服部英雄のホームページ
09(平成21)年度
106)納戸神(いわゆる「かくれキリシタン」)の村の棚田 ―長崎県平戸島、国見岳(安満岳)山麓『棚田学会10周年記念誌2009ニッポンの棚田』2009.8,80-81頁
107)棚田の地名『平戸島と生月島の文化的景観』 保存調査報告書(252-254頁)*無署名
108)海と民衆知・個人知 国立歴史民俗博物館研究報告 (第157集「中・近世における生業と技術・呪術信仰」: 分担執筆で服部が1部277-288頁、楠瀬慶太が2部288-296頁を執筆)277-297頁 -------(服部分目次) 1部 航海技術と民衆知・個人知 1 夜間の航海・宣教師アルメイダの認識 2 治承四年『高倉院厳島御幸記』の航海技術 3 大和田重清日記にみる内海航海術 4『言継卿記』にみる内海航海術 5 平戸島春日・反流と海の地名
正誤 2頁 (誤)この日付は当然にキリスト暦(西暦・新暦)であるから、和暦(旧暦) に換算すると、永禄六年 八月六日となる。半月だから月明かりはあった。 (正)この 日付は当然にキリスト暦(ユリウス暦)であるから、和暦(旧暦)に換算すると、永禄六 年 八月十六日となる。十六夜だから晴れていれば月明かりはあった。 4頁 (誤) 西 暦(太陽暦)4 月7 日に相当し、同じ頃4月上旬の (正) 西暦(太陽暦)4 月15 日に相当し、同じ頃4月中旬の 科学研究費:基盤B、「非文字知社会と中世の時間・暦・交通通信・流通に関する研究」(代表者・服部)実績報告書 QIR:http://hdl.handle.net/2324/17911 1-18頁、歴博版になかった平戸春日図版を付している。
109)佐々成政のザラ越えと旧信濃国人・村上義長の動向 -----鈴木景二氏らの試案によせて、および安房峠追補
(『比較社会文化』16;1-8頁九大学術情報レポジトリQIR 掲載hdl.handle.net/2324/17120)
(『比較社会文化』16;121-264頁、九大学術情報レポジトリQIR 掲載) http://hdl.handle.net/2324/17119 写真は小幡城跡(名古屋市守山区)、現在はマンションが乱立している、ほかにも 御器所西城(マンション建設で濠は消滅)、鳴海城、清須城(清洲城、区画整理で 外堀など消滅)、小田井城(区画整理で消滅)、上条城(春日井市、駐車場)、桜井城 など在りし日の良好に保存されていた城跡の姿を紹介。
*正誤追加(正誤表は上記QIRに掲載しているが、その後の追加)
143頁 西志賀城 石碑享和2年、そのあとに愛知県碑。愛知県碑が建った5年後、在郷 軍人会が、二つの碑を囲む柵と入口を作る(松岡進氏ご教示) 145頁 九之坪城のキャプション・当時石はあった。→いまも石はある。しかし写真の畑 は地下げされ、石の周囲のみがそのままだから、高く見える(高田徹氏ご教示による)。 現在は施設が建てられている→城外南東に施設が建てられ、そこに九之坪城の碑と説明板 が建っている(同上)。 161頁上左が160頁の(5)に相当(記載漏れ)。 160頁(2)と161頁右は一番よく残っていた濠(2)と土塁小田井城跡
説明補注 (上)田のなかの塚にあった小田井城碑。 (下)2枚:小田井城遠景、名鉄犬山線線路、田のなかの石柱が(上)の碑 *遺跡が壊された経緯は本文参照。 高田徹氏によれば旧石碑(愛知県碑)移設先新碑に建設関係会社の名前が連記してあるとい うから、地元西枇杷島町がわずかながらも保存交渉を行ったのかもしれない。 * (下)は望遠レンズで撮影しているので、石碑や名岐バイパスまでの距離感がじっさいよ りも接近しすぎている。学術資料としては本来こういうことも注記しておかなければな らなかったと反省。 撮影メモ (上) 撮影機はヤシカフレックス(二眼レフ) テッサー派だった父親はヤシカレンズの性能を高く買っていた(ヤシコールとヤシノン があって、この二眼レフは後者だった)。このカメラを使っていたのは小学校の時だから、 この小田井城碑撮影もおそらく小学生のとき。フィルムは12枚しか撮れないブローニー(6cm×6cm)。 わがやでは写真の現像・焼き付けは写真屋には出さず、家でやっていた。狭い物置に暗幕 をはって暗室にした。父親の見よう見まねで自分でできるようになった。ハイポ、定着。 赤いランプに画像が出てくる瞬間は楽しい。 その分失敗もあって、フィルムに光の横線が入っているものは素人現像の弊害(いまでも原因不明)。 写真が高額だった時代、なぜ城跡の写真を大量に撮影できたのか。高田徹さんが疑問に思 ったとあるが、理由はそのあたり。フィルムは高く、自分で制作できなかったから、かな りケチケチしながら撮影した。 (下) ●撮影機はニコレックスF *ニコン一眼レフの普及廉価タイプということだが、じっさいはマミヤ製。ニッコールレ ンズシリーズが使えるというのが売り。上下に移動するメタルフォーカルプレーン・シャッ ター、コパルスクエァ。それで背丈の高いデザインだった。シャッター音も大きかった。 重かった。あまり売れなかったとある。他人が使っているところを見たこともない。 1962年から製造だからたぶん中学に入った時(1962)か、そのあとに買ってもらった。 それまでのブローニー(6cm×6cm)は12枚撮りのフィルムだったから、一気に35mm フィルムの6枚撮りになって、それはとてもうれしかった。 10年ぐらい使用していたが、壊れた記憶もない堅牢な愛用機。 じぶんはよいカメラだったと思っている。大学の時、先輩から山に登るので貸してくれ。 そのあと戻ってこなかった。山のよい先輩だった。山で壊した、出世払いで弁償するとい っていたが、20代で死んでしまった。わが継承機になったのはニコマート。 ● レンズはタムロン200mm、半額、いやもっと格安の交換レンズ。山ではよく使った。 ずんどうで砲身のようなカッコウの悪いレンズ。これも使っていた人を見たことがない。 けれど中学生高校生には十分。 ほか28ミリ広角ニッコールで写した写真もある。石垣写真などはこれを使っている。この 28ミリレンズはいまも手もとに持っているが、たぶんカビが生えている。桜井城跡
1948年の桜井城跡周辺(国土地理院空中写真)、遺構は東側の川まで達していない。 1961年の空中写真では保育所建設に伴う造成が読み取れる。筆者服部が現地を訪問したの は1966年頃 見取り図 東から補遺・清須城、小幡城、一里塚(位置記録を欠く)
清須城 小幡城 一里塚(位置記録を欠く) http://hdl.handle.net/2324/17119にて公開中
コメント 高田徹「服部英雄氏「昭和30年代・濃尾平野と周辺の中世城館 」を読んで ー城跡の過去と現在ー『愛城研報告』14(2010/8)1.9MBあります。ご注意ください。 高田氏の了解を得て掲載します。両者を比較いただけると、城跡の過去と現在がわかります。冊子体はモノクロ版ですが、こちらは図版カラーです。