二千人が七百の村で聞き取った二万の地名、しこ名  ----佐賀平野地名地図稿------

書評

石井進・史学雑誌110−10(2001) 金子哲・日本史研究 高木徳郎・日本歴史651(2002)

紹介記事

その1 西日本新聞01/9/04・朝刊

その2 毎日新聞01/9/21・夕刊

その3  佐賀新聞2001年10月29日

〈佐賀平野、埋もれた地名掘り起こす〉 古代から明治時代初めにかけ佐賀平野で使われていた約二万の通称地名を九州大大 学院の服部英雄教授(日本中世史専攻)と教え子が掘り起こした。延べ約二千人の 学生と八年がかりで収集、二十四市町村にわたる大規模な調査範囲は全国的にも珍 しい。平安時代の荘園ゆかりの集落を「総領分」、奈良時代の官道を「お歯黒道」 と称するなど、住民生活に密着した地名が百三十年ぶりによみがえった。 明治時代以前には集落や田畑、川、道などには地区ごとに呼称が付いていた。集落 には現在も、その名称が残るケースがあるが、田畑や川は明治六(一八七三)年以 降の地租改正で、ほとんどが数字や地形の特徴、植物名などを組み合わせた地名 (例えば一本松、三本谷)に変更され、次第に忘れ去られていった。 調査は佐賀市郡、三養基郡、神埼郡、多久市、小城郡、杵島郡で実施。学生らが古 老らから聞き取り調査した。史実にまつわる地名は多く、杵島郡江北町佐留志に は、平安時代の荘園の名残である「総領分」、佐賀市兵庫町には鎌倉時代の地頭 (在地領主)の直営田「用作(ようじやく)」が「ゆうじやく」と発音が変わり使 われていた。 山ろく部には遺跡にちなむ「ツカ(塚)」地名も残っている。「フトツカ」という 地名が伝わる神埼郡東脊振村石動では、二〇〇年十二月に古墳時代の前方後円墳 を県教委が確認、地名のいわれが証明された。当時の風物や生活を連想させるケー スでは、神埼郡神埼町の官道を、地区民は公家の既婚女性の特徴を引用し「お歯黒 道」と呼んでいた。 県教委によると「これだけ広範囲にわたる地名調査は全国的にも珍しく、当時の耕 地形成や史実の解明など、さまざまな角度から佐賀平野の歴史を解明する土台にな る」という。 史料「二千人が七百の村で聞き取った二万の地名、しこ名」として刊行。A四判で 地名などを記した地図編、地名一覧、解説編で構成し、一セット八千円(税別)で 販売している。(澤野) その4 朝日新聞01/11/27・朝刊

戻る