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二つのザラ峠(後編)

      服部英雄

『岳人』1997年2月号143-146頁

    (5)鎌倉街道を行く その1 唐尾峠-----越飛国境-----  唐尾峠は越中有峰(旧名有嶺<うれ>)と飛騨山之村を結ぶ峠である。有峰村 がダムに沈んだのは大正のこと、既に在りし日の有峰の姿を見た人はいない。飛 騨山之村に仲島米蔵(大正九年生まれ)、仲島ミツ(大正十一年生まれ)ご夫妻 を訪ねてみた。 (ご主人)有峰から上宝への道。そして殿村の江馬やねぇえ。*5 江馬が越中 攻めを計画して中地山(なかちやま)城を築いたってねぇえ。それでここが鎌倉 街道の道筋。有峰まで唐尾峠を越せば早い。ここからゆっくり行って一時間、頂 上から有峰まで四十分、向こうから来ると急だから少し時間がかかる。唐尾峠は 山そのものは急なんやけど、あちこち肘折って(肘折れに曲がって)尾(オウ) 伝い。谷底は春先になると、なだれて危険ながやちゃ。昔、武士がさぁ中地山の 舎弟、家来やなぁ、本城へ用事があるため冬唐尾峠を通ってきて、吹雪に出会っ て谷底へ流れ落ちて二人死んだ。そしてその娘婿が地蔵さんをきって(刻んで)、 頂上に供養のためまつった。 (奥さん)今でもお地蔵さんござるよ。毎年和佐府(山之村)の人が道刈って。 うちのじいちゃん、年がよったもんでねぇえ、去年まで毎年七月(ひちげつ)に 行って参ってきたよ。線香燃したり、お酒をあげたり。  有峰は昔は百戸もあったけど、大正十一年にダムに土地を売って富山、神岡、 大久保へ出ていった。あの頃は百戸もなくて十三戸。ひとだいら村があった。む かしのことやで家財道具、りっぱなものだったけど、大きなものは富山まで持っ ていけない。タンス、仏壇、味噌桶、漬け物ダルやらみんな木のばっかやでねえ。 おぞいもん(価値のないもの)はこっちの人は買わんけど、平家の落人かなんか で有峰は金もっとった。仏壇なんか金のバッカバカ使ってやったってよ。  私の親がその荷物を運ぶ仕事していた。春、朝暗いうち、カッテてね、彼岸の 頃になって雪が圧縮されてドンドンなるんやさ。湿ったり、降ったのが固まって 上がチュンチュンなって朝早くておちこまんのやさ。そのカッテに頂上まで行っ て荷物を降(おろ)いて家へきた。有峰は米はできなんだんやさぁ。やっぱり稗 とか粟とか、そういうモンばっかりだもんで、そやもんでうちのバーちゃんの話 では十一月(げつ)のしまい頃、冬に履くもんな、ズッペとかソッペとか、それ を作るもので藁がほしいで、一軒の家で一人ずつ干した岩魚とか、みやげにもっ て、一夜(ひとよ)さどまり、和佐府にきて、次の日藁をお(負)ねて有峰へ帰 らっしゃった。有峰は米ができんだけで、平地だもんで畑はデカいんや。稗も粟 もどっさりできたんや。ゼンマイ、ワラビは良くできるし、川にはねぇえ、あっ ちの谷、こっちの谷、岩魚は手でつかめるほどおったってよ。  (ご主人)水須までは若いとき測量か何かについていっただけ、岩本先生(先述 の鎌倉街道研究者)と一緒にいったこともある。富山から来るものは塩、塩漬け の海の魚、越中ブリとか。こっちからはワラビ粉、はぁ第一はワラビ粉。山を焼 いてぇワラビの花を咲かせて根からワラビ粉をとる。クロバナはその家で食べて ぇ、シロバナは糊の原料としたんや。高岡からも岐阜からも、からかさにはるワ ラビ粉を買いに来る。金に換える大事なモンやったんや。昭和三十年に外国から 代用粉(ダイオー粉)が入ってきたろう。値段が下がってまって、あわんように なった。 (奥さん)ワラビ粉で作った糊はものすごく強いんやさ。うちのじいちゃん、一 年に四石とったよ。春の時と九月の時と十一月とで雪の降るまで。一升枡いっぱ いであの当時三百円。 (ご主人)めがた(目方売り)だったけど、一升で大体それぐらい。最高の年は やっぱり四石もあったんじゃ。そんなことはいっぺんだけだった。 (奥さん)くずや(藁屋根)を板屋根にしたとき、棟梁の手間賃が一日七百円、 次の大工が六百円、手習いが四百五十円だった。(ワラビ粉は)米よりずっと良 かった。 五月(ごげつ)初めになるとさくま(作馬)。家の中に三頭馬を飼って養う。 一頭は家のたんぼを耕す。五月の三日か四日頃、二頭は富山へ出して田植えが終 わると米十俵積んで帰ってくる。ホンに肥やしていっても、富山の方は五軒ぐら いで使った。一カ月働いて、帰ってくるときは痩せてガッタガタ、かわいそうや ったよ。 (ご主人)昔はそうして生活したもんなぁ。 ことばの語尾の「がやちゃ」「ねぇえ」。なつかしい富山弁だ。ここは確かに 飛騨。しかし越中でもある。鎌倉街道は富山平野の文化と奥飛騨の村を直結して いた。ワラビ粉からの収入は、熟練労働者二十日分の日当相当である。馬二頭が 運んでくる二十俵は、平地の良田二反からの収益に相当する。一見すると自給自 足の山の村。しかし実際には平地との交流が大きく村の生活を支えていた。有峰 水没以前には鎌倉街道の役割は、いっそう大きかった。そして同時に冬の過酷な 交通に関わる悲話が、戦国時代の物語として伝承されてもいた。    (6)鎌倉道を行く その2 安房峠ザラ越え----飛信国境-----  次には安房峠へ。先学の書物に名前のあった平湯の人々は多く故人となってお られた。上宝村教育委員会の紹介で、地元の山に精通され狩猟のベテランでもあ る中沢勇夫氏と連絡を取り、氏の経営する平湯温泉旅館すずらんに泊まる。鎌倉 道は無雪期よりは降雪時の方がわかりやすく、それも雪の状態によりけりで、雪 が多すぎると分からないとのこと。とにかく樹木や笹薮でわかりにくいという話 だった。「わたしらはザレと呼んでいますがね、ザレは出水(でみず)の沢の上、 車道から入って二番目の左手の尾根をあがった上です。そういう目で見ればそれ らしいものもあるかもしれんなぁ。」 出水沢とは融雪期や雨期に一気に水が出 ることからの呼称で、出水沢上部には大きな崩壊地があってカモシカも多くいる とのこと。さてはこの崩壊地をザレとよんだものか。人や地域によってはザレを ザラとも言ったものか。ザレもザラも意味は同じである。鏡味完二・鏡味明克 『地名の語源』にはサラの項目にザレの意であるという説明をあげ、佐良、蛇穴 (さらき)などを列挙している。ガラガラ場がガレ場になるようなもの。ザレ・ ザラがもとで「さらさら越え」と呼ばれたのか。飛騨側にしかザラ越えの呼称が ないことは、このザレが飛騨側に存在することと関連しよう。 ザレは二万五千分の一図の安房山(標高2219.4メートル)の南にある峠で、 乗鞍より十石山を経て下ってきた主稜の二つ目の鞍部になる。ザレは平湯と沢渡を 結んだ一直線上に位置している。大正年間に車道として完成した今の安房峠は、平 湯温泉と既に観光地として有名だった上高地を結んだものであり、信州に出る道と しては北に寄りすぎていることが分かる。  さて当日は残念ながら雨だった。十一月に雨中の薮こぎをする元気はなかった。 出水沢より旧道を求めて下ることにする。手持ちの平成五年版の国土地理院の二 万五千図には出水沢より池の平(いけのひら)に出る道が書かれている。しかし この道自身が消えていた。廃止されて数年にもならない道が既に熊笹に覆い尽く されている。百年以上前の道を探し求めることに絶望的なものを感じる。  アカンタナ火山の溶岩流である金剛岩。車道の横手にわずかながら岩を切り開 いたような道型があって十数メートルほど続いていた。『上宝村誌』にいう「安 房横岩」か。そして岩本氏の論考に「安房金剛」とあった古道か。訪れる人もな く、雨に濡れた苔が異様に美しかった。雨の日の古道歩きも捨てたものではない。  途中、平湯の熱血教師であった篠原無然の遭難碑があり、その碑の後ろに山が 削られる以前の旧道が細く残っていた。とても牛馬が荷を負って通行できるよう な道には見えなかった。  立ち寄った平湯簡易郵便局で鎌倉街道について尋ねてみる。鎌倉街道と聞いて 今思い出した、といって奥さん(三枝伝右衛門氏夫人)がお手玉の歌を口ずさん でくれる。 「鎌倉街道の真ん中で、痛いともいえず、かゆいともいえず、ただ泣くば-か-り -」 この前に歌詞があったが、どうしても思い出せないとのこと。帰宅後上宝村『村 政要覧』にあった上田豊蔵「鎌倉街道物語」を見てつい苦笑してしまった。 「鎌倉街道の真ん中で、いちの木、にの木、さんの木、桜の木、柳の下の坊さん が、蜂にちんこを刺されて、痛いともいわず、痒いともいわず、ただ泣くばかり、 チョウド、チョウビャク貸せました。」 こんな悪戯な歌を少女たちが歌うとも考えにくい。本歌をいたずらっ子たちが替 歌にしたのがこの歌か。 ザレは来春を期そう。目的の第一は果たせなかったが、実りの多い、晩秋、奥 飛騨の旅であった。 *1大正年間、名古屋の豪商の家に生まれた伊藤孝一は、資金力をふんだんに使 い、三月に立山温泉からザラ越え、針ノ木越えを行っている。平の渡しは残って いたワイヤーを利用したらしい。金と時間をたっぷりかけたもので、風呂桶まで かつぎ上げたという。一刻を争っていた成政の旅と直接比較はできまい。また冬 型の気圧配置が支配的な1月と、移動性高気圧が来る3月とではまた条件も違お う。しかし孝一もまた成政のザラ越えに惹かれたひとりだった(瓜生卓造『雪嶺 悲話』)。 *2重要文化財に指定された立山室堂は解体修理時の発掘の所見によれば、現在 の建物の中心は元和三年(1617)のものだが、それ以前に前身建物があった という。戦国時代に建物はあった。 *3 沿道には信州側に大野田夏道砦、沢渡池尻砦、飛騨高原側に苧生茂城、岩 井戸城、尻高城等の城砦が築かれていた。 *4 もっとも今日富山側ではこの道を「うれ往来」と呼び(「うれ」とは有嶺 で有峰の古称)、鎌倉街道の呼称は忘れられているが。 *5神岡町殿にいた江馬氏のこと。その館跡が今も残る(国指定史跡江馬氏城館 跡)。 参考文献 『大日本史料』十一編之十(1956年刊)、天正十二年十二月二十五日条 『長久手合戦前後略譜』(宝永三年、1706) 『越登賀三州志』(寛政十〜文政二<1798〜1819>) 中島正文「針ノ木峠考--佐々成政の針ノ木越えについて--」(『山と渓谷』61 -62) 広瀬誠「佐々成政の佐良佐良越えに関する諸説をめぐって」(『富山史壇』56 -57合併号) 木倉豊信「越中と信濃の交流のあと」『信濃』16-1 『安曇村村誌・民俗編』(近刊予定) 岩本康隆「奥飛騨の鎌倉道考察」(高原郷土研究会『ふるさとロマン高原郷』2、 1990刊) 服部祐雄『過ぎし日々の記録』 富山県教育委員会『富山県歴史の道調査報告書ー立山道ー』(1981年) 同『富山県歴史の道調査報告書ー飛騨街道(その1)』(1979年) 『和田村村誌』(1977年刊) 『上宝村誌』(1943年刊、84年復刻) 服部英雄「鎌倉街道・再発見」『歴史と地理』469、(1994年) 鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』(1977年) 飯田辰彦『有峰物語』(NTT出版) 追記;神岡町の調査に際して、同町教育委員会大平愛子氏のご協力を得た。記し て感謝したい。      


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