目次/中の原・白川谷(しらこだん)・下南川良山・上南山・泉山
調査地域 中ノ原(含 岩谷川内) 調査者:池田 正親 今村 智博 加治佐 剛 田中村 小字 稗古場 クラタニ 中開 オギオンサン(=ヤサカマチ 八坂町) 岩崎 サンダンミズ [三段水] 岩中 ユルギシ[動石], スギヤマ , タカミ[高見], テンジンマチ (=テイジンマチ), ヤマゴエ[山越] , マチ[町], ビンブートウゲ(=ゼンモンザカ), シモノバンショ[下番所], タニ[谷](=サルガワ[猿川]) 岩開 チョウキチダニ[長吉谷],ヒラキ 椎谷 フゲンサン 小字・しこ名について スギヤマ……鉄道のトンネル入り口 中開…………商人の町 赤絵町………焼き物に色をつける所が多かった(16軒) ヤマゴエ……話を聞いた三人三様だった。 山口さんはヤマトク前に出る道路を、 辻さんは白川川が浮見橋を下った後の蛇行している所を、ヤマゴ エと呼んでいた。ここでは久富さんのいっていた所を地図に記した。 その他レポート、地図に(カッコ)で書かれているものは人によっ て呼び方が異なるもの、複数呼び名があるものを示す。 水源について 使用している水源 大谷溜池(おおたにつつみ) 昔の水争いは、特になかった。それは、中ノ原、岩谷川内には農業で生活する ものが少なく、焼き物を中心に生活しており生活用水は井戸水で十分だった。 焼き物に必要な水は、大谷溜池から供給していた。ただし、中ノ原、岩谷川内 は大量の水は不必要だったため水利権は、現有田駅以西の住人が持っていた。 田んぼに送る水(有田駅以西の田んぼに送る水)は、大谷溜池から川をとおり、 灌漑用水(有田町役場前に残っている)を通っていた。 有田駅より西は、ほかおちゃーばる(なんがわらちゃーばる)と呼んでいた。 現在、大谷溜池は飲み水の供給源として利用されている。 猿川のプールびらき:昔は大谷溜池から流れる水をせき止めて天然のプールが作 られていた。現在は町営プールとなっている。プールびらきという言葉は山口 さんが子どものころから使っていたらしい。 昭和二十三年の水害:大谷溜池は当時、土・泥で作られていた堰で大雨によりけっ かいし猿川の住人二十数名が死亡した。家屋も数件流失。現在は、整備され ているため6月29日の大雨でも被害はなかった。 田畑について 農業で生活している人はほとんどいなかったが田のある場所もあった。あったの は有田中学校北側と有田町役場付近。 牛、馬 、家畜について 牛、馬、にわとりなどはいなかった。 米、生活用品について 米屋、酒屋、雑貨屋がありそこで購入していた。給料のことを、はんめあじゃー (飯米代)と言っており、給料が少なくて困っていた酒屋が夜中に酒だるを水 で薄めていたのを山口さんの父親が見かけた(聞こえた)そう。 食生活について 野菜、魚は行商人が売りに来ていた。肥溜めを引き換えに野菜と交換もして いた。 特に魚は伊万里、川棚、佐世保から取り寄せた。行商人が鉄道を利用し、有田 駅からリアカーでやってきていた。 週に2、3回程度。当時イワシは600 gで2円。 塩は、塩屋があったのでそこで購入していた。 保存がきくということでクジラの肉がおかずの主だった。他のものは保存が きかないものが多いので、1日、2日で食べ切れるぐらいの量しか買わなかった。 信仰について 陶山神社・八阪神社・椎谷神社には、十一月二十三日から翌年の同日まで、最大 の祭りである有田町供日(くんち)を始め、一年間の祭礼を担当する神事町があ る。この神事町は毎年交替で順番にかわっていく。 元々、このお供日は、陶山神社の祭礼で、旧暦八月十五日に有田窯焼中の繁盛 のため、有田焼元祖の神に報恩感謝の祭りとして行われていたものである。 神事町がいつ出来たかは確定できないが、明治二十年頃には神事担当町はすで に形成されていたらしい。 神事町の代表者として、注連元が立てられる。 特にお供日の時には注連元が頂点に立ち、神事町では祭礼委員長をたて、祭礼 実行委員長会が組織される。 この注連元は、一生一代で、重複して行った例はない。選任の方法は、次期神 事町予定区が当該年の正月頃から、区長・顧問などの役員が検討を重ね、区内の 有力者を選任して、四月の年度始めの区総会で紹介する。区内に適当な人物が現 れないときは、区長が代表して注連元を代行する。これを、区受け(くうけ)と 称している。 お供日の費用は、約一千万円前後の経費がかかり、そのうち注連元が三割程度 負担し、あとは区有志の寄付でまかなわれている。 内容は、青年団のおどり、子供向けには雑貨屋がくじ引きなどを用意し、く じに当たるとお菓子などがもらえた。 基本的に全員参加であった。 言葉について 肥溜めのことを「たんぼ」という。 くしゃく=ひしゃく がなまったもの たんぼくしゃく……手がつけられない……がき大将 たんぼくしゃくのえ(柄)のなかと……いよいよ手がつけられない 子どもの頃に歌っていた歌 人口今やん七千人、戸数は千と三百よ (昭和初期) 電気、ガス、水道について それぞれ開通したのは 電気 大正初め ガス 終戦後、昭和二十年代 水道 昭和三十四年 薬について 2、3ヶ月に一度アコーディオンのようなものを弾きながら薬売りがやって きていた。「オイチニ」というかけ声から「オイチニの薬売り」と呼ばれた。 昭和10年頃まで続いた。 陶磁器について 有田の陶磁器の職人を育成する学校として、有田工業高校がある。1900年に 創設された有田徒弟学校(初代校長 川崎 千虎)が有田工業学校、有田工業 高校と名前をかえ、現在にいたる。話を聞かせていただいた山口さんは有田工 業高校の出身。 陶磁器を作るには、石、燃料、水が必須。 石・・・・・・採石場(イシバ)という場所があり、そこから運んできた。 燃料・・・・近くに山があったので、個人で山に入り薪をひろった。 水・・・・・・近くの川から汲み上げた。 宿泊施設について 有田には宿泊施設が少なかった。有田駅前に5、6軒程度。 金山のふもとに松尾ハヤさんの家があり、そこに財閥(金のバイヤー)が泊 まっていた。 金を掘る鉱夫が泊まる施設を納屋とよんだ。 他の村との対立について 現在の有田町は、江戸時代には有田村と田中村に別れていた。そして有田村は 東有田町に、田中村は有田町と変わり昭和26年頃に二つの町が合併して今の 有田町になった。今でも町民性の違いはある。しかし、表だった対立はない。 子ども同士では、対立があった。中ノ原の子供たちが敵地であるかこば(桑古 場)に魚つりをしにいくとかこばの子供たちに追いかけられることがあった。 また、教科書を売っていたお店が岩谷川内にあったために、逆にかこばの子供 たちが、買いに来るところを通せんぼをして入れないようにしたりしていた。 現在の有田町について 有田町は、現在町並み保存が進められており、山口さんは景観審議会会長をつ とめている。現在有田町には143軒が伝統的建造物群に指定されている。有田町 では、三階立て以上の建造物の建設が禁止されている。 話をしてくださった方々 中ノ原・・・・・・久富 桃太郎さん、辻 道太さん 岩谷川内・・・・山口 秀市さん 2 有田町白川現地調査レポート 話者:中島稔(昭12) 寺内博信〔昭10〕 調査者:田中宏卓 東俊彦 名称・屋号 白川は別名白川谷(しらこだん)と呼ばれ、白川を中心とした一帯のことであった。範 囲としては千歳橋から万寿橋までである(地図に記載)。 小路に名前は無く番号で呼ばれていた。場所の目印としては橋の名や屋号を使っていた そうだ。 橋の名には、天神橋(1)、今池橋(2)、育英橋(3)、白川橋(4)、千歳橋(5) (番号は地図上の番号)などがあった。 屋号には、 (かっこま)、松政(まつまさ)、 (やまあ)、 (やまづる)、 (まるせい)、 (やまちゅう)、 (かねまる)、 (かねしん)などがある。これら は古くからある店舗で、現在も使用されている。(例:かっこまさんの前で・・・という 様に使われていた) A陶土について 白川で造られる陶器の原料となる陶土は、泉山の磁石場から運ばれていた。焼物の上薬 の原料となる (ゆうせき)は、白川の北の「石場」(6)と呼ばれる場所から採られ ていた。 それらの運搬は、馬車引き(馬車かったん)と呼ばれる運搬業者が馬車で運んでいた。 石場には一般人にとられないようにするために検問があったが、馬車引きは顔で通ってい た。つまり、特定の馬車引き以外の人は、石場に入って石を採ることができなかったのだ。 彼らが通っていた道は現在は存在しない。なぜなら、昭和36年の有田ダム建設のため、 昔あった白川の流れに沿った道は水没してしまったからである。現在の道は、有田ダム建 設に伴い造られた道である。昔からある道は、万寿橋手前付近まである。地図のダム中の 青い線は、当時の白川の流れを示している。 B村について 白川では、ほとんどの人がなんらかの形で陶器の産業のかかわっていた。例えば販売業、 運搬業なども陶器産業と関連していた。白川全体が陶器の町であったと言える。そのため、 川沿いにもかかわらず田はほとんどなかった。わずかに副業としてある程度だった。 村の動物は、馬車引きの馬くらいで、他にはほとんどいなかったらしい。 冬(12月始めから3月末)には、村の人は、薪を取りに国有林に入っていたが、入る ためには国から「入林鑑札」をかう必要があった。薪を採るために、秋葉山(7)や焼山 (8)などの山に入るわけだが、そのときの場所の目印として、谷に、狭谷(せばたん) (9)、一の谷(10)、二の谷(11)、二本杉(12)、蛇焼(13)などの名称がつけられ ていた。 電気は明治から大正までに通っていた。プロパンガスが入ったのは戦後の昭和の25、2 6年くらいだったそうだ。 C海産物について 海産物などは、村に荷い手が天秤を担いで伊万里、唐津、大村などから売りにきていた そうだ。 塩については、昔は国の割り当てで配給されていたようだ。 D祭りについて 白川では「祇園さん」と呼ばれる氏神の夏祭りが八坂神社で毎年行われている。以前は 神社の参道には夏祭り独特の出店が現在よりも多く並び、ガス灯も明るくともされていた そうだ。 この祭りの一番のイベントは、青年団による仮装であった。毎年若者が集まって趣を凝 らした仮装を何ヶ月も前から準備をして、盛大に行っていたそうだ。しかしその仮装も年 とともにすたれて行き昭和23年頃には無くなってしまったそうだ。 E娯楽について 当時はやはり娯楽と呼べるものは少なく、先程書いた夏祭りの仮装の準備などが若者に とっては大きな娯楽になっていたようだ。 他には白川を堰き止めて、自然のプールにして遊泳などをしていたそうだ。小学校横は 子供用、上流の深いところは青年用で「青年プール」と呼ばれていた。また、川のそばで 皆で集まり涼をとるのも若者の楽しみの一つだったそうだ。 昔は戸矢の円山に遊郭があり、そこが成人男性の娯楽場所になっていたようだ。また余 談ではあるが、長崎の円山の遊郭は戸矢から移したものではないかと言う話もある。 F将来の展望 白川だけではなく有田町全体の悩みではあるが、人口の減少が問題となっている。人口 の増加は、区長さんは展望と言うより願望だとおっしゃっていた。そのためには企業誘致 や観光などに力を入れることが重要である。また、インターネットを使って「陶器の町」 と言うことを広く宣伝したいともおっしゃっていた。 また現在有田町の陶器は、熊本の天草の陶土を使っているらしいが、泉山の陶土を使用 した昔ながらの陶器を作り純粋な有田焼の陶器として売り、それをアピールしたいとおっ しゃっていた。 3村の名前:有田町下南川良山 聞き取りをしたかた:辻 碩(つじ ひろし)さん 昭和10年生まれ 調査者 深堀 秀史 平山 直樹 しこ名について:辻さんを含め村のご老人10名くらいにお話を伺いましたが、 この地帯は昔から磁器の産地として発展し農業に関しては自給 自足する程度のもので田畑もあまりなく、どの方に聞いてもし こ名、あざな、しゅうじと思われる話は聞けませんでした。た だ、以下に示すような地名の呼び方を教えていただきました。 木場(こば):焼き畑の行われたところを指す 尾(お) :木場に同じ 原(はる、はら):墾る(はる)とかけて、開墾の行われたところを指す 黒(くろ):土地が盛り上がっているところを指す 牟田(むた):湿地帯を指す 川原(かわばる):川の横の田畑を指す 田原(ちゃあばる):平地の開田を指す 皿(さら):焼き物の総称 以上のような呼び方があり、現在でも桑木場、古木場、外尾原、丸尾原、南 川原、天神原、黒牟田といった地名、梨木原、南川良原といった小字名に残 っていると思われます。 下南山地区について:正式には下南川良山。この地に移り住んだ朝鮮の陶工た (しもなんざん) ちの出身地が南原郡南河原(ナンカゲン)だったことか らもともとは南河原という地名だった。それが読み方が 同じであることから南川良となり、早くから開けた南川 良原地区と、南川良山地区に別れた。南川良山地区は現 地の人に「なんごら」または「なんごらやま」と呼ばれ ている。 下南山地区の発展について:朝鮮から移り住んだ陶工たちの村。地図中@の川 沿いの道を中心に発展する。江戸時代には鍋島藩 の統治下におかれ、鍋島藩は技術の漏洩を恐れて 川の上流の大村藩との国境付近を厳しく監視した。 辻さんに見せていただいた当時の資料(200年ほ ど前)によると、村は25世帯くらいから成って いた。現在は100世帯くらい。 村の農業について:最初に書いたとおり、この村は農業があまり盛んでなく田 についていろいろと話を伺いましたが、ほとんどの方が知 らない、覚えてないとのことでした。 村の道について:南川良川と平行に走る道路が村の大通りであった。(地図中 丸1の道路)また、東西に走る大きな道路は現在の国道であ る丸3の道路ではなく、丸2の道路だった。 村の水利について:この地区の水田は、集落の中央を流れる南川良川から取水 していた。家々で使う水については、あらかじめ一日で使 う量を決めておきその範囲内で洗濯や炊事をおこなってい たらしい。水質としては、時々赤水がでることがあったそ うです。昔から大水はあったが水不足で困ることはあまり なく、山がまだ開けていないうちはどこからでも水がでた ということです。数年前の旱魃でもたいした影響はなかっ た。 水道と電気について:辻さん自身も村を少しのあいだ離れていたそうなので断 定はできませんが、大体昭和40年代前半頃だと思われ ます。 村の若者について:子どものころの遊びとしてはメンコ、ビー玉、山を利用し 戦争ごっこ、窯屋でのかくれんぼなどをしたそうです。辻 さんが子供のころは電気もないので、夏は集会所に集まり 肝だめしなど。他の地区の子供と遊ぶことは無く、地区内 の上級生や下級生と遊ぶ。 村のまつりについて:1月6日 七福神の祭り 子供たちが手作りの衣装を着て家々を回り、もちや米を もらってまわる。 7月10日 金比羅山の祭り 8月25日 天満宮の祭り 青年団が芝居を行う。今は3つの区で持ち回り。 現在では高齢化、よその地区からの人口の流入などにより 伝統行事が子供たちに伝わりにくくなっており、子供たちに 地区の行事を伝えるために伝承会が設立された。 戦後の村について:やはり食料は少なかったが、「おくんち」と呼ばれる行商 が来たりしてわりかしにぎやかなほうだった。魚は、鯨や 干物がくることがあった。 これからの村について:道路の拡張問題が今の村の一番の問題だそうです。観 光地としての発展に伴う車の増加に対応したいが、昔 から住んでいる人には立ち退きをせまらねばならない。 他にも開発という面では、自然との調和を図った町づ くりを進めたいそうです。最近は茶畑の開発が成され ているが、鉄砲水を引き起こしたりしている。農薬の 使用にも注意し、生態系の復活を図っています。山あ ってこその有田ということで、伝統を守り、自然を守 る町作りを進めていくそうです。 泉山 田中健一、佐多良子 わたしたちが調べた泉山は(地図のオレンジの線の内部)地図の青磁、泉山、年木谷、泉町、釈迦谷、境松、隠道、隠谷の部分にあたる。この泉山には田畑がほとんどなく 、しこなが余り集めることができなかった。 1)地元の人間の間で通じる地名や道の名前について 楠木谷…年木谷と泉山の境あたりの谷をこう呼ぶ。この谷に楠木があったためこのように呼ばれるようになったと思われる。 地蔵町…泉町、中樽の境あたりを呼ぶ。実際この付近には地蔵がいくつかあった。このあたりに流れる川にかかる橋を地蔵橋とも呼んでいる。 白磁…採石場から釈迦谷付近を指す。これはこの辺りで白磁鉱が発見されたからである。それに対して青磁では青磁鉱が発見されているために名前がついている。 新道…釈迦谷、境松と中奥、隠道、隠谷の境となっている道は新しく作られた道でこう呼ばれている。 泉山の磁石場…採石場のこと。 2)小字の由来について 泉山…その名のとおり昔から水の湧き出る泉がたくさんあったためにこういう名称がついた。実際いまでも小川が多く流れていた。今は水量が少なくなってしまったが、昔 はこれらの小川に水車がありその水車の力で石を砕き磁器をつくっていたそうだ。 青磁…先ほどの白磁にたいしてこの辺り一帯では青磁鉱が発見されている。 境松…このあたり一帯は隣町との境界であったためこう呼ばれている。昔は境の土編のない字を使っていたそうだ。 隠道、隠谷…江戸時代には有田の磁器が不正に外に漏れたりしないように見張りをしたり取締りを行う口屋番所というのがイチョウの木のあたりにあった。そこにみつから ないように隠れて陶磁器を運ぶ人たちがこのあたり一帯をとおっていたためこう呼ばれるようになった。しかし、「隠れ」と言うのがあまりいい意味でないため現在では朝日 町という名称を使っている。 3)水について 泉山はその名のとおり昔は泉が所々湧き出ていたという。そのため陶磁器を作るときに使う水や生活用水にも困ることはなかった。また、水がきれいなことでも有名で、 全国の名水で19位にも選ばれたことがあるそうだ。また町のいたるところに井戸があり、また弁財川やひん毛川など小川も数多く流れている。小川にかかる橋には地蔵橋や 上幸平橋、釈迦谷橋というように地名がそのまま橋の名前となっている。 4)町の境界について 町の境界にはおもに山の尾根や谷、小川などによって定められている。隣町である山内町との境界は山の尾根となっている。また上幸平との境は上幸平橋によって分けら れている。 5)泉山の史跡について 石神神社…泉山磁石場にあるこの神社は焼き物の原料が産出する石場の守り神であり、地区の氏神様でもある。また境内には焼き物の神様である高麗神がまつられている。 高麗神は泉山の先祖の方々が遠く韓国の神を崇拝した石碑で朝鮮から渡来した人たちの子孫は毎年春に例祭をしていたといわれている。 弁財神社…泉山の弁財神社は泉山区の氏神神社で地区の人たちはこの弁財神社を親しみを込めて「べんじゃーさん」と呼んでいる。弁財神社の境内には有田のイチョウ、公 孫樹(天然記念物)が堂々と聳え立っていた。 六地蔵…子安神社、子育て神社、身代わり神社など呼び方はたくさんある。六地蔵のほかにもこのあたりに地蔵が多く見られるためこのあたりを地蔵町とも呼んでいる。 口屋番所跡…江戸時代、陶石の運搬の管理や絵描き職人、細工人などの流出を防ぐために口屋番所がおかれていた。有田内山の東西の出入り口である泉山と岩谷川内の2ヶ 所にあったという。 唐臼…昔、磁石場より運ばれた陶石は水の流れを利用して唐臼に打たせて粉にしていたという。江戸時代から明治時代にかけては有田町泉山、中樽、白川、岩谷川内の渓谷 には一時百数カ所も唐臼があったそうだ。泉山の弁財川、ひん毛川もいまと比べ物にならないくらい水量が多く、この川辺にもいくつかの唐臼が回っていた。 6)有田焼について 有田焼は磁器と呼ばれる焼き物で、陶石をくだいて原料にしている。陶磁器にくらべて素地そのものが白くて堅い焼き物である。1610年頃、豊臣秀吉の文禄・慶弔の 役のときに連れ帰られた朝鮮人陶工、李参平によって泉山で陶石が発見され、日本で最初の磁器生産が始まった。現在磁石場のの石には硫化鉄が含まれており、焼くとぶつぶ つが出てきてしまうため、天草の磁石によって焼いている。1616年、李参平によってこの磁石場から発見されて天草の石に転換されるまでのおよそ300年間、有田の窯 業を支えてきたのがこの石場であった。明治22年には有田焼の生命源である泉山磁石場の所有権を巡り、有田町、新村、曲川村、大山村、大川内村の間で「石場騒動」がお こった。これは原料を仰ぐ窯焼きを区別するために決められた内外皿山の騒動である。内外皿山とは有田町を内山、外尾山、黒牟田山、応法山(新村)、南川原村(曲川村) 、広瀬山(大山村)、一ノ瀬山(大川内村)を外山と称したものである。明治24年の弁明書の中に藩主は石場を内外皿山へ下賜としたが、内山に所有権を与え外山に使用権 を与えないのは差別であることを唱えた。この騒動は明治27年6月に「内外皿山規約書」を締結して5ヵ年に渡る石場騒動は解決した。 7)窯業について 泉山の窯跡は登り窯と呼ばれる様式のものである。登り窯とは3つ以上の窯が山の斜面などにすこしずつ段に作られたものであり、下の窯から順に素焼き、本焼き、色塗 りが行われた。この窯は山の多い泉山に適した形と言えるだろう。また登り窯跡の付近には物原とよばれる失敗品の捨て場もあった。今も残る泉山の登り窯跡は次のとおりで ある。 年木谷1号窯 年木谷2号窯 年木谷3号窯 泉新窯 楠木谷窯 只藪窯 泉窯 登り窯は下から順に上のほうへたいていくので、登り窯をたき始めるにあたってはその登り窯を使う人全部が同時に積入れをしてしまう必要があった。そのため、全員が 集まる期日を決定しその決定にそむかないことの連判を行った。これを「火入れ連判」と読んでいる。火入れの期日が確定するとこれを皿山会所に届け出した。これを怠った 場合には隠れ火入れとして厳重に処分されたそうだ。 8)現在の泉山について 現在の泉山は中国の景徳鎮、韓国の慶州、ドイツのマイセンと焼き物による国際交流を行っており、姉妹都市契約を結んでいる。また小学校6年になると泉山の磁石場で 陶石を発見した李参平の故郷である慶州に町でお金を出し合ってお参りに行くことになっている。このように泉山では焼き物をとおしていろいろな国際交流も行っている。