歴史を読み解く・正誤表
ガイダンス 10頁4行 吹いたとは限らず→吹いてはいない。 しばらくあとだった。冬の季節風に →しばらくあとだった。『愚童訓』は嵐ではなく、神が戦って、撃退したとする。冬の季節風に 2頁 後ろから四行目 読むべきものと考えられる。 →正 2頁 後ろから四行目 読むべきものだと考えられやすい(この点は二八頁に後述す る)。 4頁表 鎌倉年代記の項 以下に差し替え 十月五日対馬にて少弐代藤馬允敗死、十月二十四日大宰府にて合戦、異賊敗北 (欄外)*『吉続記』については本文参照。 10頁11行 流される→流れる 18頁図6キャプション 『福岡平野の古環境と遺跡立地』79頁図版に加筆 20頁 3行目以下10行目 まで削除 25頁18行 使者→使者・報告 27頁9行〜14行 『鎌倉年代記裏書』以下は以下に差し替え 『関東評定伝』には 「文永十一年十月五日、蒙古異賊寄来、着対馬島、討少弐入道覚恵代官藤馬允、同廿四日、寄来大宰府、与官軍合戦、異賊敗北」 とある。対馬での合戦が五日にあり、少弐代官藤馬允が敗死し、二十四日には大宰府で合戦があって、日本が勝利した。二十一日に元軍が帰国したわけではないことは明らかである。赤坂合戦のあと、三日をおいて、侵攻してきた蒙古軍との大宰府決戦があった(『鎌倉年代記裏書』に類似の記事があるが、不完全な写しで文意が通じにくい)。 なお『吉続記』逸文(『伏敵編』所収)に 「文永十一年十月廿七日(略)九国隕滅可憐、是関東政道之緩怠也、衆口囂々、但可秘云々」 とある。これは十月二十日の戦闘結果を伝え聞いての記事である。吉続記の著者、当時蔵人であった吉田経長の場合は八日で九州の情報を知ることができた。 75頁 千→干 渇→潟 聞→開 祟→崇 133頁3行 平均二斗代→平均四斗代 151頁 「天守のなかった天守台」として列挙したうち、 津城には天守があった。三層天守に二層小天守が連結したもの(藤田達生『日本中・近世 移行期の地域構造』8章藤堂高虎の都市計画・伊勢国津甲府城・最近発掘の成果から天 守があったのではないかとされている。 186頁 年忘→年忌