鹿島市重ノ木

   松永 健太郎
岩切 優典
黒岩 英一
石井 渉

     最初、僕たちは区長をされている峰松さんのお宅を目指した。途中、少し道に迷ったが、農作業をしておられた人に道をうかがって何とかたどり着くことが出来た。峰松さん宅に着くと、奥さんが出迎えてくれて、公民館に案内して下さった。
 予定していた時間よりも早くうかがった事もあり、時間までの空き時間で僕達は昼食をとった。しばらくすると、峰松さんがいらっしゃって重ノ木の干拓の歴史について話して下さった。峰松さんは重ノ木の歴史にかなりの情熱を持っておられるらしく、周りの老人達を前もって呼んで下さっており、対座した僕達の気持ちも引き締まった。
 峰松さんの話によるとあだ名の下につく「角」「籠」は干拓した時期を表すもので、先に干拓した土地に「角」という名をつけ、後に干拓した土地に「籠」という名をつけたのではないかと言うことだった。
 小字図を見ると、確かに干拓地の内側に「角」が、外側には「籠」が分布している。僕達が前々から地図を見ていて気づかなかったことも気づいておられた事に驚き、感動した。
 その後、中村喜鶴さんが来られ、中村新一さん、中村勝さん、森田利朗さん、白浜昌一さんが順次いらっしゃったので、用意した質問を始めた。以下にその結果分かった事を書いて行く。

しこ名
 細かくつけてある水田もあれば、大きな範囲に1つしこ名がついている場所もあったようだ。列挙すると、山田籠が「キタノコモリ」、秀籠が「ヒデ」と「ウースイ」、梅崎籠が「トイチコモリ」、江副角が「エゾエ」、田崎角の南が「セイエモンゴモリ」西が「タサキ」東が「カクノシタ」、その北に「一ノ角」から「八ノ角」まで(ただし、なぜか「7ノ角」はなかった)、その北西にある十久間角は北が「セケントクマ」南が「ジュウノキトクマ」で、重ノ木と世間の境界がある。また、人の名前(その場所にゆかりのある人物)がしこ名になることが多いようだった。その中でも、梅崎籠が一番新しい干拓地だそうである。他に、六角籠は水利権の関係で小舟津の飛び地であることがわかった。
水路
 特に名前のついているものはないようだったが、現在の水路図を見せてもらえた。各水路には番号が振られていた。水源については南西にあるシメゴ(神水)から全ての水を引いてきて使っているそうである。そして、水路の下半分に板をはめて、その板の高さを越える水量を余り水として六角籠に供給していたそうである。また、田崎角の八ノ角の場所にあったオンガンボイ(御髪堀)とヒデゴモリに涌き水の出る場所があったそうである。
村:
村の名前は現在の十久間角、しこ名で言う重ノ木十久間あたりで、カミコガ、ナカコガ、シモコガと区分されていた。カミコガはしこ名の世間十久間辺り、ナカコガが重ノ木十久間あたり、シモコガが四ノ角辺りだったようだ。

重の木の歴史について:
重の木は鍋島氏第3代鍋島直朝の隠し田として開拓された可能性が高く、直朝の時代に開発されたのが、清右衛門籠、梅崎籠、秀籠、山田籠で、25町余の干拓地であった。それ以前に開拓された土地には「角」という文字がついている。(田崎角、十久間角など)この地域に入植したのは世間、白石の人々だったらしい。江戸期から明治二十二年まで重ノ木は重ノ木籠と呼ばれていた。各籠の成立年と広さは次の通り。
名前成立年広さ
重の木籠寛文元年25町
秀籠元禄2年9町4反余
山田籠元禄2年5町8反
六角籠元禄2年7町7反
梅崎籠寛政元年1町9反
新ヶ江籠年不詳1町6反
稲毛籠年不詳4町3反
(重の木籠は新右衛門籠5町4反余を含む。)
高潮が多く、文政11年には「子年のあらし」と呼ばれる暴風雨で甚大な被害を受けた。
 明治22年から呼び名が重の木籠から重の木に変わり、現在に至っている。大字の重の木は重の木、犬王袋、世間、小船津、五町、の5つの小字に分かれていた。(途中で五町は小船津に統合される。)
このころも水害が多く、最も被害が大きかったものは大正3年8月に起こったもので、その被害は、流失家屋3、全壊家屋1、半壊家屋9、床上浸水115、床下浸水123、堤防決壊13ヶ所247間(秀籠から山田籠まで)収穫皆無田38町5反余であった。

また、昭和28年より新たに海苔の養殖を始めている。

記念碑
地鎮の石碑と鍋島直朝、菅原道真、三夜さん(干拓に尽力した人らしい)を記念した石碑と大正3年の水害の記念碑を見せていただいた。(写真参照)記念碑には漢文で文章が刻まれていた。
碑文原文と訳文

災害:干ばつ
 重ノ木はあまり水不足になった事はなかったようだ。七年前の干ばつの時は全く影響がなかったらしい。六角籠への余り水も十分ああったようだ。しかし、昭和三十二年の干ばつの時は水不足になってしまい、その時はヒデゴモリで三昼夜にわたってポンプで水を汲み上げてしのいだそうである。それより以前の干ばつについては分からなかった。
     洪水
重ノ木は干ばつよりも集中豪雨や洪水のほうが脅威だったようである。そのため、重ノ木一帯は堤防で囲っていたそうだ。

使用した肥料:
麦を収穫した後に田をおこして豆かすやにしんやいわしといった魚のかすを元肥として加えていた。最近では、元肥えには、B・B・464と呼ばれる化学肥料を使っているそうだ。

ゆい及び防虫対策:
 ゆい(共同作業)をすることはほとんどなく、専ら人を雇って田植えなどの作業をしていたそうだ。また‘ゆい’と呼ぶのではなく、‘いい’と言っていたそうだ。
また、防虫対策として、軽油を薄く水田に膜を張る程度にたらしていたそうだ。
散布量の目安としては一反あたり1リットルぐらいだったらしい。

当時の娯楽:
 当時は青年クラブといわれる会館があり、晩飯を食べた後、手に五十円をにぎりしめナイトショーを楽しんだそうだ。またそこでは、映画に限らず、芝居も見れたそうでこの芝居の事を狂言といっていたそうだ。また、夏の夜などは、そのままはそこで寝泊して、若いものでよく騒いだものだとおっしゃっておられた。
今のゴールデンウィーク時には、はざかま、又は夏やみといって1週間、青年クラブにずっと寝泊りして、宴会をしたり、ぶらぶらしたりしていたそうだ。また、夏には伝統的なふりゅうも行われていたそうである。

ガス・電気:
 電気は早くから通じていたそうで、古いところは大正九年ごろには通じていたそうだ。ガスが使えるようになったのは昭和三十五・六年ごろの事だそうだ。畑仕事をする男性には、さして、影響はなかったが家事、炊事をやっていた女性は、火を起こす労力をかなり軽減できたそうだ。また、ガスが通う前は、稲や麦の藁を燃料に作っていたそうだ。

米の保存:
 昔は、家族で食べる分は二階に保存し、残りは売ったそうだ。二階に保存するのは、昔から水害に悩まされていたため、それに用心したのと、昔の家はかやぶきだったため、通気性がよかったのを考慮してだそうだ。

牛か馬か:
 重ノ木では農業の補助として、ほとんどが牛を使用していたそうだ。えさには、米の研ぎ汁を藁にかけてやったものや、道端の青草、米ぬか、特別な時にはくず米を炊いたものなどをやっていたらしい。
 また、牛を洗った場所はシモンカワと呼んでいたそうだ。その場所は、「衛生を考えて、村の下流だった」とも教えて下さった。

年中行事・祭
重ノ木には昔から伝わる年中行事・祭が数多くある。一昔前までは祭のある日は固定されていたが、今では村の中にも市役所や会社で働く人が増えてきたので平日に祭を行ったのでは参加者が余りにも少なくなってしまうという事態が生じてしまう。よって、現在では祭を土日に行うことが多い。

年中行事
一月@初祈祷
   A大宰府神社参詣  一月中に
            代表5名輪番
三月 春彼岸籠  春彼岸中心に
七月@鳴神祭  7月13日中心に
   A沖島祭  7月中に船頭共三名代参
   B大良?参詣  7月中に代表2名
   C琴路神社籠  7月中に部落内で
八月 大潮当夜  8月25日大潮記念(大正三年・六年に記念碑)
九月 一番当夜  9月1日中心に
十二月@権現祭  12月2日中心
    A天神祭  12月25日中心に

 一月の初祈祷はまず代表者がお払いに参加し、その後御神酒を飲む時には部落のもの全員で飲む。御神酒の事を特別に「なおらえ」と言う。
 沖島祭の「沖島」とは有明海に浮かぶ孤島の事で、昔そこで雨乞いをして身を投げた女がいたそうだ。
 八月の大潮当夜は、大正三年の八月二十五日に激しい洪水があり、重ノ木地区に大災害を巻き起こした事に対し、海の神を祭り、重ノ木を守ってもらうように祈念するものである。この事は公民館の傍らにある大正六年に作られた祈念碑に書いてあった。
 九月の一番当夜は田植えから二百十日経った頃にこの地域に台風が直撃しやすい事から、ちょうどその頃に神を祭ろうとしたものである。  

村の今後:
 今は、専業農家としては収入が少なくて生活していけないので多くの人が会社に勤め、兼業農家として田畑を耕しているのだが、長時間の会社勤めの後に帰宅してからやる農作業は、体にかかる負担がとても大きくてつらい。また、昔のようにただ子供に農業を継げと言う事は、苦労と現実を知っている身としては言えない。家族で話をするが、すぐに会社をやめて農業を継ぐというのは、収入の面から考えても難しい。だから、国や地方自治体の政策として援助が必要と険しい表情をして話をしてくださった。



最後に、この調査に協力していただいた方々に感謝いたします。ありがとうございました。