私見に対する各研究者よりの批判・コメント・意見一覧(作成中)

著書

*著書については“著書からのリンク”も見てください。 ●歴史を読み解く・さまざまな史料と視角 保立道久『歴史学をみつめ直す』2004校倉書房→主としてかたあらし批判 今谷明『封建制の文明史観』2008→主として文永十一年冬の嵐の引用 堀内規之「御室と教学研究」『密教理趣の宇宙』平成19、299頁、孔雀引用: 渡邊誠「平安時代貿易管理制度史の研究」2011、孔雀批判ほか高田牧論考などをも批判している。 ●峠の歴史学 A鈴木景二「佐々成政の浜松行き道筋試案−有沢永貞『雑録追加』所収文書を手がかりに」(『富山史壇』一五四・二〇〇八、一) B深井甚三「佐々成政のザラ峠越えの新研究をめぐって」 (『学士会報』2008(4号), 89-94頁, 2008-07月 C久保尚文「佐々成政の二度の東海訪問」(『越中富山山野川湊の中世史』桂書房・二〇〇八・九) D斉藤慎一『中世を道から読む』2010:38、88頁 E伊藤克己「江戸時代の温泉と「癩病」」『湯治の文化誌』2010、引用 ●景観にさぐる中世 引用:水野章二『中世の人と自然の関係史』(2009年、吉川弘文館) ●武士と荘園支配 引用:古庄秀樹「千葉氏関連の遺跡について 千葉城跡と妙見遺跡の 発掘調査の成果から」(佐賀大学地域学歴史文化研究センター『中世小城の歴史・文化と肥前千葉氏』) 田中大喜「鎌倉〜南北朝期の在地領主組織における被官の位相」 (『鎌倉遺文研究』第24号)

論文

1 1977年 『政基公旅引付』が記さなかった下剋上の中世村落 ○引用:工藤敬一『荘園の人々』1978     勝俣鎮夫「戦国時代の村落」(『社会史研究』6,1985、のち『戦国時代論』岩波書店 , 1996)     中世公家日記研究会編『政基公旅引付』研究抄録編 ○ コメント:水藤真『戦国の村の日々』1999、159頁以下 ○ 志賀節子 2 同年 戦国相良氏の三郡支配 ○反批判:勝俣鎮夫『戦国法成立史論』 ○コメント:菅野文夫■■ ○コメント・批判:原田史教「天文年間における相良氏の鉱山開発の実相について(『日本歴史』519,1991) ○引用:      田中健夫「不知火海の渡唐船--戦国期相良氏の海外交渉と和冦--」(『日本歴史』512,1991)  ○コメント:     安野眞幸「相良氏法度十八条の世界」(弘前大学教養部『文化紀要』31,:書評5も含む) ○ 言及・批判:丸尾和洋「慶應義塾大学所蔵相良家本『八代日記』の」基礎的研究(『古文書研究』65、2008−5 *慶応大学図書館にて『八代日記』の原本がみつかり、原本調査を踏まえての私見の修正。 紙背文書には的場内蔵助の紙背文書が使われており、記者は的場内蔵助であること、作 成時期は永禄末年をさほど下らないことが明らかにされている。  従来は写本に元禄と書かれていたことから、元禄以降とされていたわけだが、永禄の 誤写であったことも明らかにされている。 3 同年 九州探題の肥前守護職兼補についてー南北朝以降ー ○コメント:佐藤進一『室町幕府守護制度の研究・下』 ○批判・亀田俊和「南北朝前期九州地方施行システムの研究」(東北亜文化研究18,2009-3) 観応以前に肥前守護は大友氏泰で、探題は一色直氏、よって探題兼補ではないが肥前は実質探題領国であったとしている。 5  同年 空から見た人吉庄・交通と新田支配 ○批判:大山喬平『日本中世農村史の研究』1978     工藤敬一:『荘園公領制の成立と内乱』 思文閣出版, 1992.     五味文彦:地頭支配と検注(『日本歴史』390,1980)(以下の8,17も含む) ○コメント:上杉和彦「書評、工藤敬一『荘園公領制の成立と内乱』」(『史学雑誌』103-1,1994) ○アゼチ道関係の批判  菖蒲和弘・村上豊喜「八代・球磨の山岳路」『熊本県歴史の道調査-球磨川水運-』昭63  村上豊喜「中世八代・球磨の山岳路」(『地域史研究と歴史教育』1998) ○批判:荻野三七彦「相良文書に観える「碑文」文書」(『日本歴史』394,1981) ○引用:山田渉     (『宮崎県史』古代編) 9 1980年 奥山庄波月条絵図とその周辺 本論考は『河原ノ者・非人・秀吉』(2012)で改稿した。   ○批判  奥山庄の研究史は日本歴史606「地方史研究の現状」新潟県に詳しい。 君島政美「中世奥山庄における庄園図作成の事情について--波月条絵図をめぐって」(『新潟史学』14,昭56)    田村裕・丸山浄子「「蓮妙之非人所」考---越後国奥山庄・荒河保研究の(一)     (『新潟大学教育学部紀要』26-2,人文・社会学編,昭60)    黒田日出男「海からたどるか山からたどるか--地域世界の境界をみる視点について」(『社会文化研究』4,1987)    青山宏夫「荒河保と奥山庄の境界について」(『人文地理』46-3,1994)    黒田日出男「和与絵図を読む--「越後国奥山庄与荒河保和与絵図」のかたる境相論」(『中世のムラ』1995) 青山宏夫「絵図が語る奥山庄の景観」(田村裕・坂井秀弥編『中世の越後と佐渡』1999/6) 10 同年 軍忠状の彼方に 『史学雑誌』89-7、1-43頁 ○コメント:廣田浩治ほか「序論 中世文書論の現状と課題」(『中世文書論の視座』        廣田浩治「文書の所持と機能からみた中世武士団」(『中世文書論の視座』) △ 前掲荻野三七彦「相良文書にみ観える「碑文」文書『日本歴史』394、1981―3 標題史料は金石文か古文書かを論じている。私見論旨とは無関係。 16*  同年 用作考ー東大寺領周防国与田保における荘園地名ー 『地理』増刊号、54-61頁 ○引用:畠山聡「保に関する一考察」(『日本歴史』531,1992) 18* 1983年 小地名による中・近世耕地景観の復原----能登国万行保・奥原保を素材に-- ○引用:千葉徳爾『新地名の研究』 19 同年 未来年号考 ○引用:渡辺滋「東大寺の愛智郡関係文書の成立と伝来」(『日本歴史』618,99-11.74頁) 20 同年 相良氏と南九州国人一揆 ○引用:『鹿児島県の歴史』1999・山川出版:136頁 ○コメント:新名一仁「永享・文安の薩摩国「国一揆」について」(『九州史学』122, 99.5) ○山本隆一朗「南北朝後期菊池氏の政治的動向」『九州史学』171、2015・10

                  22 同年 未来年号の世界からー日付に矛盾のある文書よりみた荘園の様相ー ○関連コメント、批判:    五味文彦『院政期社会の研究』309頁    佐藤泰弘「平安時代の国の検田」(『史林』75-5,1992)    小山靖憲「高野山御手印縁起の成立」(『和歌山地方史の研究』昭62、のち『中世寺社と荘園制』塙書房)    小山靖憲「高野山御手印縁起と荘園制」     (『和歌山大学紀州経済史文化史研究所紀要』昭63、のち『中世寺社と荘園制』塙書房    鈴木利男「『栄山寺文書』に見る平安中期の大和国の対荘園政策について」    平田耿二教授還暦記念論文集『歴史における史料の発見』    林譲「源頼朝文書第一筆蹟について」(『鎌倉遺文研究』23,2009.4) →筆蹟の観点から元暦元年六月 日頼朝下文は偽文書ではなく真正な文書で、正文である(他の正しい文書と同筆である)。 28  1986年 松笠考 『遥かなる中世』7 ○コメント   大和郡山市教育委員会「馬司遺跡」第一次発掘調査報告書<2001>,66頁 29*  同年 みそさく考 『信濃』38-3 ○引用:山中雄志「丈量地籍図を利用した中世館関係遺跡調査に関する覚書」(『うつわ』2,1988) ○コメント:原田信男『中世村落の景観と生活』思文閣出版1999、194,206頁 ○コメント:浅野晴樹「1986年の動向(東日本・都市と村落の調査)」『考古学ジャーナル』277,1987) 31 1988年 二豊のゆうじゃくー現地調査の方法による中世村落史研究への試みー ○引用:甲斐素純『湯布院町誌』 32 同年 荘園調査はなぜ行なわれないのか 『日本史研究』310、142-170頁 ○コメント:     保立道久「中世遺跡保存の状況とその方向性」(『月刊歴史手帖』18-12,1990) 39 1994年 鎌倉街道・再発見 ○コメント:岡陽一郎「中世の大道とその周辺」(藤原良章・村井章介編『中世の道と流通』1999) 41  1995年 紀伊国〓(かせ)田庄絵図の受難 ○関連コメント、批判:     *小山靖憲「荘園絵図における寺社の図像表現」(『帝塚山大学教養学部紀要』51<1997-10>)     *木村茂光「紀伊国カセ田荘の沖積地開発と石積み遺構」(『和歌山県地方史研究』33<1997-11>)     *下坂守 『歴博』     *黒田日出男「荘園絵図と片旁(ボウ)示ー神護寺所蔵「紀伊国 田荘絵図」の読解から」       (皆川完一『古代中世史料学研究』下)     *前田正明『紀伊国 田庄絵図』に描かれた「島」の領有問題       (和歌山県立博物館研究紀要4、1999.3.31     *前田正明「文覚井と穴伏川流域用水群『紀伊国名手荘・静川荘地域調査』2004/3     *前田正明「紀伊国 田荘文覚井考」『地域社会史への試み』2004/6 43  同年 地名史(資)料論 『中世資料論の現在と課題』<名著出版>、159-208頁 ○批判:『紀伊国鞆渕庄地域総合調査』(早稲田大学大学院海老澤衷ゼミ1999) 45 1996年地名と歴史学ー歴史地図の読解『岩波講座日本通史』別巻3 ○羽山久男「徳島藩領「検地帳小字」の復原的考察」『徳島地理学会論文集』8・2005 46 1996年 久安四年・有明海にきた孔雀ー肥前国杵嶋庄と日宋貿易ー ○関連コメント:石井正敏「肥前国神崎庄と日宋貿易ー『長秋記』長承二年八月十三日条 をめぐってー」     (皆川完一『古代中世史料学研究』下) ○引用:七田忠昭「有明の弥生文化」(『青銅の弥生都市』大阪府立弥生文化博物館、1997)    上川通夫「文献史学からみた密教図像」(『東寺の密教図像』1999,78頁) 50  同年 二つのザラ峠--天正十二年、佐々成政は本当に厳冬期の針ノ木峠を 越えたのかー(前編『岳人』1997年1-2月号 51 1997年  佐々成政・ザラ越えの新事実 ーーー北アルプス山中の謎の道「鎌倉街道」を行くーーー                      『歴史読本』42-9(九月号) ○紹介・検討:菊地俊朗『山の社会学』文芸新書・平成13,244-250頁 ○紹介・検討:高橋千剱破『名山の日本史』2004、250頁     52 1997年  中世・近世に使われた「のろし」 ○書評・紹介:『歴史学研究』727,1999-9(大日方克己氏) ○引用:『海道をゆく』(愛媛県立歴史文化博物館1999、117頁) 54 1998年 怡土庄故地を歩く        ----高祖・大門村周辺の小地頭中村氏の屋敷・耕地を中心に ○関連コメント:『史学雑誌』108-5,86頁(小林保夫氏) 55 1998年 原城の戦いと島原・天草の乱を考え直す ○関連コメント:『史学雑誌』108-5,117頁(高橋修氏) ○西島太郎「戦場の目撃証言――島原・天草一揆と雨森清広の仕官――『小牧・長久手の戦いの構造』2006/4 56 1999年 伊良原の歴史と地名・地誌 ---中世史研究者の視点から----- ○新刊紹介:『史学雑誌』108-8、116〜7頁(井上聡氏) ○引用『小山田・スルメ田遺跡』(2003,築城町文化財調査報告書9集)4頁 64日根野庄絵図と荒野の開発 ○実行上人と観心寺の関係について 酒井紀美「夢の中の声」 『日本文学』2004-7 ○引用『日根荘の荘園絵図の研究』荘園研究会歴史館いずみさの・平成24・3・31 65 同年  犬追物を演出した河原ノ者たち ---犬の馬場の背景--- 『史学雑誌』 川嶋将生『室町文化論考』222頁引用 81日宋貿易の実態--諸国来着の「蕃客」たちとチャイナタウン唐房--渡邊誠「大宰府の「唐 坊」と地名の「トウボウ」:『史学研究』(251) 68〜83頁、 2006/3 渡邊誠「平安時代貿易管理制度史の研究」2011、高田牧論考などをも批判している。 渡邊見解への批判は『福岡市史』考古編2013,3刊行予定にて行う

88『蒙古襲来(竹崎季長)絵詞』の再検討         −−海東郷地頭職を得たのはいつか

工藤敬一新聞コメント(読売新聞)

96 記録シンポジウム 「福岡城・下の橋門復原をめぐって」 28頁 12行目 闕所の意味は未詳、とし修理を要する道具の保管かもしれない としていたが、誤りであったから訂正する。 (正)闕所処分(犯罪によって、家財没収)となった家臣の道具を保管した。 伊津見孝明「近世城郭における防御施設の実態」『市史研究ふくおか』8、2013、79頁の指摘による。 なお伊津見論文83頁では福岡城櫓にて焼き物が製作されていたとする。 氏の論考にて史料8に「分間方細工見物・大組櫓」、史料9に「松ノ木坂御矢倉にて細く物(細工物)土形 仕立、(略)上座郡江、持越焼立に相成指出申候」に共通する細工物は同じものであろうから、大組櫓に役 所を構えた分間方の用具であろう。細工は焼き物をいうこともあるが、ふつう木工彫金である。また土形と あるから土で作った鋳型を使用した。ならば測量(分間方)に必要な道具の鋳型を大組櫓=松ノ木坂御矢倉 で作成したと解すべきではなかろうか。

97 太鼓製作と中世筥崎宮散所 

本と論文--紹介と雑感 『明日を拓く』71, 東日本部落解放研究所2007

109 佐々成政のザラ越えと旧信濃国人・村上義長の動向

-----鈴木景二氏らの試案によせて、および安房峠追補

引用と自説の再提示:鈴木景二「佐々成政の浜松往復前後の政治過程 : 村上義長関係文書 から」『富山大学人文学部紀要』58号, Page 363-390 http://utomir.lib.u-toyama.ac.jp/dspace/handle/10110/10855 服部の批判に対し自説を固持。天正14年段階での村上義長の越後支配は証明できていない し、村上義長が上杉景勝に離反している以上、ありえない。史料の写真版を掲載。 110 昭和30年代・濃尾平野と周辺の中世城館

市澤泰峰「御器所西城で確認された堀についての検討」名古屋市見晴台考古資料館『研究 紀要』14/2012:22頁に引用と検討

『新修名古屋市史』資料考古2、242頁中世城館小幡城、335頁御器所西城(執筆者安藤義 弘氏*小幡城本丸東の堀は蓬左文庫絵図に描かれていて、近世に存在していた。服部見取 り図にも表記。しかし戦時中陸軍がさらに掘り下げたという古老の談を指摘、元来は写真 表示よりは浅かったらしい。御器所西城では北西に服部見取り図にはないが堀があったと 指摘する(これも古老の談か)。 111 中世の時間−−−定時法・不定時法および常香盤について 多ヶ谷有子「文学に見る日本の時刻制度の変遷――時刻の表現から」 『関東学院大学人文科学研究所報』2013年度37号(20130331:175〜214頁

ノートおよび文化財保護関係の提言・紹介

2* 1979年 史跡の見方・調べ方ー地名・城館・荘園ー 『文化財保護の実務』<柏書房>、346-411頁 ○コメント:数野雅彦「都市・城館研究の最新情報、甲信」『津・泊・宿』1996,237頁 ○批判・コメント:『江馬氏城館跡』3、1997,大平愛子「江馬氏下館周辺の近 世村落の復元」、小島道裕「江馬氏下館と古道」(113〜120頁) ○コメント:川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』78頁 3  1980年 総合史としての中世農村・中世荘園 『月刊文化財』206、46-53頁 ○引用:佐々木銀弥ほか「歴史考古学を語る」(『歴史公論』66,昭56.p20) 10 1990年 東国の灌漑用水ー巨大な記念物・女堀ー 飯島義雄『女堀の実像を求めて』2016、利根川取水源説、私見に同じ 20 1998年 倭城の保存をめぐる近況 その1、その2>  『日本歴史』606、110-119頁 ○関連コメント:『史学雑誌』108-5,108頁(川嶋将生氏)

書評・新刊紹介として書いたものへの意見

5 1981年 書評 勝俣鎮夫『戦国法成立史論』 『法制史研究』30、206-212頁 ○コメント:    安野眞幸「相良氏法度十八条の世界」(弘前大学教養部『文化紀要』31,平成2) 7 1984年 紹介『岩手県中世文書』 ○引用:入間田宜夫「糠部の駿馬」(『馬と日本史』2に再録) 12 1996年 紹介『宗像市史』資料編・古代中世1、近世  ○引用:『宗像大社文書第二巻本編』(平成11)      川添昭二「長沼正光氏奉納文書(源頼朝書状)」     「解題・長沼正光氏奉納文書(源頼朝書状)」239頁、821頁

庄園調査ほか全般に関して

○コメント   海老澤衷「荘園史研究の新展開」(『列島の文化史』7,1990)   飯沼賢司「シンポジウム「中世のムラと現代を終えて」(『日本歴史』529.1992)

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