二毛作の起源・かたあらし   

               服部英雄

*新聞記事とは一部異なります。 世界の二大穀物は米と麦である。米は湿潤な土地を好み、麦は乾燥した土地を好む。 した がって米と麦の生産地は異なるのが普通である。米の産地は東・南アジア、麦の 産地は北 アジア・西アジア、ヨーロッパといった印象がある。しかし日本ではこの二 大穀物をとも に生産してきた。しかも同じ土地での二毛作である。温暖地域なら米の 二期作になるとこ ろだが、日本では夏には米を、冬には麦を作ってきた。日本の水田 は多く灌漑によってお り、天水田の比率は低い。灌漑水田(用水田)では田に水を入 れれば湿地に、水を入れな ければ乾地になる。水を入れれば米ができ、水を抜けば麦 ができた。こうして二毛作が可 能になったのだが、このような農業が卓越している地 域は世界的にも珍しいという(『世 界大百科事典』平凡社)。知り合いの農学者に尋 ねてみたが、「同一の耕地でということな ら、そうかもしれません」という返事だった。  この二毛作はいつから始まったのか。受験生にたずねてみれば、鎌倉時代からさかんに なったという答えが返ってくるだろう。これは鎌倉時代、文永元年(一二六四)に幕府が 裏作の麦には年貢をかけるなという法令を出したことなどによっている。だ がこれより早 く平安時代の元永元年(一一一八)に裏作の麦を売ったという史料があ る。通説は、この 史料に依拠して平安時代に二毛作が開始されたとする。この史料は 断片的に残った。解釈 もまちまちで、この年は特別な飢饉の年で、それでこの年だけ 食料を得るための裏作の麦 が植えられたという解釈もあった。平安時代後期になって 二毛作が発見・定着したとすれ ば画期的なことで、生産力も飛躍的に上昇したであろ う。しかしながら、そうした徴証は とくにない。  はたして二毛作の発見はこの時期でよいのだろうか。史料の初見は事実の 初見とは 限らない。もともと身近な農業についての文字・記述は残るものが少ない。菅原 道真 の詩集『菅家文草』(昌泰三年・九〇〇)は先の史料より二百年以上も前のものだが、 そこには「乗時夏令安 麦田千畝遠」という一節があった。平安時代初期、日本の夏 (旧 暦四-五月)にも、はるかに続く麦田の光景があった。もっとも中国語(漢詩)の 「田」 は畑の意味である。訳せば麦畑だから、二毛作の水田と断定はできないが、こ のように一 面に麦畑の広がる光景が日本にあったのなら、それは水田に植えられた裏 作麦のような気 がする。 平成十二年(二〇〇〇)に石川県津幡町加茂遺跡から嘉祥二年(八四九)二月十 二日 の加賀郡符木簡が出土した。当時の加賀郡の郡役所(郡司)が管轄下の農民に指示・ 命令を板に書いて掲示した。それが千五百年後に発掘調査で出土した。墨のあった部 分が 膠の作用で風化せずに浮き出ている。それで文字が読めた(石川県埋蔵文化財セ ンター編 『発見!古代のお触れ書き』大修館書店・二〇〇一)。十項目近い指示が書 かれていたが、 その一項目に 一 以五月三十日前、可申田殖竟状 というものがあった。「五月三十日まで に田植を終えて報告せよ」。嘉祥二年の五月 三十日(旧暦)はグレゴリウス暦(新暦・太 陽暦)の六月二十七日に相当する。この ようなことが指示されるのは、田に麦を植えてい たからにちがいないと考えた。田植 は梅雨を利用して行われる。梅雨明け間近の七月(新 暦)になっての田植は不作の危 険があった。しかし麦を作っている場合、六月のはじめに 麦刈りをし、その後でない と田植はできない。田植は後れがちになる。この指示は背景に 二毛作があったからで はないか。『菅家文草』より五十年古く、通説からは二五〇年も早 くなる。むろん石 川県津幡町は二毛作地帯である。  麦は弥生時代から栽培されていた。 その越年性は早くから知られていた。同一水田 での稲作と麦作の両立は、麦を収穫するま で、四・五月の二ヶ月間、稲の幼苗を苗代、 すなわち別位置で育成する田植が不可欠であ る。田植は直播での過密な苗の移植に始 まったと考えられ、田植利点の発見は稲作の開始 にま近いだろう。自然発生的なもの であった。二毛作に必要不可欠の条件はみな早期から 登場していたと考える。 日本の古代中世農業はたしかに脆弱だったが、これまでの歴史学 は、それを実像より も、より貧弱に捉えてきた。易田、カタアラシという言葉がある。と もに地力がない ため毎年耕作することができない田とされ、多くの国語辞典、また一部の 高校教科書 にもそう説明されている。易田は律令(田令)にみえる言葉で、平安時代以来 の注釈 書でも毎年耕作できないから、易える(かえる)田と説明してきた。しかし日本律 令 は中国律令(唐令)をそのまま輸入したものだ。漢字の田、つまり中国での田は畑の意 味であることは先にもみた。水田に相当する漢字がなかったから、日本では田を水 田の意 味にして、畑という中国にはない日本漢字(国字)を作った。高麗朝鮮では田 はハタケの 意味のままとして、■(タップ)という高麗漢字を作り、水田の意味にし た。易田はその 言葉が日本に輸入されたときには「易える(換える)ハタケ」の意味 だった。ハタケ作物 には連作障害がある。連続しての耕作はむずかしい。換えながら の耕作は当然だった。し かし日本田令はあくまで水田とて解釈しようとしたから、混 乱が生じた。 同義とされて きたカタアラシだが、いまも方言で使っている地域がある(三重県多気 町)。そこでは麦 を作らない田(一毛作田)をさしていた。カタアラシは毎年耕作で きない田ではなかった。 1 早苗とる やすのわたりのかたあらし こぞのかり田はさびしかりけり 2 山かつの そともの小田のかたあらし 古年のつくりはしめもおろさず  従来は平安鎌倉時代の和歌に登場するこのカタアラシの用例から、連続して耕作できな い田と定義してきた。しかし調べてみると、『古事類苑』という歴史百科辞書に誤 植があ って、2の「古年」は正しくは「去年」(こぞ)であることがわかった。1も 2も去年の 耕作田が春になっても放置されている情景を詠んだだけで、カタアラシも また毎年耕作さ れていると見るべきものである。一毛作田「カタアラシ」の語は、逆 に二毛作田が多かっ たことを意味している。 古代中世水田は脆弱で、毎年、不作になった田(「年荒」、「当不」) は多かった。 だがはじめから作らなかったわけではなく、天候不順、災害のため中途で不 作になっ た。中世の記録に「旱天、旬に及ぶ」という言葉が多く見えるが、旬つまりわず か十 日で旱魃の心配をしていた。昨年(平成十四年)は空梅雨で、九州地方では三十日も の日照りが続いたが、農作物に被害は出なかった。中世では三十日の日照りで餓死者 が出 た。それを思えば、いかに古代中世農業が弱体であったかがよくわかる。灌漑施 設も能力 が低く、災害にも弱かった。しかし農民は悪条件の中でも穀物を得るために 最大限の努力 をした。二毛作もそうした努力のひとつとして、早くから試みられたと 考える。

よりくわしくは


『歴史を読み解く・さまざまな史料と読解(青史出版)』および QIR


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