中西 亮介 辻 和真 山田 大悟【現地調査の行動記録】
   7月10日(土)
 13:00、東有田町区長である藤本覚司さん宅を訪問。外尾町の昭和初期の姿、
 地理を聞いた後藤本さんの紹介で、外尾町、外尾山周辺の地理、歴史に詳しい青木安
 司さん(89)にお話を伺いに訪問。青木さん宅で外尾町の昔の姿、しこ名等のお話
 をしていただいた。
               <青木安司さん:明治44年生まれ>
 
 【外尾町の歴史】
 
    明治22年       新村→有田村 (初代村長:松村定次)
    昭和20年       有田村→東有田町
    昭和28〜29年    町村合併法
                 有田町、東有田町→東有田町
                 曲川、大山→西有田町
 
 
 【外尾町の地理】
 昭和初期は扇状地に田畑が広く分布。
 現有田駅周辺は田が分布。
 現在は、焼き物(有田焼)の町として窯業が発達。
 
 
 【外尾町における小字、しこ名】
   
               小字    しこ名
           田   椎谷   ちゃあばる(田原)  
          (また、村の共有の田を“村田(ムラタ)”と呼んでいた。)
 
【外尾町における水利】
 
                     水利権   利用法   水争い
     椎谷溜池           外尾町農家  農業用水   無
     外尾山、八幡神社横の溜池   外尾町農家  農業用水   無
 
 (現在) ダムの建設により、椎谷溜池は使用されていない。
      八幡神社(外尾山)横の溜池は現在も農業用水として利用。
 
 
 【外尾町の耕地】
 現在は焼き物の町として発達し
 ているため、耕地はほとんど見ら
 れない。昔は現有田駅周辺をはじ
 め、椎谷溜池もしくは有田川の水
 利を利用し農地が広く分布してい
 た。
 当時水田はタンナカ(田の中)
 と呼ばれ、現有田中部小学校もタ
 ンナカが広がっていた。
 当時の稲作における肥料には現
 在のような化学肥料とは違い、
 人糞を使用していた。それは、「た
 ん
 ぼがえ」と呼ばれる、それを生業とする人が集め、各農家に売っていた。また耕作の良し
 悪しはすべて天候まかせであり、祈願のため椎谷神社によく集まっていた。
  (写真は中部小学校ができる前に土地の役員が集まった時撮影したもの。)
 

【村の発達】
 外尾町に電気が普及したのは大正初期のころで、プロパンガスが普及したのは昭和4
 0年ごろである。それらがくる前は、照明として石油などを燃料とするランプを使用し
 ていた。
 
 
 【村の生活に必要な土地】
 山に近い村だったが入り会い山はなかったらしい。ご飯を炊いたり風呂を焚く薪は薪
 を売る店で買っていた。この村は陶器などの窯業がさかんで、それらを焼くための燃料
 は、松の木を用いていた。
 
 
 【米の保存】
 米は農協に出す前の時代は、米の仲買人や諸式屋(生活に必要な物は全てここで購入)
 が原米で買いとって精米して売っていた。原米のままで買いとった理由は米に虫がつか
 ないようにするためである。家族で食べる飯米はとくに呼び名は無かった。米の保存方
 法は玄米のまま俵につんで庭の小屋の中においたり、木びつに入れて保存していた。現
 在では大きな金物に入れて保存している所もある。ネズミ対策として、米がおいてある
 所に罠をしかけたり、猫を飼ったりしていた。訪ねた宅では食事における米と麦の割合
 は6:4程度であった。戦時中、米が食べられない時は空腹をおさえるために大根をま
 ぜたりしていた。
 
 
 【村の動物】
 農家は各家に牛か馬を1頭ほど飼っていた。林業には馬の力を利用していた。「ばくろ
 う」という人はいた。ばくろうと取引する場合、互いに着物の袖の中で指による合図の
 ようなもので金額を交渉していた。
 
 
 【村の道】
 当時、隣の村に行く道は現在の県道にあたる場所にあった。その道は車など通る事も
 無かったので通学路としても利用されていた。学校帰りは、私道や細い道、山道を通っ
 たりして遊びながら帰っていたそうだ。この地域では道の事を「ノウテ」と呼ぶ事は無
 かった。
 隣の村に行く道の事を里道と呼び、荷車(大八車)で米・麦・野菜をはじめいろいろ
 なものが運ばれていた。
 また、いわしなどの魚は伊万里や佐世保から運ばれ、塩は諸式屋から購入していた。
 
【まつり】
 春分、秋分のお彼岸には、新なめ祭と呼ばれる祭りが行われる。秋には収穫された新
 米が供えられる。夏には夏祭りとして、氏神様をまつる祇園祭が催される。また夏に弁
 財天祭りも行われる。10月16、17日は供日(くんち)で11月15日は村祭りの
 日である。これらの祭りは部落単位で行われる。
 
 
 【昔の若者】
 若者は当時男子は青年会、女子は女子会というクラブをつくっていた。男子は集まっ
 て酒を飲んだり話しをしたりしていた。祭りが近い時期には踊りや太鼓や笛の稽古もし
 ていた。少年時代の遊びとして、相撲・魚とり・メンコなどがあったそうだ。力石と呼
 ばれる遊びは無かったらしい。昭和のはじめ、青木さんは佐世保まで映画を見にいかれ
 ていたそうだ。当時の若者も決して働いてばかりではなく、ある程度は遊びもやってい
 たらしい。
 
 
 【町のこれから】
 昔は農地だった所も住宅や学校ができ窯業中心になったこともあり、現在では農地は
 非常に少なくなった。農家はほとんどいなく自給自足のために農業をしている家がある
 程度である。したがって水利権の争いも全くと言っていいほど無い。
 この町は陶器を主とする窯業が盛んな町である。これから先も窯業が基盤となること
 に変わりはない。少子化の時代であるが、それでも跡取りは決まっており跡取り問題の
 心配はないらしい。今日の心配事としては、不況で陶器の売れ行きが良くないという事
 だそうだ。今後はお年寄りが増えてきたため、医療施設を増やすという方向に向かうと
 いうことである。
 
【感想】
 今回私達が調査をして驚いた事は、有田町は有田焼が有名で農業はあまり盛んでは無
 いと思っていたのであるが、ここでも昔は農業を生活の基盤においてあったと言う事で
 ある。それでも今回最初に訪れた藤本さんの家の前には立派な門があり、尋ねてみると
 それは江戸時代に焼き物が認められて、そこの藩主から名字を名乗ることが許されたと
 きに作ったものであると言う事なので、その時代から窯業もあったとも言える。当時は
 窯業を本職とする家と農業を本職とする家、またその中間にあたる家もあったのではな
 いかと思う。それではいつ頃から農業をする家が少なくなっていったのか、残念ながら
 聞き忘れてしまったのでいつか機会があれば調べてみたいと思う。
 有田焼きは陶器について全くの素人である、私たちでもよく聞く名である。だから今
 後について話を聞く時少し不安であったが、後継者は皆確保しておりこれからも有田焼
 はその点については問題は無いと聞いて安心した。

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