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L科1年3組1LT97125P 平尾文子 1LT97168P 山本幸恵

養母田・鬼塚周辺における調査

午前10時現地到着。 午前10時30分鬼塚地区公民館において、田辺さん(もと公民館長、67歳)に、かつての鬼塚村について、お話を聞く。 午前11時30分 田辺さんに井出、大谷川トンネルを案内していただく。 午後1時 田辺さんの招介で、峰さん(80歳)、宅を訪問。しこ名につ いて教えていただく。 午後2時 峰さん宅退去。以上で調査を終了する。                         私達の訪問先は、養母田(やぶだ)だった。もともとは、薮田だったが、明治になって漢字 を改める際に、神崎の養父と間達えないように、養母にしたそうだ。詳しくは、 資料1を見ていただきたいが、昔は、鬼塚、養母田、山田、千々賀、畑島、石志、橋本 山本、を併せて鬼塚村といったそうだ。この村名にも、次のような由来がある。 昔、きしたけ城に、孤角という、3000人にも及ぶ盗賊達がいた。朝廷 の命を受けて、討伐にあたったのが渡辺久(源頼光の曾孫)であった。渡 辺久に攻められた孤角は、津留で川に飛び込んだが捕らえられ、首を切ら 首を埋めた塚がつくられたことで、鬼塚という地名がついたそうだ この"鬼"は、悪者、恐ろしいもの、の意である。それを嫌って、今では 神霊など、全く逆の、良い意味で使うようにしているそうだ。 他に伝説等がないか尋ねてみたが、他にはないらしい。 農業他の職業について                    ゝ・ 鬼塚は宿場町だったので、旅籠が多かった。肥前屋夕日屋、餅屋、豊後屋 である。他の店といえば、こうじ屋、酒屋、油屋くらいだった。農業はどうかというと1 反あたり、良くて8俵、悪くて4俵だった。田が山間部にあり、冷たい湧き水を使用すると、 どうしてもできが悪かったらしい。また30坪から1俵とれることを畝出来(せでけ)といった。 田は主に湿田で、乾田は種米を失わないようにといった程度のものだったそうだ。 水について 水不足対策として、山上に溜め池をつくった。井出をつくって川の水をせきとめ、田 に水を引いた。その周辺の人たちは、田から田へ水を伝えた。段々畑になってるのでそ れも可能だった.井出は実際に見てきたが、昔の人の知恵に驚かされた。川は共同所有 だったので、水争いはあったそうだ。普段は、ある程度水を取ったら下流の村桃に水を流 していたが、そんなことをしていたら、白分の田に水が入らない。だから川をせきとめ る。だが下流はもっと困る。そこで夜中にせきを壊しにいく。上流は寝ずの番をする。 すがまたと山田の水争いが、最たるものだったらしい。もし、3年前のような水不足が あったら、まちがいなく水争いはおこっていただろうというお話だった。  大谷川トンネルという、全100メーートルの水路がある。これは明治時代に、洪水 を防ぐためにつくられた。しっかりしたつくりで、改修工事はしていないようだった。 入会地 牛など家畜の餌にする草をとるために、草刈り場があったが、そこが入会地だったそ うだ。家畜をうしなえば農業に支障があるから、当然かもしれない。他に入会地はなか ったらしい。 地名について 一応条里制が存在したらしく、一の坪、大坪などがそのなごりらしい。また、土地 じたいが方形ではないため、余る部分がでてくる。そこをあまり=あまぎ=甘木と呼ん だ。千々賀という土地は昔湿地だっただ。千々に、ぬかるみという意昧があるそうだ。 行事等について 数十年前までは、道路もだいぶせまかったらしいが、位置は変わらないようだ。開け たのは比較的最近だ。数十年前、メイン道路を往還道路と呼び、月に一度まわって掃除 をした。ゴミを捨てる人もいなかったそうだが、今は車からの投げ捨てが多いそうだ。 現地周辺の人は神道が多いようで、祇園社や天神様の氏子さんが多いらしい。他に権現 様もお祭りしていて、村祭りもそれに関したものらしい。 しこ名について  しこ名は田についてしか分からなかった。一覧は次ペ−ジに記載してある しこ名一覧 1カドンマエ モンノマエ 門ノ前 2クボタ 久保田 3サンダタ 三反田 4シイノシタ 椎ノ下 5ソノダ 其田    テツドウノカゲl 6ドイノウチ 土井内 7ナナツイ 七ッ井 8ハスダ 蓮田 9ヒガシ 東 10マエダ 前田 11 ミゾシリ 溝尻 12 ミヤノシタ 宮ノ下 13 ヤナギヅエ(まま、正しくはヤナギソエか) 柳添 済 てつどうのかげは、資料の黄線部分(5)のことを別名として呼んでいだそうである。

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