しこ名・山・谷・淵・古木一覧
打越
ベットンタニ(ベットウノタニ)
シャーレン
ナンゴウダニ(ナンゴウヤマノタニ) 南郷谷
山王原
ナメンサコ(ナメリサコ)ナメン迫 一部赤土を含む。現在でもよく使われている。
イワシタ 岩下 岩切場があり、岩を切り取ったあと田んぼを作った。
イデンシタ(イデノシタ)出下
ドンサコ ドン迫 *一部辻含む。 ドンとは幽霊をさす。重箱を抱えた幽霊(重箱抱え)がこの場所で出るといううわさがあった。峠越えや食料不足で命を落とす人が少なくなかったため、このようなうわさが出たのではないかと言われる。大人は遅くまで遊んでいる子どもたちに“重箱抱えが出るぞ”といって帰宅を促した。
辻・猿懸
ウージャラ 大平 熊本弁で大平のことをウージャラと呼ぶ。草切り山であり、共同山でもあった。
ヤマノネハタケ 山根畑
ゴンゲンノシタ 権現下 熊野権現の麓にあるため。
イチイガシ 熊野権現敷地内にある古木。樹齢800年。イチイガシの由来としては、建築材として堅く美しく、大木になるというので、木の中でも一位の位を持つということから名付けられたという説がある。
前田
センドブチ 地名の由来は不明だが、マムシが多い。
山口・丸尾 *山口のほぼ全体が共同山であった。
オオギヤマ
イチノサカ
ナキアリ
ヒゲジロウ
ナコウ
――田んぼの水はどこから?
「もう井出から。川の水だけ。井出から水ひくだけ。で、足らんときは『バンミ』って、何時間こしか、あの、交代で自分の田ん中に入れよったと」
――昔からずっと川からですよね
「かんばん(旱魃)で水の来んときは時間で自分田ん中に入れよったったいね。交代ごうたいで」
――やっぱり水が不足することはありましたか?
「そりゃもういっつも不足しとる」
――そういうときに水争いは?
「結局『水喧嘩っていうのは馬鹿見る』っていうぐらいでですね。隠れあいで引くようになったんですよ」
「引くのも夜中にしとった。あれが今引きよるけん、そしてまた何時間かして見に」
「それか物陰に隠れとってですね、今あの人が入れて帰んなったけん、その人は安心して帰んなったでしょ、だけん、その横に隠れとって引きよったって、ばあちゃんの話です。喧嘩するとほら、田舎だからしこりが残るでしょ。だから隠れて取り合いだったとです。今のごと機械がなかったでしょ、だから流れてくる水を取る以外に引き方がなかったでしょ。やけん隠れて水引き合いしよんなったと」
――そういうのが見つかった場合の罰などは?
「なかったです。でもそういうのは知らんふりして、また引きに行くわけよ。『今あん人が引きに行きよったけん、今度は自分が行こ』って」
「そういう人は無理して自分とこ溜めとうと、今度は水口を順に全部落としてしまわれよった」
「溜まった水ば取るようになったとですね、結局ね。流れてくる水でなくて。」
「これ以上溜まらんごってん石ばおいとくったいね。その石も全部外してね、引き落としてしまいよった」
――平成六年はどうでしたか?雨乞いはなさったことはありますか?
「前はやりよったよ」
「そのとき(平成六年)はなかったですね。もうタンクに水くんでトラックにタンクばいっぱい、二つも三つも乗せて、あの水のある場所から機械でタンクに水入れて、田んぼに持っていって返したですよ」
――逆に台風のときは?
「台風のときはどうもされん。」
――風切りというのはきいたことがありますか?
「そらなかった」
――用水路の中に生き物がいると思うのですが、どんなものがいましたか?
「前には鰻とか、海老とか、フナとか」
「むかぁしは『シャえび』っておったとですよ。小さな。」
「川エビたいね」
「そればしょうけでですね、こっこっこっこして、いっぱい這いよったですもんね」
――そういうのを食べに鳥が来たりは?
「鳥は昔は来よらんだったなぁ」
「鳥はぁ、田んなかにはあんま来よらんだった」
「近頃ですよ。鳥が田んぼに来出したのは」
「白鷺とかのはここ十年ばっかだけんね」
――川も一緒ですか?
「うん、一緒。きねどじょうがおらん。ドジョウの一種でね、『キネの島』いっとったの。あと、なまずの『ぎゅす』って言うとね」
「なまずばぎゅすって?」
「なまずのまっちょ違うとたい。二種類おったけん」
「『ぎゅうぎゅうたん』って言いよった」
――麦を作れる田んぼと作れない田んぼはありましたか?
「麦ば作られるところは皆菜種ば植えよった。」
――麦ではなく、菜種を優先して?
「植えられるとこはね」
「麦はですね、赤ぁくなって大きくならんとですよ。あの、土の乾かないとこはですね。そこに菜種…」
「やけんちょっと深田は牛で鋤きよったけんね。やけんちょっとしたとこがあって、そこには菜種つくりよった」
――牛を使っていたということは、馬はどうでした?
「馬はこっちはあんまおらんだったね。殆ど牛やった」
――餌はどうしていましたか?
「餌はそこらの草」
「あと藁ですね。冬場は藁」
――牛を使うときの掛け声を教えてください。
「しぃしぃ、どうどうとか。まぃまぃ」
「右とか左とか?『さし』と『まぃ』。さしって言うと左さ行って、まぃって言うと右さ行くとたい。そんときは(まぃって言うときは)右さぽっと引っ張ってね」
――掛け声だけじゃダメということですね?
「うん」
――手綱は一本でしたか?
「二本。右と左とね」
――雄牛をゴッテ牛と言いましたか?
「あぁ、男牛のことですよ」
「雌ば自分で(鋤を)引かせながら、子ば持たせて、子ば今度は市場ん持って行きよったけんね」
――やはり、牝牛が生まれた方が喜ばれましたか?
「うん。そうですよね。」
「雌のほうが高かった。牝牛なら三万から五万くらいかなぁ。良か牛だったら十万くらいしよった」
――雄牛を従わせるために何かしましたか?
「やっぱ一人前歯を握って」
――二人がかりで、ということですか?
「雄牛はね」
「でも慣れたらですね、結構覚えが良かですよ。」
「自分で行くもんね」
――牛洗いがないのは何故ですか?
「牛も洗いよったよ。川に行ってね」
「『川入れ』って言いよりました。牛はね」
――村の一等田は、化学肥料が入る前、一旦あたり何表ほどでしたか?
「八俵とれりゃぁ良かったよね」
「科学肥料入れる前やけんね」
「そして、化学肥料はなかけん、全部牛の堆肥。」
――反対に、悪い田は?
「反当二、三俵ぐらいやったったいね。水のかたかとこあるけんね。水のかたかところは」
「焼けてですね。あの、穂が、実がついてから赤くなって、実が入らずにですねぇ」
――蒔くときに、何斗蒔きとか何升蒔きとかありましたか?
「ありましたね。反当(たんと)四升蒔きって言いよったとですよ。」
――直播ではなかったんですか?
「なか」
「全部苗作って手入れしてですね」
――肥料として灰は重要でしたか?
「灰は手に入れられんかった。灰っつったってなかもん」
「焼き灰ばつくらなですね」
――稲の病気は?
「稲の病気は、共同防除しよったったいね。部落全部出て。道具のなかったけん、前は手漕ぎでポンプばね」
――それは害虫駆除の類ですか?
「そう。害虫駆除。田の草ってのは全部『がんづめ』をして。手で取りよったけんね。草取りは。『ホリドール』って言ったかな、前には」
「禁止になったけどですね」
「劇薬たい」
「共同作業でですね」
「マスクして手袋して、全然体出さんようにしてね」
「臭いが何とも言えない臭いだったよねぇ」
――共同作業の呼び名は?
「共同作業のときの呼び方ね」
「もやいとか」
「『もやいでしぅ』っち言いよった」
「『皆でしよう』って意味ですね」
――田植えのときに早乙女は来ましたか?
「うちんとは雇いよった。」
――何処から?
「うちやったらカアイの方から来よった。そうすっと、八女から来よった。
――さなぶりって打ち上げ会みたいなものですか?
「田植えの終わってからでしょ?」
「あの、川つってもいいしね、普通の竹をね、真竹を伐ってきてね、新竹を切って、二つこう、神木には米と塩と入れて、こう運んで、両方に竹土のつくもん。して、こう縄で結んで、して、竿にかけちから川に置きよった。なすびと、きゅうりと持ってってね。川端に。やけん、竹も枝ば二本残してね」
「なすびは何でかあげよったなぁ。一番になぁ。徒花がないって言いよったですもんね。なすびは花の咲いたら皆実がつくって言うとですよ。だけんなすびは縁起がいいって言うとですもんね。必ずですね、川に一番に、川とか、昔は『ゆがわ』さんって言いよったですかね?あそこになすびがなったら初めにちぎって持って行きよったですもん」
――田植え歌はなかったですか?
「うん。好きなもんが自分の流行歌を歌いよっただけで」
――地域の民謡とかは?
「なか」
――草切山ってありましたか?
「あったよ。やっぱり牛の餌、ね」
それってこの地図でどこらへんか指してもらえますか?
「そりゃこの、大平(ウージャラ:地図参照)たい」
「昔、松山やったけん、坑木で出した後は…三池炭鉱の坑木はあっこからとっとるけんな」
「草切山の前は松山で、坑木で出した後は草切山になったとですよ」
――この地区にガスが来たのはいつ頃ですか?
「四十年代ですよ。昭和四十年ごろ。それまでは灯油だった」
――電気が来た頃の話は聴いたことがありますか?
「電気の来たとは、俺のこまかとき」
「んなら十二年生まれだけん、いつごろかなあ」
――当時の話を聴いたことは?
「そんなんなか(笑)」
――ガスが来るより前は…
「薪。と木炭。」
「私が(お嫁に)来た頃は、まだ薪で焚きよったですけんねぇ。三十八年に来て」
――薪はやはり山から自分たちで伐ってきたんですか?
「うん。自分たちで」
――この地図で言うとどのへんですか?
「ここら辺の山ですよね」
「殆どどこでん取りよったけんね。ここ全部」
――取れるところは全部?
「他所の山は取らんけど。皆個人で山持っとるから」
「雑木山とかから取ってきよったですね」
――反対に共有の山などは?
「もう殆どなかったもんねぇ」
「前はあったとけどね、戦後になって全部小作に分けてしもうた」
「だけん二十年過ぎだぃな、分けんなったのは」
――その入会山は何処でしたか?
「この辺は皆共同山だったけぇな。山口の山は全部(地図参照)」
「そこは終戦になってからですね、個人に分けなったですね」
――そこではどんな作業をしていましたか?
「やっぱり、あの、炭焼いて。分けてから(終戦後は)個人で杉植えて杉山になったと」
「共同山のときはなんやったわけ?」
「雑木山たい」
「それが個人のものになったでしょ。杉山とか檜山に。今度は蜜柑山に開墾したんですよ」
「それが三十二年ごろから蜜柑の開墾があったったいね」
――木の切り出しで、木馬、しゅら、ろびきとかいうのは?
「切り出しのときはゴッテ牛使いよったったい。道の中とかは一町、二町ばくらいは人間で引き出しよった。殆どゴッテ牛で。ほやけん、牝牛とゴッテ牛と二匹でやらせようとこが多かったよ。生活ばそれでしていきよったとこが多かったけんね」
「他所のばではですね、ゴッテ牛で引き出してお金もろうたりね」
――炭は焼いていましたか?
「炭は焼きよった」
――それは商用ですか?
「うん。商人が買いにきよったけんね」
――それの収入はよかったですか?
「何百円やったかなぁ」
「何百円やったかねぇ」
「百何十円かやったかな」
「昭和三十年代にですね、百何十円やったかね。二十五斤ていうてですね、俵が二十五斤が何キロ?十五キロくらい?が二百円代だったでしょうね」
「俵は、ススキってあろうが。あら冬の間、秋から干しとって、冬の間こんだぁ編んで、それが一頃十円ぐらいだったかなぁ」
――山を焼いたりしましたか?
「雑木山ば焼いてから、杉山になったったいね」
――特別な呼び名は?
「ここいらでは山焼きっていいよったけん」
――蕎麦は作っていましたか?
「蕎麦はつくりよったよ。自家用だけね」
「麦もですね少しは作りよったですよ」
――一反あたり何表くらいでしたか?
「そがんと取れん(笑)」
――焼畑はなんという地名になっていますか?
「焼畑は…焼畑は芋つくりよったけんねぇ。前には焼いてから杉ば植ぅる前に芋つくりよったと。里芋。」
――共有地ということになるんですか?
「いや個人の。」
――阿蘇とかで草山を焼いたりしていますが、そういうことは?
「そりゃなかった。」
――楮とかかごはつくりましたか?
「かごはね、田んぼの土手にかごば植えてから切りよったですて。そしておもしなさっとこにもって行きよったですよ。何軒かねぇ、おもんしなさっとったとこあったですよ」
「山口にひとりおんなったもんね。かごをがんばってつくりよったひとが。その人が一把いくらで買いよったからね」
――ちょまってご存知ですか?
「麻、つくりよったね。すーっと伸びよったろうが。こがんとの。ひゅーっと。あれば、やっぱ、杉ば植ぅる前の開墾したとこに麻だけは太りよったけん。麻ば作りよった」
――山栗とか葛根は作っていましたか?
「山栗は作りよったけど、葛根は聞かんね」
「山栗は食料でしたね。売る用じゃなくて」
――他に木の実でとっていたのは?
「山桃でしょ、天保梨…天保梨は今のきゅうりの元祖んごたある。とか椎の実とか」
――食用のほかに、商品価値のあった山のものは?
「そん頃は無かった」
――では川にはどんな魚が
「どんことか。とってきて食べよったなぁ」
――川の毒流しとかはありましたか?
「山椒がね、山椒ば皮はいで、石灰入れて炊いて、それを流しよった」
「エンドリンよ」
「あとコヤシの実を食塩に入れてこうして押しもむ」
「と毒になると?」
「そう。それを川に流す」
――干し柿とかかち栗の作り方を教えてください
「干し柿は取ってきて、皮をむいで、藁で縄ばなってからね、それに挟んでから吊るして」
――野に生えてる草で食べられるものはありました?
「う〜ん、よもぎとかは食べれるばってんね」
「あと野蒜とかでしょう。あと芹とか」
――その他にはどんなものがありましたか?毒とかがあるものとかは?
「毒になるとはあんま聞かんだったー」
――田んぼで収穫したお米はどうやって保存しましたか?
「もう殆ど毎朝手編みの俵だったけんね」
――飯米や兵糧米について教えてください。
「飯米も兵糧米ももう一緒たいね。百姓は。俵に入れてね」
――種籾も俵に入れていたんですか?
「それからかますに変わったけんね」
「今度は藁で編んだ…筵ってあろうがね、藁で編んだとば…」
「かますって言えば、藁で編んだ袋になるかなぁ」
――ねずみ対策には?
「昔は猫だったですよ。猫飼とっくと、昔はようねずみ捕りよったですもんねぇ」
「そ〜らよう捕りよった」
「んで見せに来よったですよ。捕ったねずみを。捕ったよ〜って(笑)」
「んで死んでから食べよった。ひとしきり遊んでから、死んでからどこか持っていって食
べよった」 ――お米作りの楽しみ、苦しみは?
「そりゃぁ、やっぱり俵になったときが一番楽しみ」
「一番苦しかとは、もう、『ねこぼく』に籾ば干したときたい。夕立とかくっと、それを抱えなたい。」
「猫ぼくってのはこういうかんじでですね、やっぱちょっとこっちが長いとですよ。で、こん中に籾ば入れるとですよ。乾かすために。で、夜にはこうしてこうして畳んどくわけ。で、雨が来ると、これを持って軒下に入れるとですよ。濡れんようにね。これが抱えるとが重いとですよ。お腹の大かときこれば抱えるのが私は一番嫌だった。きつかったですよぉ」
「一番の楽しみは籾摺りのときたい」
「籾ば玄米にするときですよ。十俵缶とか五俵缶のあったですもん。それにどんくらいはいるかなぁが楽しみでですねぇ」
「供出米を取った後に自分とこで食べる保有米とっとかないかんけんね」
「丸い缶でですね、上から入れて下から出すごとなっとって、まぁ今年は十俵出して、保有米は月に一俵なら十俵いるでしょう、で、それ一杯貯めないと食べるのがないとですよ。で、どうしても足りないときは、出す分を八俵くらいにして取っとくとですよ。お金は入らんごとなるけどしょうがなかとですよ。籾摺りが一番楽しみだったですね。」
昔の暖房はどうでしたか?
「囲炉裏って言いよったたいね。あれに薪ば焚きよった。『センバキ』て言ってから、こんくらいに木ば切ってから、竹ばいれて、で囲いよった」
舗装される前は、道はどうでしたか?
「道路はなか。畦道たい」
「山道ですよねぇ」
村には外からどんな物資や人が来ましたか?
「魚売りさんとかでしょ」
「魚売りは中島から来よった。山門郡…。後はもう
行商人のほかに、旅芸人などは?
「来よった。うちには一週間おったかなぁ?青年(団)で、しよったけんね。芝居とか。」
そういう旅芸人などは、一帯の、大きな家に泊まっていたのですか?
「いや、ウチで。寝泊りさせて、食べさせて、ウチでやったとは、親父の快気祝いばしたときば。」
そそくりって何ですか?
「修理屋のことよ」
「鍋の鋳掛屋さんたい」
「『鍋の(穴が)ほげたのありませんか〜』とかね」
「そして鋳物ば溶かして、そこの(鍋の)ほげたとこば温めて穴を修理しよったと。桶の壊れたのとかね」
そういう人は、川原やお宮の境内で野宿をしていたのですか?
「農家に泊まってた」
その人たちは何と呼ばれていましたか?
「職人さんやったかなぁ?」
その人たちは何処から来たと考えられていましたか?
「あれはもぅそこここに何人かおったからなぁ」
「カホクとか八女から来とったとでしょうなぁ。ここら辺ならね」