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書評 中野等『豊臣政権の対外侵略と太閤検地』その2       服部英雄
                    『史学雑誌』107-6、89-99頁

(その2)  いくぶん本書そのものから遠のいた。よく使われる学術用語でも、案外に不自 然な内容の概念があることを、自戒を込めつつ強調した。  戻るが、一編一章では黒田家による船手の組織化について述べられている。黒 田氏が総数五三六艘、うち軍船二七艘を所持することを明らかにする。しかしな ぜか軍船の規模も小さい、「買い舟・借り舟(*チャーター船)が多く」急拵え のものだったと、どちらかといえばその評価は低い。海賊衆能島出身の青木理兵 衛の履歴にふれて、彼が黒田如水に召し抱えられ、朝鮮にも従ったと述べ、つづ いて船手頭や多くの黒田家に仕える船頭たちの存在を明らかする。彼ら船頭の出 身地は紀伊、伊豆、播磨明石、播磨網干、讃岐塩飽、日向等であり、瀬戸内海に 面する出身地姫路、次に中津の支配を通じて順次組織化されたものたちである。 著者も「譜代のもの」と位置づけている。ところがなぜか黒田水軍の評価が低い。 たしかにこの内の梶原氏については「船乗にて無之」と注記がある。この記述を 重視して、著者は梶原氏は海事技術を持たないとする。だが梶原苗字の一統には 後北条水軍の中核になった者もいる。蔚山で活躍した船手も梶原だった(『浅野 家文書』四三八頁)。いわば梶原姓は水軍としてのブランド。船大将である人物 の次に書かれた「船乗ではない」という注記は、梶原の身分を示すものではない か。梶原は船大将と船乗の中間に位置する身分だったという意味か。  黒田氏は水軍を組織化することに成功していたはずである。しかし著者は朝鮮 の役時に黒田が陸戦隊として位置づけられ、海戦隊とは別だったことから、黒田 の水軍的要素を否定し、輸送機能のみを重視する(七五頁)。しかしこれより以 前については述べたとおりで、論旨の上ではもちろん著者も水軍的要素を肯定し ている。これ以後については黒田家は慶長五年の関ヶ原合戦に連動する九州戦争 で、大友氏と海戦し勝利している。安宅船クラスの船も所有しており、慶長十四 年には幕府に献上している。島原の乱にも「黒田手」の番船が海上に控えていた。  著者は戦争の進行に伴い、船手たちが豊臣政権の船奉行に「接収」されたとい う論理を展開する。だから論理的な要請の上からいっても、黒田家と船手の結び つき、また黒田家内の船頭と呼ばれた人たち(の内一部)の海事技術との結びつ きは稀薄だったと考えたのだろう。文禄の役における黒田長政は確かに陸戦が主 体だった。しかし慶長の役では各地の倭城(梁山城、機張城など)を点々と移動 している。倭城は本質的に海岸堡だったから、黒田軍五千人の移動は陸路ではな く海路だったはず。たやすく船や船手(譜代の家臣)を秀吉に接収されていては、 移動ひとつにも困難をもたらしたのではないか。  この船手の豊臣政権への接収という図式は最初に七一頁に記述されている。高 麗に到着した船は豊臣政権の船奉行の指示のもとに対馬に差し戻され、「政権」 の指示に従い運送に当たった。このことを指して著者は「接収」と定義している ようだ。「接収」という語には、もとの所有関係は断ち切られるという語感があ る。著者の用法もそうしたもので、本書の論旨も「接収=大名からの離脱」に即 して叙述され論証されている。しかしこのような臨時の徴用・一時の借用を「接 収」というのだろうか。  各大名が軍船、輸送船を豊臣方に提供することは無償の軍役のうちであろうけ れども、「接収」の語感が持つような一方的な「政権」側の権力行使ではなかっ た。本書一一一頁に引かれた増田ら「政権」側に宛てられた寺沢の書状にも「嶋 津兵庫頭殿舟四十七艘ニ、(中略)---慥ニ積渡候」とあり、元来島津氏に属する 五〇艘近くの舟が、「政権」側の徴用に宛てられたかのようにみえるのだが、そ の所属は「嶋津兵庫頭殿舟」のままで、加えてその舟は「嶋津兵庫頭」への米を 運んでいた(一一二頁)。「政権」の指令のもとに動いてはいるが、あくまで嶋 津の舟として行動している。この場合、先に見たとおり必要経費である水夫の飯 米は「政権」側が負担しているので、「政権」側が雇用していることはまちがい ないが、臨時・一時の借用であり、本来の所有者の存在は強く意識されていた。 当面の目的が達せられれば、再びもとの大名に返却されたことは当然である。  一編三章では加藤氏の輸送形態が論じられる。加藤清正の輸送力が、輸送業者 からのチャーター船に大きく依存していたことが強調される。そのとおりなのだ が、黒田氏の場合を念頭に置きつつ再整理してみると、加藤氏の場合も(一)渡 海船、(二)雇船の二つから構成されていた。加藤は大名としては新参であるか ら、他の大名と較べれば水軍の組織率は著しく劣っていたであろう。著者が明ら かにしたように、横島衆に対して人質を取るなどの手段をとってさえいる。不足 分を雇用でまかなうから、当然雇船の比率は大きくなるだろう。しかし黒田氏の 場合に同じく、組織化に成功し、直属の水軍として渡海船(「自分の船」)にな った部分はかなりあったと思われる。後の史料に依れば、加藤氏も同じく安宅船 を所有している。 なお加藤は横島衆に対して人質を徴用したが、黒田孝高なども豊前入部の際に、 宇佐郡をはじめとする各土豪や村々から人質を取っている。当時の領国新入部、 支配における常套手段であった(外園豊基「豊臣期黒田氏豊前国入部と一揆」< 『九州中世社会の研究』所収>)。また先述のように、国内線の延長として、朝 鮮でも人質を取った。  つぎに「二編 太閤検地と石高制」以下についての検討を行わねばならないが、 既に与えられた紙幅はつきた。一、二質問したい点がないでもない。例えば二章。 筑後領においては検地の結果、石高の増加があり、大名筑紫広門は増加分(「出 米」)の支配を認められなかったため、与えられていた所領上妻郡の内、広川村 を割愛されたと著者はいう。同じく小早川秀包、高橋統増いずれも検地の結果、 増加分を与えられず、結果的にこれも所領没収になったという。論理構成がうま く出来ており、それなりに説得力がある。だが検地によって石高が変動すること はしばしばあるが(例えば島原藩や天草領)、その都度藩領自体が変動したとい う話は聞かない。立花宗茂、小早川秀包、高橋統増、筑紫広門は文禄の役におい ても、慶長の役においても共に行動することが多かった。働きが正当に評価され れば、加増はあっても所領没収はない。軍律違反を名目に所領が没収された大友 氏が、直ちに帰国を命じられたこととは全く異なる。長年高麗陣にあったもの達 を、豊臣政権は格別に気配りしていた(本書二三一頁)。著者に従えば彼らは逆 に、従来の所領から一万石相当も削減され、所領が半減される。帰国後の論功行 賞を期待していた部下を待っていたものは、家臣団の整理だった。余儀なき大幅 軍縮。だがその仕事に手を付ける暇もなく、かれらは慶長再戦に駆り出され、こ の筑紫、高橋の二大名だけで加徳島の守備という重要な任務に当たった。最後ま で戦った文禄の役の評価が減封では戦意も喪失しよう。我々の知識では減封、所 領召上げは、大名にとっての最大の恥辱だった。それが原因で自殺した大名もい る。秀吉にしても、このような布陣では戦争に勝つという至上課題は果たせまい。 もし彼らがこうした措置を恥辱と感じなかったのならば、その政治力学について もふれてほしかったと思う。評者自身は筑後広門が「従来上妻一郡を領知してい た」(二四一頁)、高橋統増が「元来三池郡一円を領知していた」(二三八頁) という大前提さえなければ、話は明快で分かりやすいと思うのだが。 本書の場合、読者は著者の土俵になかなか登れないいらだちを感ずるだろう。 いくつもの歴史事実を発見するに至る努力と感動。それを今一度読者に追体験し てもらう点で、確かに著者の叙述スタイルは歩留まりを悪くしている。評者はそ れを惜しいと思う。しかし本書と格闘し、咀嚼し、反芻して再整理する作業を通 じて、評者は本書への不思議な愛着が湧いてくるのを感じた。  評者は著者のもつ高い能力を評価する。序章前半のように多くの研究者に引用 された完成度の高い論文がある。しかし本書評では本論第一部のみに力点を置い た。しかも批判がましきことを述べるに終始した。それも著者が独自の着眼点か ら史料の山を整理され、新たに切り開かれた道をあとから辛うじて辿ることによ り、なんとか異なる視点を得ようとあがいてみたものに過ぎず、まことに拙い。 結果として本書の特色、優れた点の紹介が不十分になったしまった。もとより本 意ではなく、著者そして読者にはお詫びしなければならない。ただし批判なき風 土、批判を許さない風土には、真理を追究する学問は育つまい。その認識は著者 と評者には共有のはずである。著者よりの御批判と御教示を期待したい。  本書の成立の過程を見ると、もととなった論考がいずれも一九九〇年から九四 年までのわずか五年間で書き上げられていることが分かる。著者の勢いと力を感 じる。力が余っての思わぬ勇み足や、書き急ぎに過ぎた部分もあったかも知れな い。だが著者のこの力に期待しよう。九州の視点から日本を、そしてアジアを、 九州大名の視点から豊臣政権と朝鮮の役を考え直すという著者の視点は様々な新 事実を明らかにした。この視点は次回にも、もう一度多くの事実を明らかにして くれるだろう。期待は大きい。最後にもう一度。どうかこの労作をじっくりと味 読していただきたい。それが評者の希望である。 (注) 1 曽根勇二(『歴史学研究』六九七、一九九七年五月号)     福田千鶴(『歴史評論』五六七、一九九七年七月号)   三鬼清一郎(『日本歴史』五九二、一九九七年九月号) (校倉書房 一九九六年三月刊 A四判 四五四頁)


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