二つのザラ峠(序)   ---天正十二年、佐々成政は本当に厳冬期の針ノ木峠を越えたのか----

『岳人』1997年1月号86-92頁

                                    服部英雄       (1)佐々成政に冬の黒部横断は可能だったのか  厳冬期の北アルプスを戦国大名佐々成政が横断したという話は、山好きな人な ら誰でも知っていよう。天正十二年(1584)越中富山の城主であった成政は、 反羽柴(豊臣)秀吉の立場をとった。ために西は加賀の領主で秀吉の無二の親友 前田利家に、東は信長時代から反目していた越後の上杉景勝に、と包囲されてい た。小牧長久手の合戦までは遠江浜松の徳川家康と組むことによって、その地位 を保ちえたが、十一月半ばの思いもかけぬ秀吉と家康の和議によって、孤立無援 の立場に追い込まれた。次に攻められるのは確実に自分だ。春、雪解けを待つ時 間はない。思いつめた彼が考えたこと。それは盟友と信じていた徳川家康に再度、 反秀吉の兵を挙げよと促すことだった。会って説得すれば、なんとかなる。冬の 立山連峰のザラ峠を越えて黒部川の谷に下り、針ノ木峠を越えるという大走破を なし遂げて、信州から浜松まで往復したという壮大な話である。私は子どもの時 に何かの読み物でこの話を読んだ記憶がある。ザラ峠の黒百合、といった題だっ たか。子供心にも印象深い話だった。  このできごとは『大閤記(太閤記)』など古くからの書物に記されている。古 文献に「さら々々越」「更々越」「砂良々々越」などと表記されるこの峠は、 「ザラザラ越」と読んだと考えられ、立山連峰のザラ峠を指すとされている。た だし冬の針ノ木越えはあまりに険しい。だから既に江戸時代より一部から疑義が あるとされていた。だが学問の世界も含め、一般的には広く歴史事実として認め られている。 -----------------------以下省略 *おことわり051230 岳人に掲載した本文をこれまでHP公開してきましたが、 初版の事情により中止します。近刊予定の著書をご覧ください。


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