目次/山内町宮野:大砂古/下黒髪/上原(ウワバル)/白岳
佐賀県杵島郡山内町宮野おおさこ大砂古における現地調査 安田文彦 三代達也 <藤崎ワカエさんからの聞き取り調査より> 1 しこ名2 について 村の名前 しこ名(カタカナ)一覧 大砂古 田畑 小字大砂古のうちに ウシノクビ(牛の首)、ドンデンビラ カンマイダ(神前田、神待田) トウゲンサキ、ヤマンカミ コウガシラ(甲頭)、アントウ シモヒラ、ヒガシンタニ、 ヒガシンツジ、ミズアライ(水荒)、コサコ(小砂古)、ヌゲ、フタツエダ、フジンタニ、 ナカンコバ(中古場) しこ名とは、仕事をはじめとする日常生活の様様な営みの中で便宜的に使われているその 土地特有の地名である。今回、聞き取り調査を行った結果、16個のしこ名を見つけること が出来た。これらのほとんどは由来がはっきりしていなかったが、ウシノクビ(牛の首)に ついては伝説が残っていたので以下に記しておく。 ウシノクビ(牛の首)の由来、、、、、昔黒髪山にいた大蛇を退治したとき、うろこがひ とつある牛に付着した。このうろこがあまりに重いので、牛はある峠で鳴いた。そして、 更に歩いたが重さのためある場所でとうとう首が取れてしまった。 現在では、牛の鳴いた峠は「ナキウシトウゲ」、牛の首が取れた場所を「ウシノクビ」と呼ん でいるということだ。 3 村の耕地について 大砂古の田は全体的に見て良田が多かった。その中でも特に収穫の多かったのが、「ドウデ ンビラ」という一等田であり、税金も相応に高かった。以前は、「トウゲンサキ」という、 大砂古から少し離れた場所であも稲作が行われていたが今では荒地となってしまっている。 大砂古では以前牛の糞などを肥料として使っていた。今では、化学肥料が主に使われるよ うになった。藤崎さんは、様様な名前のついた化学肥料の流入に多少混乱しているとおっ しゃっていた。 4 村の発達について 大砂古に電気が来たのは、大正7年、ガスが来たのは戦後であった。電気が来たのは、ほか の村と比べても早いほうだったらしい。電気やガスがくる前は、当然薪を使っていた。薪 は倒してから一年待って乾燥させなければ使えない、ということを教わった。藤崎さんの 家では、今でも薪を使って風呂を沸かしているそうだ。薪は裏にある山から取ってきてい るそうだ。以前は水道がなかったため水くみにもいかねばならず、大変だったとおっしゃ っていた。 薪に関連して、林業の可能性を尋ねたところ、運搬の困難さとコスト、そして外国材の 輸入を考えると、林業を行うのは困難だということだった。 大砂古を歩いていると、街灯がないことに気づいたので、田やため池に落ちたりしない か尋ねてみた。すると、村の道については慣れているからめったに落ちることはないとの 答えが返ってきた。経験のなせる技だなと思わず感心してしまった。おそらく電気のなか ったときも、その不自由さを経験の蓄積によって解消していたのだろう。 5 米の保存について 大砂古には、昔「協同組合」という組織があった。これが農協に発展したとのことだっ た。さて、米は収穫されると「協同組合」に持って行かれた。そこで他の人が持ってきた米 といっしょに保存された。保存方法についてはあまり考慮されておらず、6~8月にかけて の湿気の多い季節には虫が米に付き大変だったらしい。また、ねずみも当然のごとく現れ、 ずいぶんの被害に遭ったらしい。 今では、冷凍によって保存される方法が用いられており米については被害の心配は少な くなった。(冷凍することで米の味は多少落ちるらしいが)しかし、最近になって、農業を 行っている人々の頭を悩ませる新たな問題が浮上しているそうである。 その問題の主はイノシシである。山に餌がなくなったのかどうか知らないが、ふもとに下 りてきてせっかく収穫した琉球いもや赤サトイモを食べてしまうらしい今のところ人間に 危害は加えていないが、被害額が場合によっては6万円にもにものぼり困っているとおっ しゃっていた。 この話しをしている時に冗談めかして「まさか熊は出ないでしょう?」と尋ねたた。すると、 「熊は出ないがそれに似たムジナという動物のコドモの死体が見つかったことはある。」と いう答が返ってきて意外な答に苦笑してしまった。 6 昔の食事 昔は米と麦を混ぜて食べていたらしいが、どのくらいの割合で混ぜていたのだろうか。 米と麦の割合は戦前と戦後とで違ったそうだ。 <戦前> 米:麦=7:3 <戦後> 米:麦=6:4 戦前はごく普通の平隠な生活を送っていたが、戦争で一変したとおっしゃられた。戦争中 はずいぶんと搾取があったため上記の割合で炊いたご飯を大根をおかずにして食べていた 時期もあったそうだ。戦争の愚かさに怒りを覚えずにいられなかった。 稗や粟について、食べていたかどうかたずねると、稗を食べることはなかったが、粟は 「もちあわ」といってお菓子のようにして食べていたということだった。 魚介類については行商が伊万里から赤田をとおって売りに来ていたということだった。今 では高価なものになったイワシを箱単位で買い、自分たちで干物を作ったりして食べてい たそうである。 また、蕎麦も作ったことがあるという話があった。蕎麦は精製する日が協同組合の中で決 まっていたそうだ。蕎麦は特別なものであったことがうかがえる。 7 村の動物 馬は昔一頭いたくらいで大砂古ではそんなに必要とされていなかったようである。牛に関 しては今では減ってしまったものの、昔は各家10~30頭くらい飼っており、人より牛の 方が多いくらいだったそうだ。牛は主に肥育したり子供を育てたりして売ったそうである。 先にも述べたが牛は減少の傾向にあり現在は、ウシノクビに牛舎があるくらいでほかはほ とんどその名残を残していない。 動物に関連して博労がいたかどうかを尋ねてみた。 大砂古にはいないが他の村にはいて主に牛や馬の交換をしてもうけていたという答が返っ てきた。大砂古では「ばくりゅうさん」と呼ばれ大分親しまれていたようだ。様様な場所 で売買を行っていたのだから親しまれるのもわかるような気がする。しかしながら、売買 にはバクチ的要素も含まれていたようだ。ちなみに、今でも「ばくりゅうさん」はいる。 8 昔の若者について T―未成年時 未成年のときの遊びにはまりつき、ゴムとび、じゅん竹、シイのみとり、木登り、鬼 ごっこ木と木の間に自分でつくったブランコなどがあった。藤崎さん自身もかなりのおて んばだったらしい。今の子供が外に出て遊びたがらないのに比べて昔はかなり活動的だと 思った。 じゅん竹…・小さく棒状に切った竹を12本用意する。数字を片面に書きその面を伏せ、 相手がその数字をあてるというゲーム。 U―青年時 大砂古には今はなき「青年クラブ」という集団があって現在の公民館の近くに8畳くらいの 囲炉裏のある建物がありそこで酒を酌み交わしたりしていた。そこでの出来事はあまり公 にされなかったともおっしゃっていた。力石などの遊びはなかったということである。 また、この地域ではほかの村から来た若者たちを妨害するということはなく。極めて友好 的であったらしい。恋人を作る方法は今も昔も変わらないと藤崎さんはおっしゃっていた。 9 これからの村について。 藤崎さんは「村の若い人はどんどん村を離れていってしまっているという現状は否定しえな いが、今の村の状態がずっと続いて欲しいと思っている。」とおっしゃっていた。この自然 体の表われているコメントには心を動かされた。 <丸田富馬さんからの聞き取り調査> 現地に到着して、食事時が過ぎるのを待っていたとき、偶然丸田さんに出会った。丸田さ んにはトラックである神社につれていっていただき、かつ歴史の一端を語っていただいた。 そこで教えていただいた事を以下に記す。 案内していただいた神社は八坂神社といって、この土地では「ぎおんさん」と呼ばれている 神社であった。この神社は黒髪山にある黒髪神社から分家したものであるということだっ た。この地域の人は皆夏祭りや初詣はぎおんさんに参っていると言う事であった。夏祭り は毎年村の人たちで農道の草刈をした後、ぎおんさんに参り祈願をするそうだ。昔はその あと神社内で酒を飲む宴が始まっていたらしいが、今は公民館で飲んでいるそうだ。百年 を超える歴史を持つ神社だけに歴史を感じさせる構えになっていた。堂内は数年前に寄付 によって新しくなっていたがその隣のお地蔵様は昔のままで、歴史を感じさせるオーラの ようなものが感じさせられた。丸田さんには、偶然声をかけていただいたにも関わらず、 そのあと6月の大雨で被害があまりなかったことや大砂古で一番古い家がどこでどういう 人がすんでいるのかなども教えていただいた。 今回大砂古を調査するにいたって、多大な協力をしていただいた、藤崎ワカエさん、藤崎 勝行さん、丸田富馬さん、どうもありがとうございました。拙い文章ながらも教えていた だいたことを基に大砂古の歴史の一端を私達なりにまとめあげさせていただきました。記 録違い、聞き取り違いにより間違いがあるかもしれませんので、もしお気づきの点があり ましたら是非ご指摘下さい。本当に有難うございました。大砂古の皆さんがこれからも健 やかでご活躍される事を願っております。 調査日 1999年7月11日 調査地 佐賀県杵島郡山内町上原(ウワバル) 話者 山下 繁秋氏(S.22生まれ) 山下 アサノ氏(T.9生まれ) 調査者:竹俣 佳世子 藤 良江 (しこ名)一覧 区分 小字名 小名(しこ名) 小名の由来 田 上原 イデグチ(井手口) 井手の近くなので 田 上原 ウワバルチャーバー(上原チャーバー) 上原にあるチャーバーなので。 田 上原 カイショク(刈食) 稲を刈っても夜食にするくらいしかあまりとれない田 田 上原 カワラヤンウラ(瓦屋裏) 家の裏にある 田 上原 ヤシキ(屋敷) 家の近くなので 田 上原 タナ(棚) 家より標高が高い場所にあるので(=棚田) 上原 ガンジョク 上原 ハカワラ(墓原) 墓がたくさんあった場所なので。(**) 田 上原 ヨシンモト 上原 ヨシンモトの谷 森林 上原 ヨシンモトの山 田 小路 クウジチャーバー(小路チャーバー(田原?広手?)) 小路にあるチャーバー(*)なので。 田 鴻ノ巣・網ノ内 ムカイミチ(迎道) 家から見て道のむこう 地域 白岳 シラタケ(白岳) 山 太平・網ノ内 タンコウ(炭坑) 昔炭坑だった山 地域 白岳・鴻ノ巣 クウノス(鴻ノ巣) 田 網ノ内 カミアリャー(神洗?) 川に井手があったところ 畑 カイコンチ(開墾地) 山を開墾して畑にした場所なので 森林 白岳 ハギワラ(萩原) 森林 白岳 ナガオ(長尾?) アゼミチ(あぜ道) ミズバン(水番?)さんが通る。 * チャーバー:民家はなく、田しかない広い場所のこと。 コゼマチ(小畝マチ)=小さい区画の田んなか。 ウゼマチ(大畝マチ)=大きい区画の田んなか。 ** 昔、土葬をしていたときは、地蔵さんのところで葬式をしていた(今は納骨堂)。 水路・道には特に名称はなかった。 田について 田の種類・土質 田は基本的に乾田で、上原チャーバー、小路チャーバーには麦・ナタネを必ず植えていた。 現在は麦の値段の下落などで作っていない。 ヤマダ(山田)やカイショクなどはふけた(土質がゆるい)所(湿田)である。 特にカイショクは土が牛の腹までつくほど土質がゆるかった。 良田はクウジチャーバーとカミバルチャーバーで、クウジチャーバーは6-7俵取れていた。 クウジチャーバーは水路も近く一番の良田だったと。カミバルチャーバーは次点といった ところでクウジチャーバーと比較して干ばつもあっていたし、がんぱす(地味が悪い)で あった。一方カイショクは名前の由来の通り悪田だったようである。 飼っていた動物・その取引について 97%の農家では牛を飼っていた。牛はメスのほうが扱いやすいということで中心だったよ うである。オスはツノでつかれるため、敬遠されていたようである。残りの3%の農家では 馬を飼っていた。馬を持っている人は馬車ふきを持っている人であった。 昔は金がなかったのでさばける大きい牛を半分しかさばけない子牛と交換し金を得ていた。 昭和10年くらいまで牛を使っていたようである。 村にはバクリュウと呼ばれる牛換え人がおり、買う人と牛を持っている人の交渉の仲介役 をしていた。バクリュウは宮野地区に4-5人いた。 干ばつ時の対処や米・田の取引について 干ばつのときは黒髪山で雨乞いをしていた。山頂に天童岩があり、三日三晩フウリュウ (金属の太鼓)をたたいて祈願していた。青田売りはお金がない人がやっていた。アナナ イ教(宗教)がはやったころ、青田売りがはやった。また、田をそれほど持っていないも のは田をたくさん持っている人の田を作ったりしていた。米は農協に渡すようになる前は 米商売人の人に渡していた。米商売人は宮野地区に2-3人いた。 その他 石 ホトケイシ(仏石) (↓下の写真参照) 橋 網ノ内 サヤンガミ橋(道祖神橋) サヤン神をまつっている橋 ムラの祭り 名称 行われる時期・内容など ヒガンゴモイ(リ) 秋のお彼岸の中日(9/21)に行われる。 タキトウ(田祈祷) 田植え後の一息ついた後に行われる。 クンチ 黒髪神社の秋祭り。 ショウコンサイ(招魂祭) 戦死者のお祭り。 住吉村のときにあっていた(***)。 ギオン(祗園) 黒髪神社の夏祭り。若者による芝居や踊りがあった。団子を200-300個作 ってふるまっていた。 トウロウガケ 地蔵・観音様の祭り。 祭りはここの地区にいわゆる同和地区がなかったために基本的に全員参加であった。 *** 昔、JR佐世保線あたりを境に住吉村(すみよしそん)、中通村(なかどおりそん) であったものを昭和30年ごろ合併し山内村となる。その後山内町となった。 参考≫ 黒髪神社の流鏑馬神事の由来 若者の過ごし方 若者は大正〜昭和初期は貧しかったのと出稼ぎが絶対なかったため、夜は縄ないやムシロ などのわら工品をつくるため2時間くらい夜なべをしていた。 青年は公民館に寝泊りしてしゃべり、女は25歳までは女子青年団にはいり、1ヶ月に何回 か午後から修養(学校から先生を呼んで話を聞いたり習い事)をしていた。これにはいら ないと世間知らずになった。男は青年団にはいった。 電気・ガス・テレビについて 電気は大正12年くらいには来ていたのではないかということである。小さいころはランプ を使用しており、ホヤ掃除をしていた。 ガスは昭和35年頃にはあって、テレビは昭和39年前は1部落に1コくらいあった。 昭和39年に全国的に東京オリンピックがあったためテレビが普及したのに併せ普及した。 ガスを使用する前は薪を使用していたということで、薪は自分の山を持つ人は自分の山よ り、自分の山のない人はもっている人の山から下ばらいをしてお願いしていた。 おもに萩原やヨシンモト、ナガオの山で薪をとっていた。 ムラのこれから まず後継者が心配だという事。中にはあきらめている方もいらっしゃるとの事。 今、老後に農村で農業をして暮らす人がいるが、そうではなく若者が世帯もちになったら 農業をやってほしいと言っておられました。つまり、“趣味”としての農業ではなく、“ 職業”として農業をやっていってほしいという事だと思います。 またそのようなことを実現するために、今の青年が農業にあこがれるような政策をしてい ってほしいと最後に言われました。 一日の行動記録 09:00 大学(六本松キャンパス)集合。 09:15 大学出発。 11:40 山内町上原に到着。 お昼に重なるので神社で軽食をとる。 12:00 山内繁秋さん宅へ伺い、調査開始。 14:45 聞き取り終了。 ほかに詳しい方を紹介していただき電話を入れてもらうが不在。 上原地区を散策。ホトケイシやサヤンガミ橋、黒髪神社などを訪れる。 16:00 山内町出発。 18:40頃 六本松到着。解散。 現地調査を行っての感想 今回訪れた山内町上原が私にとっては3回目の現地調査だった。今まで言った中で近代的 すぎず、田舎すぎず、一番きれいな景色だったのが上原だ。 聞き取り調査が終わって時間が余ったので田圃道を歩いてみたりして、久しぶりにゆった りとして時間を過ごす事ができた。 調査に協力してくださった山下さんのお話でしこ名を知っている人は他にはほとんどいな いそうだ。しこ名を知っている貴重な人に出会えて、記録に残す事ができてとてもうれし く思った。 【竹俣佳世子】 山内町を訪れてまず自分が思ったことは、山と田が創り出す景色がとてもきれいだったと いう事である。これがいわゆる田園風景なのだなぁと思った。 日頃あまりない緑に囲まれた環境を散策でき、ストレスが和らぎ良かった。 今回お話を伺って、都会に出ていく田舎の若者・田舎を農業という産業で活性化させたい 年配者・趣味として農業をやろうとするが若いうちはあくまで都会で働く都会の人達と人 々の思惑はうまく一致しないもどかしさを感じた。 人々の思惑を一致させるためには農村の魅力を都会の者に伝えるだけではなく、その生活 の良い面・悪い面を伝えつつ、作物を生産する喜び、楽しさを伝えなければならないと思 った。 【藤 良江】 佐賀県杵島郡山内町下黒髪についての報告 東山陽介と林康広は、7月11日に山内町下黒髪にしこ名の調査にいきました。そこで、私 たちは、単に授業の一環としての調査の域を越えた、御古老たちの人間力に触れることが できました。 当日は、バスの道中は、小雨模様でしたが、現地入りするころには雨も止み、順調に調 査を開始できました。わたしたちは、アポを13時にとっていたのですが、11時30分につき、 とりあえず広場で昼食を食べました。広場からは山が一望でき、たまにこうゆうところに 来るのもいいものだな、と思い、2人で感激しあっていました。 しかし、いかんせん時間が早すぎました。どうしようかと思っていると、広場の裏の畑 で農作業している方がいたので、思い切って声をかけました。そのかたは、作業をしなが ら、私たちの質問に答えてくださいました。 お話してくださったのは、坂口ちよさん(大正10年生)。 残念なことにちよさんは、しこ名のことについては、ご存知ではありませんでした。主 に、祭り、農業形態、村の生活についてかなり詳しく話していただけました。 <祭り> 夏祭 8月1日 黒尾神社 たての河内 8月20日 八幡神社 大野の天神 8月24日 黒尾神社 浮竜 9月23日 流鏑馬 10月29日 特に、浮竜が、重要な祭りのようです。太鼓をたたいて踊るのだそうですが、伝統のある 祭りだそうです。 かつては、隣の村の大野といったりきたりで、芝居や踊りをしていました。そして、お 土産にだんごを作って持っていきました。そのだんごというのは、‘がんびゃ’(方言: サルトリイバラ)で包む、柏餅のようなものです。いまでは、だんごを作ることも少なく、 買って済ませているそうです。 また、これらの祭りは、かつては、青年団を中心に盛大なイベントでありましたが、今 は、若者がいないこともあり、規模も小さくなりました。寂しそうに話されました。 <村の歴史> 住吉城の落人が移り住みました。 黒堂橋から白岳山にかけての地域(黒髪地区)には、その落人の姓“坂口”さんが多いの です。 <村の農業形態> 14,5年前に、圃場整備が行われ、形態は大きく変わりました。 機械を導入できるようになったことが最大の変化です。そして、その圃場整備のときに、 村の水路も小さな溝が大きくなりました。 ちなみにちよさん一家は機械を導入したのは、つい6、7年前のことだそうです。 今、かつて米を作っていた田ん中で、ちよさんは、大豆を作っていました。(転作) 減反政策によるものです。米も作っておられるのですが、自給こそしているものの、売っ たりはしていないそうです。そんなにたくさん収穫できないのです。 私は農業に不適切かもしれないと思いながら“商売あがったりだ。”と感じました。 正直なところ、米を作りたいそうです。(失礼を承知で、米を作りたいのかたずねたとこ ろ、いやな顔一つせずに答えていただけました。)米を作りたい理由は、何と単純、らく だから、だそうです。そんなことまで気さくに話していただき、本当に感謝しています。 先に少し触れましたが、黒髪地区は、白岳山のふもとにあります。 その山の斜面を利用して、“谷田”を作っていました。谷田とは、私たちが、言うところ の棚田のことです。 山の斜面ですから、作業は、大変です。従って、動物の力を利用しました。 昭和40年ころまでは、谷田に牛を入れていました。機械は、入らなかったそうです。牛 は、一家に一頭はいたそうです。現に、私たちは、黒髪地区で牛を見ました。 ちなみに、ちよさんの飼っていた牛の名前は“みささ”です。 そして、農学部である私たちは、農薬のことも伺いました。これからの私たちの参考、 いや、それ以上のものになるかもしれない生の意見だからです。 ちよさん方では、消毒するのは、たったの二回だけです。その消毒たるや、強力なものら しいです。ほとんど、虫のつくことはないそうです。(昔との比較による)そんな今の農薬 をちよさんは怖いとおっしゃいました。 また、農薬とは、直接の関係はありませんが、ダイオキシン問題も気になっています。 むらの家では、たいていのものを自分の家で焼却していました。有害物質を出すナイロン 類などもです。しかし、昨今の環境問題に関する報道、情報は農村にも浸透しています。 燃やすときに考えるようのなったそうえです。洗剤にも気を配っているとのことです。 昔はたてのつながりがあったなー、ということをしきりに言っておられました。魚とか を‘お兄さん’の指示に従い捕まえたり、みんなで山に虫を採りに行ったりしていたそう です。そういうことも今は少ないようです。 ちよさんは途中でわたしたちのいるあぜのほうへやってこられ、世間話を含め約1時間 くらいお話していてだけました。最初にこんなにいい人にあたり、わたしたちは相当つい ている、と思いました。 ちよさんにお話を伺った後、私たちはアポをとっていた吉田茂信さん方へ向かいまし た。しかし茂信さんは、古老というにはあまりに若かったのです。しかし、古老の方を紹 介していただきました。 その古老の家に向かう途中、今度は、偶然役場で働く方に出会い、お話をうかがう事が できました。坂口竹春さんです。しかし、私たちが、役場に残っていないような情報がほ しい、という旨を伝えると、区長さんの家に連れていって下しました。区長さんは、相当 この村の歴史関係に強いとのことでした。校長先生をしておられるそうです。竹春さんの 軽四のうしろにのっかり、すっかりワイルドな気分で、区長さんの家に着きました。が、 留守でした。よし、今度はお寺の住職を紹介してやろうと、無動院に連れていっていただ きました。しかしそこでも、御古老は不在でした。そこで幸運にも、その家のお姉さんに、 違う御古老を紹介していただき、連絡までしていただきました。 その方が、坂口兼二さんです。(大正14年生) 兼二さんは、地図などの資料をたくさんお持ちで、この人なら、と思いました。しかしい くら尋ねても、“私たちは字名で呼んでいるよ”とお答えになるのみでした。 <村の生活> 〜塩について〜 終戦後一時は、伊万里に薪を持って、リヤカーを引いて作りに行っていたそうです。 〜電気、ガス〜 昭和30年頃テレビがきたそうです。 ガスは、昭和40年頃きました。 兼二さん方では、風呂は今でも薪だそうです。 <村の歴史> 戦前は、古賀さんという一家の2軒(本家と分家)が地区の土地の3分の2を所有して いました。地主だったのです。当然、小作の人取り分は少なく、しかも、いい米を古賀さ んに送らなければならなかったそうです。そして、圧力を受け、苦しかった。損をして いました。 しかし、戦後は、開放政策により、土地は、平等に分配されました。したがって、自分 の思うままに、農業を営むことができるようになりました。取り分は自分のものになるわ けですし、やればやっただけ自分の収益になるから、意欲も湧いてきました。 また、昭和37年ころまでは、有田の焼き物工場に出稼ぎにいっていました。それも、 自転車で! 昭和29,40年に、それぞれ洪水がありました。死者も出たそうです。 そういうわけで、川がだめになってしまいました。その時、発電所から水をあげてまいて、 乗り切ったそうです。 基本的に、黒髪地区では、自然の水(川、池)を利用し、農業をされるそうです。よそ の地区では、ポンプで水をくみあげているところもあるそうです。 <村の農業のこれから> 兼二さんの若かりしころは、汗水たらして働きました。しかも、前述の土地の歴史的な 背景もあって、土地を先祖代代のものとして非常に特別な思い入れを持ってみておられま した。村のどこの農家もその思いは同じだっただろうといいます。 しかし、今の若い人はどんどん土地を離れていきます。そして、先人たちの護ってきた 土地を大切にしているようには思えない。そう感じておられます。 結論として、兼二さんがおっしゃるには、圧倒的に少ない人数で、田畑で仕事するだろ う、ということです。現在、30ちょうの土地を60人近くの人が、農作業しています。 しかし、遅かれ早かれ、この土地を5,6人でやっていくことになるだろう、むしろそう しないと無理だと言っておられました。兼業ではちょっとやっていけない、ということで す。子供たちがすることもないだろうと、残念そうに言っていました。 兼二さんは、この話をされたときが1番熱かったと思います。その口ぶりからは、村の 将来を危惧することが、伝わってきました。それだけ自分の村を、先祖代代の土地を愛し ているんだな、と思いました。村の祭りについては、先のちよさんとほぼ同内容でした。 兼二さんは、かなり多岐にわたっての物知りでおられ、非常にためになるお話を私たち にしていただきました。 結局、私たちは、しこ名についての返答を得ることはできませんでした。兼二さんでさ えご存知でなかったのは意外でした。しかし、村の生活については、成果を上げることが できたと思っております。今回の調査で、今までとは違った視点から物事を考える時間が 持てました。プラスになったと思います。 “先生は教壇の上だけにいるのではない”と言う服部先生の言葉もよく理解できました。 と同時に、私たちにかかる期待と不安を感じました。私たちは、この体験を生かし、参考 にして、(特に私たち2人は農学部という農村とはつながりのある部署にいるわけですか ら、)役立てていくべきだと感じました。 村の人たちが本当にいい人ばかりで調査をしていて楽しかったです。感謝しています。あ りがとうございました。 東山陽介 林康広 調査日時:99年7月11日 白岳 子字名 ヒエダ ハガシラ ハッタンダ ヤマテ オンダラ コイデ サイヤサン 村の範囲 (地図参照) 村の耕地 (地図参照) 村の発達 電気:明治 テレビ:昭和29年ごろ、東京オリンピックのころ 力道山や相撲を見た ガス:電気よりも遅く 石油こんろが嫁入り道具だった。石油は高かったので、灯油をよく農協に買いに 行った。 ガソリンは高かったので、点火剤にのみ使い灯油を燃料にした。ガソリンは輝圧 油とよばれた。 水道:飲料水は井戸からとった 一家に一つあった 現在も使用可能 用水路に特に名前はなかった 村の生活に必要な土地 入り会い山・・・白岳にはなかったがあった。 薪は山から手に入れていた。誰かから買うことはなかった。たきもん 小屋に保存した。夏は忙しいので暇な冬にたくさんとりにいった。 村の動物 各家、牛一匹、馬一匹、どちらか持っていた。 両方もっている家もあった。 農作業では牛、農作物の輸送用には馬をつかっていた。他の家のものも運んでやってい た。 仲買人は白岳にはいなかったが他の村にはいた。それも今は年をとっていなくなった。 子牛のころから育て、やっとしつけが済んだと思ったら、博労が来て交換しようといっ てくる。そうするとまたしつけをしなくてはいけない。 村の道、古賀道(不明) 村の祭 若者がいなくなって、7年くらいまえに青年団が解散した。 サイヤサンの祭(夏祭り、9月):青年団が主になってやっていたがもうできなくなっ た。しかたなく消防団がその後やっていたが、一昨 年までで、去年はやらなかった。しかし、村の話し 合いで今年はすることになった。やはり櫓を組んだ りしなくてはいけないので若者が必要である。 八幡神社:年に一回の豊作祝い 観音様:彼岸ごもりといって建物の中にこもって祈った 村の若者 相撲をしていた。(昭和37年頃まで) 夜、女と水泳などをして遊んでいた 夜も仕事があり、わらうちやむしろうちなどをした。 花札。賭はしたが、お金ではない。 話を伺った方 坂口輝馬(昭和10年生)