目次/北細永/関東/西豊永/肥猪

村の名前:南関町大字北細永 話者:松島 勝 ;大正6年生まれ (小字三藤野に在住) 絹代;大正10年生まれ しこ名(カタカナ)一覧 田畑 小字三藤野のうちに ミツンバ 小字茱黄ヶ浦のうちに ブンガウラ その他 *1 コンツンバ*2(地域) 小字大浦のうちに ヤカタグラ(小字大浦全域) 小字寺尾のうちに テラノ(小字寺尾全域) 小字永浦のうちに ナコバネ(山) 小字三藤野のうちに ノーメン(道路)・スサキ(土地) 小字三藤ノ井川のうちに イワモト*3(土地) *1この周辺は、ガリ石(方言:軽石のこと)が多く大きな岩がないので岩のしこ名は聞 くことができなかった。 *2賢木方面を指す言葉として用いられる。 *3昔ここから白毛原の戦場に向けて矢を射ていたことから、ユミハリモトと呼ばれるよ うになり、それが、ユミハリモト=>イバルモト=>イワモトと変化した。 村の水利: 私たちが聞き取りを行った松島さんが住んでいる三藤野は、小高い丘に位置 しており周囲に川がないので、農業用水には、井戸水を使用していた。井戸は、 直径約五尺で、十八から十九間の間隔で掘られていた。生活用水を得るための 井戸は、近所の数軒で一つのものを共有していた。 今でも、新たに農業用水を得るためや、新築の家のために井戸を掘っている。 今は、新たに井戸を掘るのも、古い井戸の改修もボーリングを行っており、昔 からの井戸は少なくなってきている。 村の範囲: 北細永は、道免、乙丸原、乙丸谷、水洗、東白毛原、大浦、三藤ノ井川、松 尾、須久手、山ヶ浦、尾楢、茱黄ヶ浦、松尾原、鴻ノ巣、寺尾、永浦、三藤野 、鷺ノ巣、の十八の小字からなっている。しかし、道免、乙丸原、乙丸谷、水 洗、東白毛原、の五つの小字は、他の十三の小字と区長が違い、一つの大字の 中で二つの自治が行われている状態になっている。(区長同士が話し合って決 める事柄もある) 村の耕地: 以前は、焼き畑が行われていたが、今は行われていない。しかし、今でも焼き 畑の跡が残る畑がある。 この地域は、山がちで斜面が多いので、牛や馬の餌にするための草は、酪農 を行っていない限りは、自分の畑のあぜに生えている草で十分足りていた。 薪は、自分の山から取り、炭は、自分の家で必要な量だけ作っていた。 村の道: 三藤野と、三藤ノ井川の境を通りそこから山の尾根伝いに行き、福岡の大牟田 に通じている道があった。戦前は、この道を通って子牛を競りに連れていった。 戦後まもなくの混乱期には、大牟田のヤミ市にヤミ米などの食料品を売りに行っ ていた。今では、町道(しこ名:ノーメン道路)が整備されたので、その道は、 利用されなくなっている。 北細永と小原との境に豊前街道が通っている。この豊前街道が通る追分という     ところにヒメヅカという石塔がある。この石塔には、年号が彫られていないので、 いつのものであるかは分からないが、言い伝えによると、小原の城から逃げ落ち たお姫様が、城が焼けているのを見て、ここで自害したのでこの石塔が立てられ たとされている。今回、話を聞いた松島さんが小学生だった頃は、この石塔をス ッケンキョウ(方言:ケンケンのこと)で三回まわって遊んでいた。 米の保存: 米の保存に缶を利用する以前は、農家では、土間に竹の桟を敷きその上に、 俵をおいて保存し、一部の武家屋敷では俵を倉に貯蔵していた。ネズミや、虫対 策としては、ねずみ取りを仕掛けるぐらいで他には特に行っていなかった。 村の過去: 南関町は、戦後、賢木村と坂下村と南関村の三村が合併してできた町である。 北細永は、賢木に近かったので、松島さんの家には、今でも、神社から招待状 が来ている。つまり、北細永は、政治は南関だが、宗教は賢木という状態にな っている。 松島さんの住む三藤野の周辺は、水道が昭和二十九年にでき、電気が昭和の 一桁台に来るようになり、ガスは昭和の後半に使えるようになった。町の中心 部ではもっと早くからそれらは使えるようになったが、三藤野の周辺は山がち なので整備が遅れた。   村の農業: この地域では、戦後まもなくは、食糧難ということもあり、米、唐芋、里芋      といった穀類を中心に栽培していた。そして収穫したものを上述したように大      牟田のヤミ市に売りに行った。ヤミ市では、現金で売るよりも、着物などの衣      類と交換することが多かった。       そして四十年ぐらい前になると、米、唐芋、じゃが芋などの穀類のほかに、      大豆、小豆、麦、タバコなどが栽培されるようになった。       最近では、減反政策によりできた田の跡や、麦、タバコ栽培していた畑で、      西瓜や、メロンを栽培するようになった。また一部の地域では、その田の跡に      杉を植えたりしている。   感想: 服部先生の講義を受けて、初めてしこ名の存在を知った。 そして、今回実際に聞き取り調査を行って、しこ名にもいろいろな由来があ る事を知った。それらは、場所からきたもの、言い伝えからきたものなどそれ ぞれだが、すべてその土地に密着したものであった。 今後の開発などによって土地の様子が変わることによって分からなくなるも のが多くあるように思えた。だからこそ、このしこ名の聞き取り調査が後世に しこ名を伝えるための有効な手段の一つであると思った。 あと、松島さん宅でごちそうになった、奥さんの料理がとても美味しかった です。 一日の行動記録: 九時三十分:六本松を出発          十一時三十分:南関町役場に到着          十二時二十分:南関町役場を出発し、松島さん宅へ向かう          十二時四十分〜十五時三十分:聞き取り調査          十五時五十分:松島さん宅を出発 十六時二十分:南関町役場に到着          十六時四十分:城跡を見学          十七時二十分:南関町役場を出発          十九時三十分:六本松に到着  調査者:植田信介・長濱顕仁 -------------------------------------------------------------------------------- 歩いて考える歴史レポート 村の名前 : 熊本県玉名郡南関町関東 話 者 : 城門 光徳(きど みつのり) 昭和7年3月31日生 城門 光明(きど みつあき) 昭和3年3月16日生 津留 正人(つる まさと) 明治43年1月15日生 北原 保 (きたはら たもつ)大正12年9月12日生 調 査 者 : 河野 健児   田北 亮平 田畑 敦圭 しこ名一覧 小字 しこ名 1 白土 (しらつち) 2 辻 (つじ) (一部)ノミトリ 3 油田 (あぶらでん) 4 堂ノ浦 (どうのうら) 5 菅谷 (すがたに) オナコロシ (一部)ウマガツクレ 6 長尾 (ながお) 7 福山 (ふくやま) 8 障子獄 (しょうじだけ) (一部)ジャーラー 9 瓦屋敷 (かわらやしき) カワラシキ (一部)ヒカケイデ (一部)エイゲイ (昔、エイゲイ寺があった) 10井手ノ上(いでのうえ) イデンウエ 11番匠田 (ばんしょうでん) 12古町 (ふるまち) 13金井川 (かないがわ) 14城平 (じょうのひら) 15元清 (ぐわんせい) 16影平 (かげひら) 17楮原 (かごはら) 18浪野 (なみの) (谷)メガタニ 19山ノ谷 (やまのたに) ツツミガウラ (山)ヒコサン 20仲田 (なかた) 21獅子谷 (ししだに) (谷)クエンダニ 下に岩があって、表土が少なく、 農業に向かなかった 22藤山 (ふじやま) 23浦頭 (うらがしら) (谷)ヌストダニ (24との境の山頂)マトバ 24浦口 (うらぐち) (谷)ヒャクミャーダー(百枚田) (清嶽神社)ゴンゲンサン 3月15日には祭りがある。 (25との間)ソンヤマ 夏、日が当たらず作物がとれなかった 25萩谷 (はぎのたに) (一部)マズガハナ (26との境の山頂)ユミハリザワ マトバに向けて弓を射ったという伝説あり 26海間 (かいま) キャマ (一部)ドンベンメラ 27堤下 (つつみした) (山頂)オイワガサコ 28長畑 (ながはた) 29白毛峠 (しらけとうげ) 30三郎ヶ谷(さぶろうがだに) 31松林 (まつはやし) マツガヒラ (一部)ヤケバシ 32前原 (まえばる) (一部)マッダンウエ 33郷敷 (ごうしき) ゴシキ 34大谷 (おおたに) 35中塚 (なかづか) 36笛鹿 (ふえろく) (笛鹿観音)カンノンサン 37上笛鹿 (かみふえろく) 関川 スミスリ川 注;書いていないところは、小字と同じ 農業用水の確保について 関東においては、土壌が小石混じりであったため、水がぬけて苦労したそうだ。そ のため、用水路を赤土でつめて水漏れを防いだ。用水路が川をわたるときは、松の木 を半分に切り、それをくりぬいて川に渡しそれに水を流した。(別紙の図1) 他には、マブといって、地下水が溜まる簡易のため池がいくつもあった。(別紙の 図2) 水車(みずぐるま)もあったそうだ。 川には、均等に杭をうって、それに竹を編んで、後ろからむしろをあてて、関を作 った。(別紙の図3) 水争いは、武器を持って戦うということはなかったが、口論はしばしばあったそう だ。 米の保存 昔は、米は俵を作って、家の敷地内に杭をならべ、その上に板をひいて、その上に 俵を重ねて保存したそうだ。(別紙の図4) 村の過去 米以外の収入 養蚕が主だった。後は、紙の原料となる植物の生産、焚き木販売、炭焼き、 杉や松を扱う林業等があった。 結婚について 恋愛結婚はほとんどなかった。ほとんどが見合いであったが、見合いの場で は、相手の顔も見れず、顔もわからぬまま、結婚ということもあったそうだ。 その場合は村での評判が重視されたそうだ。 結婚式は、男性のほうの家で2日かけて行った。結婚相手は、ほとんどが、 村内で、せいぜい隣村までだった。 村のこれから (古老の話) 昔は、村の7割から8割が農業をしていて、長男が継ぐのが当たり前だったが、今 は後継者不足である。更に、昔は農業を通じて近隣とも付き合いがあったが、今では 疎遠になりつつある。青年団の活動も昔は活発であったが、今ではあまり活動してい ない。 過疎化が進みつつあるが、家が絶えることはなく、家の田畑は、誰かが守っていく だろう。しかし、山は荒れていくかもしれない。 村の行事は、先祖から続く伝統的な物なので、守っていくべきであり、そのための 話し合いが必要になっていくだろう。また、守っていく上では、親が子にそういった 心構えをつたえていくべきだ。 調査を終えての感想 今回の調査では、初めて知った事が多かった。公の記録に残っていない地名がある なんていう事は、全く知らなかった。聞く話が全て、新鮮に思えた。特に、農業用水 の確保の方法等では、昔の人の知恵が随所にあってすごいと思った。 しかし、村の、農業の後継者不足や、過疎化という深刻な問題に直面している事を 聞いた。こういう話を聞いて、とても考えさせられたし、とてもためになるお話であ ったと思う。 (河野 健児) 私は、この歩いて考える歴史で学んできたことを通して、歴史をうけつぐことの重 要さをよりいっそう実感させられた。今まで歴史は私達の身の回りとは関係のない所 で受け継がれているような考えをもっていたが、実際は私達も歴史を受け継ぐことに 関心を持ち、そうしていかなければならないと考えるようになった。(田北 亮平) 最近の世の中では昔の人々の伝統等は忘れられ、どんどん消えていっている。しか し私達の祖先がそうしてきたように、昔の人々が築きあげた歴史を後世の人々に伝え ていくことが今を生きている人々の役目であり義務である。そして、そうすることの 重要さも私達の子孫に教えることで、永久に歴史は受け継がれてれていくだろうと考 える。 (田畑 敦圭) --------------------------------------------------------------- 『 歩いて考える歴史』レポート 南関町 西豊永 12月19日実地 ◎一日の行動記録 9:40 出発 11:50 南関町役場到着 昼食 13:15 バス(巡回用)出発 13:45 西豊永到着 13:57 地誌調査委員浦野邸着 聞き取り調査 15:05 おはぎ、煮物を頂く 15:50 浦野邸 発 16:10 バス乗車 城跡見学 17:30 南関町出発 19:30 九大着 調査員:藤本 郷 星原 光太郎 (1)・小字の呼び方の違い 原(ハラ)→ ハル と話者がよんでいた。 ・しこ名 尋ねてみると、他の地域で使っているのを聞いたことはあるが自分た ちは使っていないとのことだった。そこで日常会話からしこ名を聞き 出そうとしたが、全部小字の名前通りに田んぼを呼んでいるらしかっ た。それでもどうにか聞き出したものを下に記す。 小字 受地のうちに ニシビラ(田) これは田んぼが段々になっており、ヒラヒラしている様に見えること からこう呼ばれているらしい。 小字 塔下のうちに 中塚山(ナカツカヤマ)(山) 昔、中塚城という城があったという小さい山。 小字 米田のうちに 花立 (ハナタテ)(交差点付近) これは村のほぼ中央に位置し、昔この十字路に茶屋があったらしい。 参勤交代のときにこの茶屋で休んでいたともいわれている。 小字 米田のうちに マツノシタ (ため池) 昔、このため池の近く(花立付近)に松の木があり、そのことから マツノシタと呼ばれているらしい。松の木はS17〜18年頃に枯れた。 小字 次郎丸のうちに タロウマル (地域) よくわからないがそう呼んでいる。 小字 次郎丸のうちに コヤシキ(地域) 昔、侍の住居が立ち並んでいることより生じた名前。 (2)水利、耕地 ・使用している用水 ため池、柴田川、村を流れる川 ・他の村との争い ほとんどなかったらしい。話者には争った記憶が無いようだった。 ・共通の決め事 雨が降らず、水が少ないときは上流の人も下流の人も均等に水が 分配されるように話し合いで決められているらしい。上田の水張 りを薄くして下田にも同じくらい水が流れるようにした。水が無 い場合も質問したが、その時は枯れるだけだということだった。 ・乾田、湿田について 山陰や風通りの悪い所は出来が悪いとのこと。田んぼには政府に よって一等、二等、…十四等と順位がつけられるらしいが、一等 一等から十四等までの田んぼがあるらしい。 つまり、乾田湿田が入り交じってあるということだ。 ・肥料について 昔は、人糞や牛の糞を使っていた。その牛に食べさせてやる餌は 芋の皮や穀類の屑等をかやや草に混ぜていた。よってごみが少な く、リサイクルされていた。S10年以降化学肥料が入ってきた。 ・まき、ガスについて まきをとる山は大抵決まっていたらしい。S26〜28年頃からガス が使われ始めた。当時はボンベまるひとつ買っていたらしい。 全般的に普及したのはS35年頃だという。 (3)村の道 ・学校道 村には昔、三つの小学校があった。一つは安原付近にあり、 話者はそこに通っていたとのことだった。中学になると西豊永 の西方に歩いて通ったらしい。その道は山道で、現在使われて いない。今はS6,7年に新しく作られた高久野反田線が主流にな っている。 ・運ばれた物 西から旧道(学校道)を通って魚が運ばれていたらしい。 (4)米の保存法 明治、大正時代はタワラに保存していた。その後かます(口入) へと変わり、次に藁の袋に入れるようになった。そして現在に至 る。また、米は秋の収穫が終わってすぐに売っていたとのこと。 (5)村の過去 南関町はS30年頃八ヶ町が合併してできた町だということだった。 西豊永地区は昔安原(アンノハル)と呼ばれていたらしい。村は 豪族が支配していた。また、田んぼは秋の収穫が終わると11〜12 に麦を作り、6月に収穫し、6〜10月に米を作っていたらしい。 そういうふうになんとか収入を増やそうと努力していた。恋愛に ついても質問した。村人はみな、自分たちの仕事に忙しく、時間 が無いため、恋愛はほとんどしなかったらしい。とはいえ、多少 興味があったと思うが、あまり顔も合わせていないためそういう 気持ちも起きにくかったのだろう。村人のほとんどがお見合い結 婚とのことだった。 (6)村のこれから やはり後継者問題が一番の悩みのようであった。話者の一人は子 供に無理矢理農家にさせたと言っておられたが、今ではその子供 さんにいろいろと文句をいわれるらしい。農家という仕事は大変 厳しい職業だからと話者は語ってくれた。天候にも左右され、丁 寧に世話をしないとすぐに無に帰ってしまうのが農業だと感じた 。大変な職業だと思う。更に現在政府による課税が更に農家を苦 しめている。ビニールハウス一つ一つに税金が課されるらしい。 今では村の中で専業農家をされている家は三軒ほどしかない。他 の人は会社に行きながら農業をしているとのことだった。また、 若者が村にいないため、どんどん農家は減り続けているらしい。 話者の方もこれはどうしようもないといったような感じで話され た。 結局の所、政府が農家を保護しなければ、苦しい職業だけに後継 者は出て来ず、減少する一方であると言う。何にしろあまり、明 るい話題は無い様であった。 (感想) 今回、参加して本当によかったと思った。西豊永で会った三人の方々 は大変親切にしてくださったし、様々な貴重な話を生で聞くことがで きた。特におはぎを食べながら聞いた戦争の話は今でもはっきりと覚 えている。一瞬寒気がするほどだったので太平洋戦争のことを考える たびに必ず頭に浮かんでくる。実際に体験した人の話はやはり違うな と思った。実際に現地に行き、現地の人から情報を集めると、机上で は分からなかった村の人達の心が感じられて楽しかった。歩いていっ て見て触れる大切さを知ったような気がした。 98.12.19 南関町肥猪 話者:野口第三郎(大正9) 斎田信行(のぶつら・昭和3) 調査者:服部英雄 地名を示すものに『肥集録』(町史史料):そのうち現在、位置が判明するもの: 肥猪東村:中尾、中園、観行寺、茶木浦、弐百石 肥猪中村: 肥猪村:坊中、太郎丸、木下、小路、陣内 不明のもの:五郎丸 四郎丸  カネツケメン 検地帳地名の内、位置が判明するもの:諏訪の原(すわのはる)ほか 肥猪町のうちになっているもの:うめんたに(梅の谷) 小字以外の地名で、検地帳にもないもの→キョウギドウ(協議道)ほか  不明のもの:姥が坂 山の手 かにか坂 くすが平 畠中 地名一覧 字カミウシロダ(上後田)のなかにカナマチ、 字シモウシロダ(下後田)のなかにブショウダ(仏餉田か、伝承は負傷田)、ツヅロ山 字タングァダ(反鍬田):旦過屋(禅宗の行脚僧の宿泊所=旦過寮)の維持のための田か クルマチ、クルマチバル(車地原)、シロガサコ 字クラノモト(倉の元)のなかにゴクデン(御供田) 字コイジリ(鯉尻)のなかにショウブダ 字サカモト(坂本) 字オオサコ(大迫) 字ヤマシタ(山下) 字ヤマミチ(山道) 字ゴンメン(権免) 字ヒバコ(火箱)のなかにホリキリ(字折坂との境) 字ゴタンダ(五反田) 字ダグサ(駄草)、ダクサバルとも 字ミツエ(三ツ枝) 字テライゴー(寺井川) 字ウードコ(大床) 字キタイゴー(北井川) 字エノキバル(榎原) 字ワウチ(輪内) 字ニシイヤシキ(西居屋敷)のなかにボウジュウ(坊中)、ショウジ(小路)、 字ナカバル(中原)のなかにニヒャッコク(弐百石) 字ヒガシイヤシキ(東居屋敷)のなかにキョウギド(伝承では協議道、あるいは京木戸か)、ナカゾノ(中園)、寺の前、カンゲジ(観行寺) 字マエハタ(前畑)のなかにサンプク<サンプギ、検地帳の三本木か>、 字イップク(一本木) 字カミオリサカ(上折坂) 水田の特色:出水が豊富、肥猪町は雨不足で雨乞い。しかし肥猪はあまり雨乞いはしなかった。 出水の名前→西谷:カナマチの出水、キタエガワの出水、ミョウケンの出水、 東谷→イケゴウの出水 井手の名前 西谷:山下川上流から、二俣井手、ふじまき井手、ミョウケン井手、 東谷:上流からセイゴ井手、ブクデ井手、ヒガンデ井手 *井手はため池とともに泳ぎ場として記憶されている。ブクデなど。ため池は手前の浅いところでのみ泳ぐ。 交通路その1:山鹿道路=むかしは1級村道、今は薮(名前は下坂下村道になっている)、青年達が山鹿灯篭を見に行く。   その2:年貢道=江栗(えぐり)道(石畳)、モウダン(舞足と表記、「馬渡」カhAT)を通る。江栗(えぐり)に渡しがあった。江栗から菊池川の舟運、結婚式もお嫁さんは船で江栗に来てそこから村まで歩いた。肥猪町道。 山:人の山を借りる(一年いくらで買う)、根切りと惣切り。 その3:車地原=宝暦の下げ名帳に車地原の地名があった。古道、とくに延喜式の官道に沿って多い地名とされている。森矢ト(もり・ながし)氏<大正8年>から聞取を行った。 道を上がりきった両脇。反鍬田(タングァダ)と道で堺。私たちがコマか時はですなぁ私どもは「シロガサコ」って、年寄りは「クルマチ」っていった。車っておかしかなぁ(と思った)。山鹿道。はよう言(ゆ)うなら荒尾から山鹿に行く道。明治の大演習の時の本道。肥猪を乗り切って三加和通りですなぁ。本道となっとるですけぇ、まだ太かならんといかんと思うですけん、狭かですもんなぁ。十月の運動会に栗拾いにいった。 坂の上で肥猪と坂の上(桑水)との境。学校から帰ったら戦争ごっこで喧嘩。坂の上、豊永は花火屋さん。煙硝を持ってますもん。親の目を盗んで地雷を作る。私の方が元気がよかですもんなぁ。喧嘩はこっちが勝つ。向こうまでいって部落ば追い回す。追いかけていくと、分かれ道に地雷。通るときに火がつくようにしてある。遅かか早かか。爆発して泥があがる。よう覚えとる。怖かったなぁ。あの地雷ばっかりはエスかかった。こっちの武器は無鉄砲。親に隠れちゃ(煙硝を)持ってこいって。明日持ってきてやれって腕力でですなぁ。


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