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秀吉が築いた城ー倭城ー

                 

                                                    

 目次 1倭城とは

 2日韓における倭城研究史と問題点

 3倭城研究最前線

 

 

1倭城とは

  
熊川倭城から。海に続く石塁。2010年この海はなくなった。

 山の頂から海に向かってのびる石壁。一見あたかも万里の長城を思わせる壮大な遺構である。
倭城、即ち文禄・慶長の役、韓国においては壬辰の倭乱、丁酉の再乱と呼ばれる戦争において、
豊臣秀吉軍(日本軍)が朝鮮半島に築いた城の特色は、おおむねこの海(港 )と山を結ぶ巨大
で長い石垣にある。朝鮮の民衆を威圧したであろうこの石壁も、しかし裏を返せば侵略軍であ
る日本将兵の恐怖心をそのままに示すものであった。石塁から一歩 出れば敵地。いつ朝鮮の義
兵(ゲリラ)に襲われるかわからない。唯一海につながっていることのみで退路が確保されて
いる。   「倭城」(ウエソン、日本城イルボンソン、日本古城イルボニクーソン)が日本の研
究 者に注目されるようになったのは、倭城址研究会による『倭城』1が刊行された1976年
以降のことであろう。その巻頭序に寄せられた城郭研究の第一人者、伊礼正雄氏の文章を読ん
でみても、当時倭城の実態がベールに包まれていたことがわかる。確かに倭城の登場は衝撃的
だった。なぜかといえばこれほどまでに実戦的な城はほかになかったからである。もちろん城
は軍事施設であり、どの城も戦闘的な存在のはずだが、倭城以上にそうしたイメージを与えて
くれる存在はない。   --よほどあわてていたものか、雑な石積みで閉塞された門(写真1)。
大急ぎで補修したため、石垣構築の原則を無視して元の石垣の中段までしか積まれなかった石
垣(写真2 )。くり返しくり返し築き直された痕跡(写真3)。そして唯一の退路である港ま
で延々 とのびる長大な石塁線(写真4)。   石垣はいずれも当時の最先端の技術で築かれて
いる。安定した勾配のもの。ゆるやかな 、しかし扇のように反りのある曲線をもつもの。文禄・
慶長段階の技術が凍結されて保存 されている。一度も修理はされていないはずだが、多くの部
分が緩みをみせてはいない。 戦国時代を体験し、最高潮に達した日本の築城技術。そのもっと
も軍事的で戦闘本位の城 。それが倭城だ。  このようなぎりぎりのせめぎあいを示す城は日
本の国内には珍しい。しかし元来敵地の 最前線に築かれた城はそうしたものだっただろう。い
わゆる「境目の城」である。ある意 味では倭城は「境目の城」の典型である。  倭城はいず
れも海岸堡として築かれている。上陸地点に攻撃の拠点として城を築くので ある。文永・弘安
の役のおりの元軍は、海岸堡を築く以前の段階で暴風にあった。戦闘の 都度船に戻っていたか
ら、自滅してしまった。渡海して他国を攻撃する場合には海岸堡は 不可欠で、安全な上陸地点
を確保しておくのである。破竹の勢いで進軍していた文禄元年 の春の段階では、こうした築城
工事は必要はなかったのかもしれないが、戦況が悪化した 文禄二年の春には釜山城が築城され
ている。五月までには慶尚南道の多くの入り江、河口 に面して十八城が作られている。慶長の
役には十八城の外縁の広域に、港や汐入り河川に 面して七城が築かれる。いずれも船舶による
輸送確保を強く意識したもので、史料上には 「湊口城」「番船押城」とある。海岸堡の典型と
いってよい。しかし戦争末期には倭城の 任務は変わってしまう。退路を確保した上で、最後ま
で戦いを継続するための砦であった。  1945年からの20年間、日韓に国交がなかった期
間も長くあり、倭城は知られざる 存在だった。しかしもちろんそれは日本の研究者にとっての
話である。その間韓国におい ては1961年に釜山大学校韓日文化研究所が『慶南の倭城』を
刊行し、学術的な解明が 進んだ。1963年1月21日、蔚山鶴城、金海竹島城、西生浦城、
勿禁甑山城(梁山城 注1)、熊川安骨里城(注2)、機張竹城里城、泗川船津里城など多数の
倭城が大韓民国 指定「史蹟」に、つまり文化財に指定されている。これらは朝鮮総督府時代、
即ち日本が朝鮮半島を植民地支配していた時代に総督府が指定した「古蹟」を継承し再指定し
たものであり、いずれにも「史蹟」番号と「古蹟」番号が付されている(注3)。韓国政府が
積 極的に倭城の保存に当たったとは単純には考えにくい面もあるが、おそらく「古蹟」を解除
するか、再指定するのか、その議論の結果、再指定がなされたのであろう。日本政府が 原爆ド
ームを人類の負の遺産として世界遺産に推薦し、登録されたように、韓国政府も負の遺産とし
ての保存を決定したのかもしれない。ともかく韓国は壬辰倭乱、丁酉再乱時の 日本軍の侵略行
動と、それに対する朝鮮軍、明軍の戦いを示す遺跡として倭城の保存をこの時期に決定してい
る。日韓国交正常化の二年前であった。 注 1 甑山とは韓国の人々が倭城を指して呼んだ言葉。
その形状が甑(こしき)に似ること  による。ほかにも蔚山、西生浦、巨済島(コジェド)な
どの倭城にもこの言葉が残る。 2『韓国史大事典』に態州とあるが、誤植か。 3ほかに古蹟
文化財指定がなされているものに、昇州新城里城(順天城・新星里城)、釜山鎮倭城、
馬山倭城がある(以上については『韓国史大事典』1980、『慶尚南道誌』1963によ
る。この点松原孝俊先生の御示教を得た。記して感謝したい。)  

 

2日韓における倭城研究史と問題点

 

国交正常化までの研究と「史蹟」指定

  
すなわち1945年以降の20年は日本における倭城研究の空白期にすぎない。戦前に は倭城
は活発に研究されていたようで、倭城に関する研究論文が『歴史地理』や『考古学 雑誌』など
に多数掲載されている。伴三千雄「南鮮に於ける慶長文禄の城」(『歴史地理 』三十六〜三十
八編、四十六編、大正九〜十一年、昭和五年<1920〜22、30>) はその代表である。
内外の文献を博捜し、実地調査を積み上げていく。参謀本部戦史編纂員であった伴の研究は同
時代の他の研究者を圧倒しており、今から八十年も前に書かれた とは思われない内容をもつ。
いくぶん時代の影響や自身の立場を反映した記述もあるが、 総体としては学術的である。やや
おくれて集大成された研究に慶尚南道『慶南の城址』( 1931)もある。当時の遺構の状況
がわかり貴重である。
 

九大実測図の精度

  
九州大学大学院比較社会文化研究科・九州文化史研究所<*現在は九州大学総合博物館>には
大正から昭和初期にかけて作成された多くの倭城の実測図が所蔵されており、佐賀県教育委員
会から『文禄・慶長の 役城跡図集』(1985)として刊行されている。
 その内の釜山(プサン)城の実測図は 今は市街地のなかに消
滅してしまった釜山城外郭の遺構をよく示している。本書の解題を 執筆された長正統氏によっ
てこの図は大正4年(1915)から昭和9年(1934)の間に作成されたことが明らかに
なっている。ところで長氏はこの図と、明治42年(19 09)に測図された『築城史料』所
収の図を比較され、前者には後者の明治図にはない多くの遺構(例えば母城の三の丸から西南
に、また二の丸から東北に延びる塁線など)が画かれていること、また子城台(朝鮮在来の邑
城を日本式城郭に築城したもの、チャソンデ )の塁線が東電車線の軌道敷上にも画かれている
ことをもって、九大図は復原的志向が 強い、つまり現存していない遺構まで復原的に表現して
いるとされた。しかしながら九大 図は縮尺が二五〇〇分の一で、明治図が五〇〇〇分の一であ
ることと比較すると、面積にして四倍の精度がある。また明治図に画かれず、したがって長氏
によれば大正の段階には 存在しないとされた遺構には七、四〇などのこまかな数字がたくさん
注記されている。縮 尺スケールによればそれらの数値は間を単位としていること、つまり数字
は七間、四〇間 であることも明らかである。このことは現に釜山城外郭遺構が残っており、そ
れを実測し たと考えなければ理解不能だ。    明治図にこれらの遺構は記されていない。その
ことはこれらの遺構の残り方が必ずしも良好ではなかったことを示すだろう。確かに長氏がい
うように子城台の画き方からすれ ば九大図では復原志向が強いことも事実だ。しかし九大図の
実測値が想像の所産とまでは いえまい。残りは悪いが、見るべき人が見れば外郭線であること
が歴然たる遺構ーーそれ がそこに残っていたはずである。倭城址研究会『倭城』1は釜山城推
定鳥瞰図を画く。そ こには母城と子城を結ぶ外郭線、母城と海を結ぶ外郭線が画かれている。
『解題』はこの 復原について根拠が薄弱として否定的である。しかし九大図こそ、この外郭線
の存在を肯 定し、実証するものである。他の現存する倭城に同じく釜山城も海岸堡として山と
海をつなぐ外郭線を有していたのである。
* 追補(2010/6/19
『倭城の研究』5/2002に陸軍工兵大佐原田二郎氏が昭和五年および七年に測量した釜山城図
(埼玉県立図書館蔵)が紹介されている。この図は「九大図」に酷似しているから両図とも
実測図であって、昭和一桁代までは遺構が残存していたことが明らかになった。
   九大図には順天城(スンチョンソン、順天倭橋城)、日本側の文献で順天新城、地元でも新
城里城(シンソンリソン)とよばれる城の実測図もある。従来順天城については天守台をもつ
山上の部分を中心に考えられることが多かった。しかし九大図はその部分を包摂して、さらに
二重、三重に外郭線をもつ城として順天城を画いている。そして本城と第一外郭線の間に入江
が一つ、第一外郭線と第二外郭線の間には北に一つ、南に一つの入江が描かれている。つまり
合計少なくとも三つの入江が城内に含まれていた。こうした状況は 『宇都宮高麗帰陣物語(『日
本戦史・朝鮮役』「補伝」所収)に 「六百艘の船の内半分 は(順天ノ新城の)小西摂州(行
長)の出丸の入江に、半分は宇都宮殿持ち口の入江に入 った」という記述や、「惣構の塀があ
り、その外七、八間に柵木があり、さらにその外三 十四、五間に敵が押し寄せてきた」とある
記述によく合致する。  筆者は昨年この図を手にしつつ現地を訪れた。もっとも外側の外郭線
があるとされる地 点の海岸に面した部分には、最近建てられたとおぼしき李舜臣将軍の顕彰祠
があり、残念 ながら九大実測図が画いたような遺構はその地点では見つけることができなかっ
た(注4 )。しかしそこから村の背後に向かって小高く続く、地形の高まりの線は、いかにも
一番 外側の塀が設けられたところとしてふさわしいように見えた。しかしスケジュールの関係 
で時間がなく、それ以上の踏査はあきらめざるをえなかった。
   さて近年倭城を精力的に実地踏査しているのは高田徹氏、多田暢久氏、角田誠氏ら関西を中
心とする城郭研究グループである。筆者は九州大学大学院生の木島孝之氏より角田氏 が作成さ
れた詳細な順天城の縄張図を見せてもらった。遺構の範囲は九大図に全く同じで あった。ただ
九大図は、ベースになる地図が不正確であったようで、方位や距離が多少違っているような印
象も持った。しかしその点をのぞけば九大図は城の遺構を的確にとらえていることにまちがい
はなかった。  倭城研究は戦後のブランクを越えて、近年急速に展開しつつある。しかし韓国
に於ける 開発のスピードも驚くほど早い。順天城からは沖合いに美しい海がみられる。明の多
数の軍船が引き潮に座礁し、「自焚」(日本軍側が焼いたとする史料もある)した海である。 い
まも浅いのであろう。その海は埋め立て中だった。輸出用の自動車の積出港と駐車スペースに
なるという。釜山母城は運動公園建設のため、『倭城』に報告のある天守台はバスケットコー
トになり削平されていた。石垣も根石近くのものをのぞいては、皆新しく積み 替えられていた。
どちらかといえば稚拙な積み直しのように見えた。安骨浦城(アンゴル ポソン)自体は良好に
保存されているが、その裏山は海の埋め立てのための土取場となっ て、すべて削られつつあっ
た。母城クラスの城はともかく「端城」(連絡用の子城、「伝 えの城」、「つなぎの城」もこ
れに属するかもしれない)は実態もよくわからないうちに 消えているというひともいる。 注 
4もっとも大正年間にこの地を踏査した伴三千雄は「(小西行長の)出丸の位置は現在此遺蹟
を認め難い」としている。だから当時も今もあまり変わってはいないのかもしれない。確かに
遺構ではあるが、誰がみても首肯できるほど明確なものではなかったということか。
  

 

3倭城研究最前線

 

韓国の最新研究書

 
  韓国における最新の倭城の研究書としてはシム・ボングン(沈奉謹)著『韓国南岸沿岸城址 
考古学的研究』(韓国・学研文化社、1995)をあげたい。もちろんハングルだが、写真と
図版だけでも結構楽しい。この本は倭城ばかりを扱ったものではないけれど、 巨済島(コジェ
ド)の見乃梁倭城、長木倭城、松眞浦倭城、永登倭城など、従来日本では あまり知られていな
かった倭城が紹介、検討されている。雑木林の中にひっそりと眠る巨 済島の倭城もまた、海岸
に面し石垣をもつ点で他の倭城に共通する(永登倭城のみはいくぶん海より離れた内陸の山上
に築かれているようである)。また著者のシムボングン氏は 蔚山倭城の発掘調査も行っており、
その成果も本書におりこまれている。韓国における倭 城研究の現状を把握する上で必読の書で
ある。  なお慶尚南道『我が故郷慶南』(1983)は在日同胞をも読者対象とした歴史・文
化 財の解説書である。片側の頁はハングルで、片側の頁は日本語。韓国の歴史観、文化財観を
しっかり認識しておこう。 

国内の最新研究書

  一方、国内の最新の研究としては
中野等『豊臣政権の対外侵略と太閤検地』(1996 ・校倉書房)をあげたい。もっともこの
本に朝鮮半島での戦闘の叙述を期待してはならな い。索引を見てもこの本には李舜臣らが登場
していないことがわかる。合戦そのものは扱 われていない。しかし中野氏は文禄・慶長の役を、 
(1)国内での戦い(政治状況)、 (2)朝鮮での戦い、 (3)両者を結ぶ補給路上での戦
い、 の三つの観点から考察を進める。とりわけ(3)の観点が重視される。兵糧補給は戦争遂 
行上当然に必要不可欠のものである。にも関わらず、なぜかこれまでとりあげられてはこなか
った。氏の着眼点はすばらしい。そして氏はこれまで研究史上にとりあげられてきた 各種の史
料群を丹念に再検討する。そして年欠文書のうち誤った年に比定されていた文書 を正しい年次
に比定し直していく。こうして違ったタンスに収められていた文書が正しい 引出しに入れ直さ
れて、よみがえっていく。もっとも史料中心の記述であるから、決して 読みやすい本ではなく、
そこが少々惜しまれる点でもあるが、倭城研究、そして文禄・慶 長の役を考える上で重要な指
摘が数々ある。   輸送船がすべてチャーター船で、目的地に着くと直ちに別の任務に就くべく
引き返して いった、という点もおもしろいが、各城には十二分の兵糧が蓄えられていた、とい
う指摘 も重要。というのは我々には蔚山城の籠城戦とそのときの極度の飢餓、渇乏というイメ
ー ジが強すぎて、備蓄米が十全だったとは考えてはいなかったからである。一方では現地調達、
つまり略奪のイメージも強かった。しかし倭城の構えを見ていると、守るのに精いっぱいとい
う感じだ。確かに中野説はうけいれやすい。  氏によれば兵員千名に対して城詰米は千五百石
の割合で定められ、規定は厳格に適用さ れた。しかもふだんは手を付けずに保存していた。こ
の米は城詰(籠城)になれば十カ月 間の兵糧に当てられたという。一人朝夕にあわせて三合食
べたとしても五百日分もある。 この一合が京枡で今日の一合と同じだとしよう。現代人には一
回に米一合半なんて、とて も食べきれないぐらい多い。おかずの問題は別としても、規定の十
カ月よりはるかに長く 、二十カ月だって食いつなげそうだ。しかし考えてみれば一年もの間、
孤立で戦い続けろ とは、何ともすごい戦争である。そんなに長い間救援できない状況とは何だ
ったのだろう 。それほどまでに状況は厳しかったということか。  不思議なのは蔚山である。
どうしてあのような悲惨なことになったのか。蔚山では籠城 を初めてたった十日で兵糧がつき
ている。急遽二万の兵がこもったからだが、もともと蔚 山城には一万の兵がいたとされている
(李廷亀『月沙集』)。仮に少なくみて二千人分の 兵糧が蓄えられていたとしても、三千石は
あったはず。二万人が普通に食べても五十日は いける。城が建築中で、米蔵が奪われたという
説もあるのは承知しているが、「本山豊前 守覚書」では   「本丸、二の丸、三の丸は石垣・
塀・矢倉、大形出来候て、惣構之堀、塀下    地者出来候得共、塀を塗申事、不罷成」 と
あって、枢要部はほぼ完成していた。そして現に本丸から三の丸までは持ちこたえてい る。攻
撃する明軍に多大な損害が出ていることからすれば、武器弾薬は豊富だったはず。 よほどに考
えられないミスがあったものか。全く例外中の例外であろう。  ほかにも中野氏はこうした城
詰米が古米化したときの流用をめぐっての措置や諸事実を 明らかにする。豊富な備蓄米の存在
は疑いない。  氏の研究を通じ、文禄・慶長の役を考える上でかなり重要と思われるのは、こ
うした備 蓄と補給体制が終戦時まで(秀吉の死まで)、とどこおることはなかったという指摘
だ。 裏返せば対馬海峡の制海権自体は最後まで、かろうじてではあっても、日本が維持できて 
いたということだ。我々は李舜臣将軍の亀甲船や、脇坂安治の見乃梁浦敗戦などから、か なり
日本の水軍力が劣っていたというイメージをもっていた。しかし考えてみれば亀甲船 もその後
の歴史には継承されてはいない。内海戦には有利で優れた船だったが、遠洋航海 には適さなか
ったということか。備蓄に関しては揺らぐことはなかったという本書の指摘 は、どうやら朝鮮
の水軍に対し、もう少し違った印象を与えてくれそうである。
 
 

削られた碑文

   福岡から高速艇ビートル号で三時間。釜山は至近にある。倭城研
究はこれから本格的に 発展するだろう。但し国内の城を歩くように簡単にはいかない。言葉の
問題だけではない 。やはり倭城は異国の城だ。  安骨浦(アンゴルポ)城を訪ねてみた。蔚
山、順天、梁山城の三城を廃するか否かをめ ぐって安骨浦会議が行われた場所である。この城
は一城別郭とでも言うのだろうか。本丸 に相当する中心郭が三つある。大将が三人いたのだろ
う。そしてそのうちふたつの郭に安骨 浦城の跡であることを示す石碑が建てられている。最初
にたどり着いた第一の「本丸」に は二つの「熊川安骨浦城」碑があった。一つの碑の裏面には
「大韓民国」と深々と刻まれ ていた。もう一つの碑の裏面には特に文字はなかった。このとき
はなぜ二つの碑があるの かはわからなかった。  つづいてわれわれはもう一つの第二の「本
丸」に向かった。そこにはあまり人が行かな いのか、生い茂った草をかき分けていく。その「本
丸」にも一つの「古蹟熊川安骨浦城」 碑があった。その碑の裏面には文字を削った跡がある。
夕日の斜光にかすかに削られた文 字を読むことができた。      -----朝鮮総督府----   
人々は植民地支配の屈辱の中に強いられた顕彰を否定する。そして新たに自分たちの手でこの
城を保存しようとしている。我々はそのことを忘れてはなるまい。