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河原ノ者・非人・秀吉

読売新聞8月22日朝刊 「論証不能のテーマ」九州大学教授が分析 「豊臣秀頼は非実子」提唱 *秀頼に関する記述はこの図書全711頁のうち78頁です。 ―――――――――――――――――――――――――――――・ 以下は http://blog.livedoor.jp/sho923utg/archives/51733088.html より 秀頼は秀吉の実子ではない! 豊臣秀頼は秀吉の実の子ではないー俗説としてよく知られているこのテ ーマに服部英雄・九大教授が新著『河原ノ者・非人・秀吉』で迫った。 以下読売新聞「豊臣秀頼は非実子提唱」より。 秀吉は多くの妻妾を持ちながら子どもには恵まれなかった。 50歳を超えて側室の茶々との間に早世した鶴松、次いで秀頼を授かっ た。 秀頼については早くも江戸時代に、実父は大坂の陣で母子に殉じた 家臣の大野治長だとする説が広まった。作家の司馬遼太郎や遠藤周作 も非実子説に言及している。 しかし、これらは臆説や俗説の域を出ていなかった。 そこで服部教授は、秀頼の誕生である1593年8月3日から逆算し、受胎 が想定される前年の11月4日前後に秀吉と茶々が同衾した可能性を検 討した。 秀吉は1592年10月1日に朝鮮出兵の基地・名護屋に向けて大坂城をた ち、1593年8月まで滞在した。 秀吉の子を宿したとすれば茶々も同行していなければならない。 その根拠とされてきたのは、名護屋に従軍していた平塚滝俊の日記に ある「茶々が同行しているらしい」という記述だった。 しかし、ほかの多くの史料を検討した結果、茶々の名護屋滞在を示すも のはなかった。 名護屋には側室・京極龍子が滞在したことははっきりしており、服部教 授は「平塚の日記は龍子を茶々と誤認したもの」と結論づけた。 秀吉は茶々懐妊の1593年5 月22日、正室の北政所に、「太閤の子は鶴 松のみ。今度生まれる子は茶々ひとりの子でよいだろう」と書き送った。 正室への遠慮などから喜びを押し隠した文面と解釈されてきたが、不可 解な記述だ。 服部教授は「秀吉や北政所も解任の不自然さに気が付いていた」と読み 解く。 さらに秀頼誕生後の1593年10月、大坂城の大勢の女房や仏僧が秀吉 の命令で処刑・追放された。 公卿日記『時慶記』は、「妄ニ男女ト之義」が問題にされ「御成敗」された 記している。 この処分は単なる風紀の乱れではなく、茶々と側近が僧などに金銀を与 え、「子授けの祈祷」を行ったことによる。 「こうした祈祷が宗教者による茶々への性行為だったのではないか。大 坂に戻った秀吉は茶々懐妊の真相を知って激怒したのだろう」と服部教 授は推測する。 それではなぜ秀吉は茶々を許し、秀頼を実子として認めたのか。 「茶々はかつての主君、織田信長の姪。織田家の覇権を簒奪した秀吉にとって、自らを正 当化するためにも、茶々が子を産むことは望ましかった」と解釈する。 これまで歴史学界では、秀吉が秀頼を実子と認めている以上、血のつながりにはあまりこ だわってこなかった。しかし、秀頼が秀吉の実子でないとすれば、史実の解釈に重大に影 響を与える。 秀頼の誕生が、秀吉の後継者だった関白秀次の失脚・自刃につながったとされる定説や、 関ヶ原の合戦で秀吉子飼いの多くの武将が東軍についた理由についても、「背景に秀頼出生 の正当性に対する疑惑があった」という視点で再検討されるべきだと服部教授は主張して いる。


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