歴史を読み解く・ガイダンス
1文永十一年・冬の嵐 蒙古襲来前段、文永の役で、蒙古軍が上陸した夜に嵐が襲ったという。翌朝には蒙古軍が博 多湾から姿を消したとされているが、このことは『八幡愚童訓』以外の史料の記述にはみえな い。『愚童訓』は八幡神の霊験記であり、実録ではない。実際には嵐はその夜に吹いたとは考 えにくく、蒙古軍の撤退もしばらくあとだった。冬の季節風に、日本海交通は遮断される。蒙 古・高麗軍にとって、それ以前に撤退することは、当初よりおりこみ済みの行動だった。 2カタアラシの語義と二毛作の起源 カタアラシ(片あらし、かたあらし)は研究史では地力(ちりょく)がないために隔年に休 耕せざるをえない田とされてきた。しかしいまもカタアラシのことばが使われる地方がある。 三重県多気町ではカタアラシは麦を作らない一毛作田を意味している。戸田芳実は『古事類苑』 の誤植を踏襲したため、カタアラシを読んだ和歌の情景を誤った。和歌でのカタアラシも冬季 に麦を作らず休む田のことである。漢字の田は中国では畑の意味で、律令(唐令)の「易田」 も畑である。毎年作り替える畑の意味なのに、日本ではそれを田に適用しようとしたから、混 乱が生じた。カタアラシの語は背景にある二毛作の存在を想定させる。二毛作の初見は従来い われてきたよりは二五〇年以上も早く、『菅家文草』(九〇〇)の「麦田千畝に遠し」という 表現、あるいは嘉祥二年(八四九)木簡(石川県津幡町加茂遺跡出土)にみる「五月までに田 植えを終えて報告せよ」との規定の背景に見ることができる。 3久安四年、有明海にきた孔雀 『長秋記』・長承二年(一一三三)に肥前国神崎庄に宋船が到着したとある。これは有明海 への入港を指すのか、博多を指すのか。見解がわかれている。久安四年(一一四八)、同じ肥 前国の杵島庄から孔雀が献上された事件は従来まったく注目されてこなかった。むろん有明海 への宋船の入港を語る。中国・明時代の日本解説書に書き上げられた港津は有明海にも多い。 それらは河口津であり、筑後川の河口には神崎庄津たる蒲田津(蓮池)ほか多数があった。潮 の干満を利用でき、かつ干潮時にも水深のある河口津が中世港津の適地であった。博多津だけ が日宋貿易における唯一絶対の港津であったわけではない。 4鹿ヶ谷事件と源頼朝 従来『平家物語』の記述によって、鹿ヶ谷事件(治承元年・一一七七)は刹那的で発作的な 事件であるかのように認識されてきた。いわば『平家物語』史観である。宗像社文書の元暦元 年(一一八四)源頼朝書状は「前尾張少将」に肥前国晴気保地頭職を与えた内容だが、この人 物は鹿ヶ谷事件首謀者・藤原成親の弟、盛頼(藤原定家の姉婿)であった。鹿ヶ谷事件関係者 である平康頼への恩賞授与のケースと、盛頼への恩賞は同じ理由と考えられる。類推すると、 頼朝は成親から何らかの庇護を得ており、平家打倒の武力として期待されていた。恩賞は不遇 な時代の保護に報いるものであろう。鹿ヶ谷事件は単発的・局所的なものとはいえず、治承・ 頼朝挙兵の伏線であった。 5南北朝の内乱と家の交代 後の史料では連綿と続いているかのように記述される武士の家の歴史だが、実際には南北朝 期に庶子家が台頭して、惣領家に替わるケースが多い。そこまでいかなくとも惣領家の安定支 配が崩れたところも多かった。そのことが現地調査で確認できる例を紹介する。彼らの本拠地 や菩提寺の調査、あるいは彼らが支配していた領域を確定することによって、実際の支配地域 の広さや本当の拠点など真相が明らかになるからだ。相良家、仁保(平子)家、熊谷家、山内 首藤家を素材とした。 6 風土と歴史---筑後川下流域のシオ(アオ)灌漑 有明海が満潮になると、河川も影響を受けて水位が上がる。河川内の水は真水だから、大潮 にその水をホリ(クリーク)にため込み、水車で揚水し、田を灌漑した。シオ灌漑とかアオ灌 漑とよぶ。これを高度で不安定な技術とみなす研究者が多いが、三根郡西島村、神崎庄、三潴 庄をはじめ、中世文書にはこうしたシオ灌漑地域の村が多数登場する。光浄寺文書(佐賀県三 根町)の南北朝期の史料には地名「高汐入」も見られる。自然状態でも月に二度真水が江湖を 遡ってくる。人工的な装置を設けて保水力を向上させた。それがシオ灌漑で、歴史は古く、こ の地域の稲作とほぼ同時に始まっていた。 7 福岡城に天守閣はあったのか 黒田如水の福岡城に天守閣はなかったというのが定説だが、近年紹介された元和六年(一六 二〇)の肥後細川家史料に「福岡の天守」とあることから、初期五重天守存在説が主張される ようになった。しかし正保絵図をみると、天守台よこに「矢倉跡」と書かれた場所がある。こ こを福岡藩は中天守台・小天守台と呼んでいた。ここにあった矢倉は天守と称されていたが、 正保以前、寛永段階の台風被害によって取り壊されたと考えられる。天守台そのものに「天守 跡」なる記述はない。当初から大天守や矢倉(中天守台・小天守台)が揃ってあったとする と、通常はない二つの入口の天守になって、縄張(平面プラン)からも不自然となる。大天守 はなかったが、天守機能は当初には中天守相当の櫓が、のちには切腹櫓ともいわれた天守櫓曲 輪の建物が代用した。 8原城の戦いを考え直す----新視点からの新構図----- 四万人を超す人たちが籠城した原城のたたかい。原城は四周を海に囲まれ、キリシタンたち は絶望的な気持ちで戦った。多くの人々の中にあるこうしたイメージは本当なのか。 籠城者たちが四方に使者を派遣して、一揆への同調、内乱状態を起こそうと意図したこと、幕 府側もそうした事態を想定して対処しようとしたこと、すなわち海は外の世界につながってい たことを明らかにする。また幕府がオランダに命じて大砲を撃たせたことを手がかりとすれ ば、カソリック、プロテスタントの宗教戦争の図式をあてはめることができる。幕府・オラン ダは反カソリック(つまり反イエズス会)として一揆籠城方、そしてつながるポルトガルと対 決した。 9虚実はあざなえる縄---殉死者たちの墓碑から 森鴎外の小説『阿部一族』で知られる熊本妙解寺・細川忠利殉死者たちの墓。阿部弥一右衛 門の墓もそこにある。許可を得ずして切腹したという小説とは異なり、ここでは彼の死は藩公 認の死とされている。しかし実際にはかれら殉死者は、忠利からも新藩主の光尚からも許可を 得たわけではなかった。無許可の死が公認の死となり、やがては顕彰される。いまに残る史料 はどこまで真実を伝えているのか。記されることのなかった殉死者たちの葛藤があって、それ が鴎外小説の原形とされる所伝になったのではないか。