岩立現地調査レポート   
 
  7月4日朝、約2時間ほどバスに揺られた後、10;3
 0頃伊万里市にて下車した。快晴だった。岩立区長の東さ
 んの家までの距離ははっきりとはわからなかったが、地図
 から推測するとあまり歩く元気は湧かなかった。そして実
 際その道のりは想像を絶した。暑かった。長かった。山間
 部に入ると勾配がきつく、道もクネクネしていて、さらに
 民家もほとんど見当たらなくなりさすがに不安になった。
 だが何とか無事12;20分頃目的地にたどり着いた。歩
 いてきたというと、先方は非常に驚かれた。連絡していた
 時間より大幅に遅れていたが、親切な方々で、昼食までい
 ただいた。その後その地域について非常に多くの事を教え
 ていただいた。
                                   
 説明してくださった方
        東 光廣 S8, 2,1生 65才 
        廣川   S6,12,3生 67才 
 調査者名   税所 信仁          平川 貴一  
 電気およびガスについて
  村にはじめて電気が来たのは大正初め頃ということだ。
 そのころはまだ電灯が家にひとつくらいの割合だったらし
 い。プロパンガスが来たのは昭和38年ごろ。これらが十
 分に普及する前までは熱源として薪を使っていたというこ
 とだ。割れ木(幹を割ったもの)やびゃーろ(木の枝)を
 使っていた。入会地等は無く、近所の山から勝手に取って
 いたということだ。
 
 地名について
 この村独特の道の呼び名など、数多く教えていただいた。
 道;マッテン坂、ナコ道、カバノキ道
 地名;ショウイダ(庄屋?)、ヒットデグチ、コウチノサカ、
 オンノクズ、ハギノモト、ハチノウエ、マーオウノツジ、
 セガクラ、(山)コクンド山(神様の意味?)ジョウゴ岳、
 シイノキ山(谷)ハンジョウ谷、シゲンタン、ヤケヤマ、(岩)
 ゼンモン岩(ゼンモン=乞食)                                                                                                                                                                 
   これらの呼び名は昔、村の人々の間で通じていたもので、
 今の子供たちはあまり知らないという。また、名前の意味
 はわからないものが多いということだ。ほかに、いぼ石と
 呼ばれる珍しい岩があるそうだ。その名の通りいぼみたい
 にぼこぼこした形をしており、付近の石と質が違うため、
 人々の間では、火山の噴石かもしくは隕石であるとうわさ
 されているらしい。どこかに頼んで詳しい調査をしてもら
 おうかといっているそうだ。
  余談だが、森永製菓の初代社長の家もあるということだ
 った。また、めがね橋もあったが改修しsてしまったと、
 残念そうに話しておられた。
 
 村の水利について
  村の水利について聞いてみたところ、昔から水は湧き水
 を利用してきたということだ。今はもちろん水道がとおっ
 ているが、今でも湧き水はかなり利用されているらしい。
 岩立の北部に何ヶ所か水の湧き出る地点があるようだ。な
 かでも珍しいのは、アナバタケと呼ばれる場所にある湧水
 帯で、ここは期間限定の湧水帯になっているのだ。大体6
 月の梅雨の時期から9月頃にかけて、水が出るらしい。そ
 して、夕立がくるたびに、水量が減っていくと言うことだ。
  水田の水は、湧水が高いところから順々に流れていくの
 を利用できたということだ。ただ、一部では七三分けとい
 って、木の板に7対3程度の切込みを入れて水の量を調節
 していた所もあったそうだ。
  4年前に大干ばつがあったということだが、そのときさ
 すがに田んぼには被害が出たが、湧き水のおかげで生活用
 水には事欠かなかったという話だ。また、現在この地域は
 兼業農家がほとんどで、そのために農業がだめになっても
 生活は何とか助かったのだという。ちなみに専業農家の割
 合は、全体の5%にも満たないほどだという。この干ばつ
 がもし40年前に起こっていたら、生活も苦しくなってい
 ただろうといっておられた。
 
 
 村での農業について
  この地域は山がちな地形であるから、田んぼも段々畑の
 ようになり、大型機械の導入は難しいということだ。大型
 機械を使うことによってかえってコストがかかるらしい。
 水田には米のよく取れるところとそうでないところの違い
 があるようだ。土質の違いによるということだ。米の質は
 よいと自信を持っておられた。しかし減反政策のために米
 を作れなくなった田もあるらしい。米は、俵に入れて積ん
 で保存していた。防虫のために、俵の間に杉の葉などを入
 れていた。ねずみによく保存米を食べられたらしいが、食
 べられた俵をどかすと次の俵もやられるため、放って置い
 たということだ。ねずみについては、仕方の無いことなの
 で、家族の一員とあきらめていたらしい。現在は紙袋に入
 れて保存している。
  今、新たにイノシシの害が出てきているらしい。自分の
 体についたダニを取るためか、田の中に入ってきて転げま
 わり、稲を倒してしまうらしい。
   米と麦を使う割合は、子供の頃は半々だったが、終戦後
 の時期は、芋の中に米、大根の中に麦が入っているという
 ようなかんじのものを食べていたそうだ。もっとも、それ
 は岩立に限ったことではなかったろう、と言っておられた
 が。
  昔、稲作意外に林業や畑作(芋、粟、そば、豆)を行っ
 て収入を得ていたということだ。野菜類は自家用にしか作
 らなかったらしい。芋は主食の代用としても使われた。農
 業機具として、昔はせんばこきを使い、戦後になって脱穀
 機を使うようになった。最近では工業化が進み、農業離れ
 が起きてきているということだ。それに伴い岩立でも過疎
 の問題が生じているといっておられた。
 

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