった。後者については輸送費用(例えば「かこ六百五拾八人飯米丗日
分百九拾七石四斗」)が大名への請求対象にはなっていない事例(本書一一一〜
一一二頁所引史料)に明らか。大名自身が兵士の食料として必要とした米の輸送
についても「政権」が負担したらしいが、大名が輸送費を負担する場合もあり、
まちまちだったらしい。
 また共通経費となる在番の城(=倭城)の備蓄米は「政権」側が負担した(一
〇九頁)。倭城はしばしば在番城主(大名)が交替した。どの大名が使うか分か
らない置兵粮=篭城米は、豊臣政権が責任を持つのが当然だろう。大名にとって
は、兵士各自が消費する兵粮米は軍役のうちのもので、当面大名負担である。一
方兵粮の輸送費と共通の経費となる備蓄米は「政権」側が負担した。ほか著者は
指摘していないが、実質的に「政権」側が負担すべき兵粮米もあった。島原の乱
でも終戦後、一定の計算にも基づき、幕府が参陣諸藩に兵糧米を支給している
(『黒田家譜』二ー三五頁、『綿考輯禄』六ー一九四頁、『佐賀藩の総合研究』
四四五頁)。
 さてこの章には一年を経過して古米となった置兵粮の処分に関する考察がある
(一一四頁以下)。そこで以上の枠組みを前提にして、古米の処理問題について
再検討してみる。
 文禄二年八月十九日〜九月六日  御城米(備蓄用)となる米の納入と請取状
                 の発給<A>。
  三年正月から五月 秀吉使者の現地調査と報告。
    五月〜七月  古米の入れ替え命令。
    十月二日〜  新米の到着と古米の放出(著者によれば大名への貸与)
     <B>。
        十一月 貸与分の償還(代替の新米の補填)を要求された大名は国元に
         チャーター船及び自分の船による米の運送を命じる<C>。
 著者の論旨を年表風に整理すると以上のようになる。まず<A>の文禄二年秋
に納入された米は、既に八月段階で船積みされていた。稲刈り後、天日干し、市
場への搬送、船積み、さらに朝鮮までの船旅と、かなりの時間が経過しているか
ら、<A>の城詰米は八月の時点で一年前の米である。それより半年後。城詰米
は保管状況が相当に悪かったようで、一年半を経過して冬から春にはかなり痛ん
でいた。米蔵を検査した秀吉使者は、こんな米では非常のときには役に立たない
と判断した。その報告を受けて、新米との入替えが指示される。まずは各大名手
持ちの米と入れ替えておけとの指示が出る。しかし余分な備蓄米はないし、秋に
ならなければ新米は入ってこない。一部のみが交換され、大部分は放置された。
今日の様な良好な保管施設があるわけではない。虫損・鼠害は著しかった。実際
の入替は、それよりさらに半年後。二年を経た古々米は、おそらくは賞味期限以
内といえるような代物ではなかった。さて新米が到着したのは十月。そこで古米
が放出された。
  著者はこの古米が有償で各大名に貸し付けられたと強調する。島津氏が書いた
請取状<B>には
「於釜山浦請取申御城米之事」
とある。合計四百五十五石強。著者は釜山で受け取った「御城米」なのだから釜
山城の御城米、すなわち古米だと読んでいる。なるほど。しかしもう一つの読み
方もできる。御城米とは釜山城の御城米をいうのではなく、この請取状を書いた
島津氏自身の守城(唐島<巨済島>城)の「御城米」(その一部)であり、それ
を釜山の浦(港)で受け取ったものだ。だから中身は当然新米であると。評者は
あとの読みに従い、これを古米売却の史料とは見ない。
  御城米は保存のためのものであり、篭城戦の開始後三百日分の保存を義務づけ
られている。籾米での保管だったか。福岡県での民俗事例では「ひょうろうまい」
とは秋に脱穀し、家族が一年間に食べる米をいう。御城米はそうした兵粮米とは
異なる扱いを受けたはずで、籾米で保存されたと思うが、古くなれば虫は入るし、
鼠に小便をかけられれば、臭くて食用にはならない。既に春に使者が食糧として
不適と判断した御城米は、秋には目減りしたうえ、よくても馬の飼料ぐらいにし
か使い道はなかった。
 保存状況が良ければ古米でも使える部分はあった。(C)では西生浦城にあっ
た加藤清正が「御上米」を下付されたので、代わりの米を大至急入れろといって
いる。これは著者の指摘の通り古米だったかも知れない。ほかに釜山浦、竹島ほ
かにあった古米も在城衆に「割符」して入れ替えられている。しかし先に述べた
状態からすれば、古米の有償払い下げは、あったとしてもあくまで「建前」、割
符も帳簿上の記録にすぎない。古米、古々米の売却額などしれている。それより
もまずは戦争に勝たなくては話にならない。
 なお用語の問題だが、研究史上よく目にする概念、用語ではあるが、案外に各
人が未消化のまま学界に流布している言葉がある。本書でも「言葉」のみが一人
歩きしているような印象を受ける箇所があった。兵士の「食糧自弁」などもそう
だ。著者は戦国期以前の兵士は食糧自弁であったと考えているようだし、先の略
奪戦争としての朝鮮の役の理解もこの延長上にある。しかし古代中世の兵士が食
糧自弁だったというのは本当だろうか。まず戦国大名の場合には腰兵粮という二
〜三日分の応急の食糧が自弁とされていたが、長期の行軍中、参陣までのの二、
三日。捨象しても良い少額である。小荷駄部隊を擁する戦国大名もまた、兵粮を
兵士に供給していた。つぎに中世。「兵士粮料」の語は『平安遺文』にも多くみ
えるし(東大史料「平安時代フルテキストデータベース」)、中世荘園には「兵
士免」田、「兵士給」田が存在した(『荘園史用語辞典』ほか)。これらは中世
には徴発である兵士役であっても、食糧ほか経費の給付のあったことを示してい
る。まして傭兵であれば支給は当然である。つぎに古代律令国家の場合。蝦夷に
備える鎮兵には日粮が支給された。防人については私粮持参分もあるが、「(難
波)津より発たむ日は随ひて公粮給へ」とある。帰国する防人にも粮食が支給さ
れた。課役としての古代兵役でさえも、食糧のかなりの部分は支給されている。
なるほど軍防令は「人別糒六斗、塩二升を備えよ」と定めており、一ヶ月分の携
行食糧の自弁(持参)が義務づけられていた。武具の持参も要求されている。こ
れらが食糧・武器自弁説の最大の根拠となっている。糒のような行軍用の加工食
糧は兵士みずから軍団に持参することを規定してはいるが、それは行軍一カ月分
であり、兵役の期間全て、あるいは、戦地におもむく期間の全てを「自弁」せよ
と規定したものではない。武具にしても軍防令の規定どおりだと、次々に兵士に
より持参された武具が倉庫に蓄積されていくことになる。たぶん粗悪品ばかりが
集積されただろう。不自然に思う。一方の正税帳(尾張、駿河ほか)を見れば、
武具製作のための経費(営造兵器用度價稲)が国衙正税から支給されていて(山
里純一『律令地方財政史の研究』)、こちらの世界から見れば決して兵器自弁と
はいえない。法律(律令)の世界と現実の帳簿(正税帳)とは異なっていた。
 我々には「民衆の苦しみ」を見いだすことが研究上の最大課題だと考えていた
時期が長くあった。課役を負担する上に食糧さえも「自弁」させられるという
「農民像」は、まさしく格好の事例だったろう。だが食糧自弁で長期、戦闘しな
ければならない軍隊など、本当に存在したのだろうか。自弁できない兵士も含め
て徴用する必要があろう。生活基盤のない他国では自弁は不可能だ。戦争になれ
ばどうしても食糧のない軍隊は、食糧給付の軍隊には負ける。はじめから糧道を
断たれていては、いくさにならない。いずれの国家でも軍事は最優先だったはず。
「食糧自弁」の軍隊の存在は過去の研究史の残影としか思われない。なお参考ま
でに、徴兵制下の日本近代の兵士も入営後は食費を払わなかった。 
その2に続く


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