日本の通貨 中世まで中国銅銭に依存 貨幣価値に差、輸入の原動力に

 日本は長い期間にわたって通貨を外国銭貨に依存していた。当初の皇朝十二 銭、すなわち和銅元年(七〇八)の和同開珎に始まり天徳二年(九五八)の乾 元大宝にいたる十二種の貨幣こそ国産ではあったが……。ただこれらにしても、 当時は布や米、鉄なども貨幣の役割を果たしていたから、新貨幣がそれに替わ り得たのかどうか、全国的にどの程度流通を見たのかはわからない。  皇朝十二銭以降は唐の開元通宝、宋の煕寧元宝、明の永楽通宝など、中国で 鋳造された銅銭が日本で使われた。日本が独自の貨幣を使い始めるのは江戸時 代の寛永通宝からである。寛永通宝の大量製造によって、以後は国産銅銭が通 貨となった。通貨に即していえば、中世までの日本は中国社会の一部であって、 鎖国体制下の近世になって初めて自立した貨幣を持つことができたのである。  唐以降、中国銅貨はアジア地域の過半において、また一部はアフリカにおい ても使用され、国際性があった。しかし中国での銅銭と日本での銅銭は、まっ たく同じものでありながら、一枚の価値が異なっていた。  韓国・新安沖で沈没船が見つかり、元の時代の中国・寧波から博多に向かう 途中だったことが分かった。その船には28トン(800万枚)もの銅銭が積まれて いて、われわれを驚かせた。なぜこのように大量の中国銭が運ばれたのか。少 し具体的に考えてみよう。  寧波に、日本の大宰府博多津に居住していた宋人三名の寄進碑三枚が残され ている(天一閣博物館蔵)。乾道三(一一六七、日本では仁安二)年四月の碑で ある。  当時博多津に唐房と呼ばれるチャイナタウンがあったことは以前にも本欄で 紹介した。宋禅を日本に広めた栄西は、仁安三(一一六八)年二月、中国(宋) に出発する前に、この博多の唐房に立ち寄っている。情報収集であり語学研修 でもあった。寄進はその一年前に行われた。博多津唐房にいた張公意ら華僑三 人が、寧波の寺院にそれぞれ「砌路一丈分(砌路は石で舗装された参道、一丈 は一〇尺で三メートル弱)」の建設工事費としてそれぞれ十貫、三人で総計三十 貫を寄進した。  中国側の論文を読むと、張公意らは貧しい階層の水夫で、「而財力都很低」と ある。たまたま立ち寄った港町で、わずかな額を寄進したという。中国では今 も旅行者に寄付を求め、その記念に名を碑に刻す慣習がある。中国での研究に はそうした予見もあろう。碑は粗末なもので、その印象もあるようだ。  だが調べてみると、乾道三(一一六七)年前後の米価については衣川強氏の 研究があって、この時期の寧波を含む江浙一帯の米価が平均して一升二〇文で あったことがわかった。つまりその一○倍の一斗は二〇〇文で、一貫が五斗だ から、銭一〇貫文は江浙では米五○斗、すなわち五石を買うことのできる金額 であった。  ただし今の日本とは度量衡が異なる。当時の宋升は一升が670ミリリット ルである(『漢語大詞典』)。平安時代の代表的な日本升である宣旨升は現行の一 升(1800ミリリットル)の約6割の1129ミリリットル相当だった。よ って宋升は当時の日本升の約6割、現代の日本升の4割弱である。宋代江浙の 銭一〇貫文は現代日本での二石(五石の4割)弱にあたる量の米を購入できる 額だったことになる。人が一年間に食べる米の量は現行升の約一石。つまり江 浙では一〇貫文あれば一人が二年間食べる米を買うことができた。高額である。  遠く海の彼方の異国・日本より、かくも多大な額を寄進した仏弟子・信徒が いた。寺にしてみれば、大いに宣伝価値があった。石に刻んで広く示し、寺の 力を誇示した。  さて平安期日本の場合、じつは銭一貫で米一石(当時)が買えた。一○貫文 だと米一○石だから、一○貫で五石だった中国米価の半分(半値、銭からいえ ば2倍)だったことになる。しかも宋升は当時の日本升の6割しかなかったから、 日本では同じ米に対して中国の3割の銅貨を支払えばよかったことになる。日 本の貨幣価値と中国の貨幣価値は同じ銅銭であっても大きな格差があったわけ だ。この格差と利潤こそが中国銭輸入の原動力となった。  先の新安沈没船に積まれていた28トンの銅銭は、日本に無事到着すれば一気 に95_分の価値になる計算である。実に3倍以上の利益をもたらしたのだ。  かくして銭が大量に入る。米、木材をはじめ金や水銀、硫黄、刀、螺鈿など 物はどんどん出ていった。インフレである。『百錬抄』治承三(一一七九)年に 「近日、天下上下病悩、号之銭病」とみえる「銭の病」こそ、その疲弊であろ う。渡唐銭の停止も提案され、国営市場である平安京七条西市では宋銭取引が 禁じられた。  宋の側でも「銭荒」(銭飢饉)となった。3倍以上の格差があれば流出は防げ まい。同時代宋人の証言もある。宋の密貿易取り締まり官であった包恢は、法 の網をくぐって密航船により銭が流出する様子をくわしく報告している。  北宋銭の鋳造量は毎年六〇〇万貫(六〇億枚)という(東野治之『貨幣の日 本史』)。新安沈没船の銅銭は八〇〇万枚である。包恢は一年に五十艘が銭を運 んだと記録しているが、ならば四億枚が流出した。仁治三(一二四二)年に帰 国した西園寺船は銭一〇万貫(一億枚)を運んでいた。宋国鋳造銅銭の5%以 上は日本へ運ばれただろう。  日本にとっても自国で独自の貨幣を鋳造するよりは、安価で容易な調達法で あった。通貨量コントロールはむずかしかっただろうが、過剰に供給されて利 潤が薄くなれば中国銭は来なくなる。案外に中世の物価は安定していた。 補注 自然に物価が安定していたかのような記述は不正確でした。中世国家が銭貨流 通をどのようにコントロールしていたのかについては、別の機会に述べてみる つもりです。 なお一部ですが、新聞記事と表現を変えました。


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