目次:若宮町小原/ 里/ 平

       (7/16 福岡市若宮町小原)  力石 恵美子 竹内 正久 日程 七月十六日(金)      9:00九大六本松キャンパス正門前集合 10:40小原到着      現地を歩き、櫛田神社などを訪れる。 12:00花田正幸さん宅訪問 15:50花田正幸さん宅を後にする。 16:30バスに回収される。 17:00竹原古墳を訪れる。 18:05九大六本松キャンパス正門前に到着      解散、のち帰宅 竹原古墳に関して 装飾古墳である。はたから見ると古墳には見えないが、中に入ってみるとすばらしい装飾 があった。真中にある絵は確かにパンフレットにある通りに見えたが、左右に位置する、 装飾はあまりよくわからなかった。 地名 小字    何々のうちに 読み方   漢字  由来               仲原の内に  シオタブン 塩田分 庄屋さん持田だったので                         庄屋さんの名字による        のうちに ハルタブン 春田分  同上         のうちに コウヤブン 高野分  同上         のうちに キクチブン 菊地分  同上         のうちに ロクサクブン ?   同上                  のうちに クズマチ   ?   小さい田んぼが多いためこう                         呼ばれる。この地域は急な斜面                                  ではないが棚田が多いことによ                         る。〜のクズマチなどという。                  のうちに ヒロツボ  広坪   大きな田んぼが多いため、こう                                       呼ばれる。田は広く一反以上。                         〜の広坪などという。                  のうちに カワバタ  川端   山口川のそばにあるため、こう                              呼ばれる。                          のうちに ウエガタ  上方   今の九州自動車道のあたり。山の                         方から見て上のほうであることに                         よる。                  のうちに ナカグミ  中組   小原の中心に位置していることに                         よる。                  のうちに ウラガタ  裏方   中組の近くで中組の裏に当たるこ                                 とによる。 小字に関してはご存知ないようで、聞き出すことはできなかった。ほかに知っておられる 人を探すこともしてみたが、ご在宅ではなかった。 小原の水系 小原では鳴水溜池、鶴ヶ谷溜池の二つの大きな水がめにより田を潤している。河川は昭和 60年代に工事され、整備されたため、今では水不足に苦しむことはないということである。 昔は小原でしょっちゅう旱魃があったため、水不足は大問題だった。そのため、12月〜4 月という水をあまり消費しない期間を利用し、溜池を満水にするなど、町の人も工夫して いたようだ。また、やはり水取り争いもあったそうだが、今は大きな二つの溜池により争 いは起こらないようそうだ。 聞き取り 小原  話者 花田 正幸  昭和六年生まれ 満七十歳 調査者 力石                                竹内  小原の農地はほとんどが水田で、稲作がおわったら転作して大豆、二期作で大麦、小麦 などを作っていた。現在では麦や大豆より、野菜や菜種の方を栽培する。(花田さん宅の 田は、麦がかならず作れる乾田である。) お米は、蔵を作って蔵に保存する。種籾ももみ箱に保存。ねずみ対策は、とにかく蔵や箱 を隙間の無いように作ることである。 肥料は堆肥を使用していたが昭和30年代より金肥(化学肥料)を使用し始めた。しかし、 金肥は高価だった為、堆肥が主であった。堆肥のみでは窒素・リンなどがどのくらい足り ているのか、不足しているのかなど正確にはわからなかったので金肥をどのくらいつかっ てよいのかもわからず苦労した。二期作のときに堆肥を多く使用すれば、金肥が少なくて すむので量などは正確にわからないがコストをおさえるため堆肥を多く使用していた。 最近では専業農家は少なくこの付近では2件しかなく、他は全て兼業農家である。 また農薬にホリドール、パラチオンなどの劇薬をマスクもつけずに使用していた。(ホリ ドールは乳液、パラチオンは粉末。)鼻につまるくらいかけていたため、中毒でふらふら したりした。中には亡くなった方もいる。当時は農薬に対する詳しい知識が少なかった為、 このようなことは珍しくは無かったらしい。 花田さんの曾祖母(明治2年生まれ)の体験によると、近くに炭坑があったため、炭坑に 馬車、リアカーなどで米、野菜、卵などを売りに行きお金を得ていたらしい。 花田さんの小さい頃は牛、馬、鶏を各農家ともに飼っており、牛馬は田すきや、すきおこ しの時に働かせていた。特に牛は頭がよかったので、「さし」と言えば左、「せい」と言 えば右に、「わー」といえば止まれ、「ほい」といえば行けなど、言葉通りに動いていた。 また牛は雄雌共に飼っていたが、雄は気性が荒すぎる為、去勢をしていた。鶏は食料とし て飼っていたが何かの行事や来客の時しか食べられなかったという貴重なものであった。 小原では昔は、色々なお祭りがあり、年に10回ぐらいあり、月に一回は「おこもり」と いって、食べ物を作って持ちより、語り合うといったようなことをしていた。お祭りは代 表的なものに以下のようなものがある。 庚申様祭り   庚申様は道しるべの神様で、道の別れ目によく石碑などがあるが、             その神様を祭るもの。         (近くにある櫛田神社に寄ってみると、その石碑があった。)   おひまち    夜通しおきていて、朝のお日様を待つというもの。   はしらまつ   10メートルぐらいの杉の丸太の上のほうに籠をつけてその中に鋸クズ            を入れて立てて、下からたいまつを投げて火をつけるというもの。 このようにまちでは宗教関係のお祭りが多かった。また、他地区の人にも見や祭りなどの 場合は招待状を出したりしていた。また、農薬に関するお祭りとしては以下のようなもの がある。 さなぶり    町中の農家の田植えが終わった次の日にするもの。         各家がもちまわりでそれを行い、他の家の田植えの状況を見計らっ           てから行う。 しかし、今は氏子のお祭り以外は、区民体育祭のみとなり、結びつきが薄くなりつつある。 小原の皆さんの食生活は大変質素なもので、必ず1/3は麦というごはんであった。鶏は特 別な時のみ食べられるものだったので、皆楽しみにしていた。戦時中は配給に頼らずに自 分の家で作ったお米のおかげで空腹はあまり無かった。(自分の家で食べるお米のことは 兵糧といった。) 青年達の遊びに関しては、青年宿と呼ばれる今の公民館のような所で月に一回泊まること があげられる。そこでいろんなことを語り合ったそうだ。お祭りの運営などで、青年団の 活動が盛んであったが、昭和40年代ごろからあまり活動しなくなった。 恋については、青年団で知り合うのが40%ぐらいで他は親が決めたりとあまり自由が無 かった。 これからの小原 これからの小原については兼業農家はなくなり、専業農家のみの人が農業をしていくこと になり、4戸か5戸が農家としてやっていくのではないかと思われる。 感想 区長さんによると、もっと詳しい話を知っていらっしゃる方がいるとのことだったが、生 憎留守だった為、連絡したが話を聞くことはできなかった。しかし、区長さんが大変いい 人だったため、たくさんの貴重な話を伺えた。 農協にお米をおさめるようになって、区画整理してからはあまり使われないということだ った。区長さんによると、昔はどこで何をしているか手に取るようにわかるぐらい近所間 でつながりがあったらしい。だが、最近は段々とそれがなくなり、祭りの数も減り、お互 いが何をやっているのかわからなくなって、冷たくなってしまったと嘆いておられた。 今は無くなりゆく文化のようなものを体感することができ、貴重な体験ができた。 --------------------------------------------------------------------- 若宮町における現地調査〜里地区〜 H.11年7月16日実施 お話をして下さった方 塩川 春年 さん 昭和13年3月13日生 小方 光栄 さん 明治39年9月10日生 実行者 神徳 朋之 防府市大字向島 亀谷 享 那覇市古島 里地区 <しこ名> タカマル、ナシノキダニ <シュウジ> オゾノ(遠園)、ゲンタバル(源田原)、オク(奥)、サト(里)、 ジンヤタニ(陣屋谷)、ヤマシタ (山下)、 カドマツ(門松)、カキノキダ(柿ノ木田) < 里地区における水利について > 用水路* 特に決まった名称を持つ水路はわからなかったが、大小合 わせて12、13ヶ所ほど川から用水を取り入れている水路 がある。 水源* 水源として主要なのは、山下川と山口川の二つである。里 地区では大半の田が山下川から用水を得ており、1ヶ所だ けが山口川から用水を得ている。しかし、さらなる水が必 要とされるとき、例えば田植えの時期や八月の暑い時期に は、補助的な水源として大谷溜池から用水を得ることがあ る。 用水路と水源の利用状況* 里地区内においては、その主要な水源である山下川が、里 地区内のみを通っているため、自由に用水を得ることがで きる。ほんの一部、小原地区に隣接する田は、山下川からく る用水路を共同利用している 。これらの点から考えても里 地区では隣接する他の地区とは 、水争いがなかったことが わかる。 昔の配水の慣行や約束事* 昔から特にそのようなものは存在しない。 しかし、それらが設けられなかった理由として山に囲 まれ ているため水源が豊かであったし、さらに昔ほど水を必要 としない稲が作られたことがあげられる。 < 村での農業 > 昔の田植えの様子* かつて田植えのときは、手作業が一般的だった。苗代で作 った苗を近くの世帯や、遠くからお金を払ってき てもらった人々によって植えていった。 稲の種類としては、 ニホンバレ、コガネバレというのが一般的であった。その 他、麦や菜種もかつては作って いたが今は作っていない。 現在の様子* 現在では、トラクタ−などの機械を使って行うのが一般的 になっている。稲の種類としては主にユメツクシを作って おり化学肥料も持ちいられている。 圃場整備は今後行わてていく予定になっている。 村の動物 * 昔は、馬や牛が飼われていたが主に牛が重宝されていた。い うのも、牛は力が強く水田や畑などの耕地を耕すのにむいて おり、さらにまぐさなどを食べさせてその糞を肥料として用 いることができたからである。 < 昔の食生活について > 食料とその入手経路* 里地区では農家が多かったので、野菜やお米がは自給自足で まかなわれていた。その一方で、魚などの魚介類は福間町な どからの行商人がいたのでその人たちから買い付けていた。 またかつては今のようには、肉は食べていなかった。飲料水 は、小方さんによると、「深さ40メートルにもなる井戸か ら汲んでいて、とてもつめたくておいしかった、また炊事や 洗濯にも使っていた」と話された。 *米の保存* 米は白米にしてしまうと虫が付きやすくなるため、籾殻を付 けたままにして箱に入れて保存しておいた。また冷蔵庫のな い時代には、すいかなどの果物や野菜を冷やそうとするには、 井戸に中に浸けて冷たくしていた。 < 昔の若者たち > 夜* 当然、電気のない時代はランプなどの明かりで過ごしていた。 しかし、基本的に若い人たちは夜、遊びに出ることはあまり なかった。ただ夏には川沿いに蛍がたくさんいたので蛍とり をしたりした。蛍が非常にたくさん集まって柱のようにたち のぼるホタル柱も しばしば見られたそうであるが、最近で は蛍があまり見ることができなくなってきたと小方さんは 話をされた。 *昼* 若い人たちは、今ほど遊び道具があるわけでもなく野山をか けまわって自分たちで工夫して遊んでいた。なわとびをした り、かくれんぼをしたり、もずを罠にかけたりしていた。ま た、昔は川が今よりもずっときれいだったため、どじょうな どの魚がたくさんいて魚釣りをする者の姿もよく見られた。 小方さんの家は神社であるためしばしば詩吟の大会も催され ていた。 <村の生活に必要な土地> 里地区では茶臼山近辺やタカマル、ナシノキダニといった場所 に共有の草刈り場を所有していた。そこで協力して草を刈って いた。その草を牛に食べさせて、その糞を発酵させてから使用 していた。冬になると、草がほとんどなくなるので秋に収穫し たわらを食べさせて、それを使用できるように貯えていた。 <その他> 今回、塩川さんや小方さんのお話を聞いている中で気づいたの は、相づちで「はいはい」と言う代わりに、「ないない」とい う言葉を使われていたことであった。これは僕たちにとっては なじみのないものだったので最初に聞いた時はちょっと面食 らった。 <現地調査を終えて> 今回、学校の講義室を離れてその土地にすんでいらっしゃる方々 にお話を聞いて本からの知識だけでは見えてこないその土地の実 際の姿を見ることができ非常に貴重な勉強ができた。僕たちの訪 れたさと地区は、あたり一帯に豊かな水田が広がり、また小高い 山々に囲まれた緑豊かところであった。それは僕たちに自分たち の生まれ育った場所とどこか同じにおいのする、水田があり、山々 がすぐ近くにあって鳥や蝉の鳴き声が聞こえる景観を思い出させ 、リラックスすることができた。そのおかげで地区の方々との話 もスムーズにいったと思う。そして、本当に快く迎えてくださり 熱心に自分たちの昔の話や地名のことを話してくださりよく理解 できた。また、今回訪れた里地区を含む山口では、このほど百年 史が編纂され、地区の伝統を守っていくための会も結成されたば かりで自分たちのまちを心から愛していらっしゃることが伝わっ てきた。 今回の調査をまとめてみて感じたのは、一番知っているようで実 はそうでない自分の町についてもっと知りたいと思ったことであ る。この夏は帰省したとき、ぜひ祖父や祖母とその話をしてみた いと思っている。 --------------------------------------------------------- 六反田 亮  井ノ口 正規 調査に協力して頂いた方 森田 国夫さん 大正9年1月9日生まれ 平地区 (一覧) テラシュウジ:寺小路、 ササダ:笹田、 カドタ:門田、 ヤシキダ:屋鋪田、 ヨコタ:横田、 キヨメダ:清免田 ナカカワハラ:中川原、 リュウノツボ:竜ノ坪、 タナカノシタ:田中ノ下、 ヒラタ:平田、 シマダ:嶋田 オオベダ:尾部田、 スナイリ:砂入、 ムギタ:麦田 ミヤノツジ:宮ノ辻、 ヤクシメ:薬師免、 ワダ:和田 イノウラ:猪浦、 ハナノキダニ:花ノ木谷 チョウバル:長原、 フクサキ:福崎 (小字) の中に (しこ名) 安町 キヨメダ(清免田) 田中ノ下 シマダ(嶋田)、タナカノシタ(田中ノ下) 福崎 フクサキ(福崎) 村ノ前 ヤシキダ(屋鋪田) 砂入 オオベダ(尾部田)、スナイリ(砂入) 向ノ山 オオベダ(尾部田) 宮ノ辻 ミヤノツジ(宮ノ辻)、ヤクシメ(薬師免)、テラシュ ウジ(寺小路)、ハナノキダニ(花ノ木谷) 川原 ヤシキダ(屋鋪田) 門田 カドタ(門田) 笹田 ササダ(笹田) 猩々ヶ谷 ハナノキダニ(花ノ木谷) 井ノ浦 イノウラ(猪浦)、ムギタ(麦田) 和田 ワダ(和田)、ヒラタ(平田) 中川原 ナカカワハラ(中川原) 竜ノ坪 リュウノツボ(竜ノ坪) 長原 チョウバル(長原) 横田 ヨコタ(横田) <一日の行動記録> 残念なことに、村で行われる行事の準備があるということで、区長さんの 都合がどうしてもつかず、また、ほとんどの人たちが出払っているといわれ たため、畑に出ている人や、通りすがりの人で手のあいている方を探して聞 くという方法を取らざるをえなかった。 現地に行ってみたところ、ほとんどの人が見あたらなく、やっと見つけたご 老人も耳が悪いということでお話が聞けなかった。 辺りを歩き回っていくと、小字で原田(ハルダ)にあたるところに、ビニ ルハウスが並んで居るのが見えたので、中をたずねると、お忙しい中、快く ご協力下さった。しかし、その方は比較的最近その辺りの土地を購入し、ビ ニルハウスを作って稲光の方から働きに来ているそうで、あまりよく分から ないということだったが、その近くの2、3の地名を教えて頂いた。 次に、家が多く建ち並んでいるとことへ向かい、田中ノ下(タナカノシタ) 辺の民家をたずねると、森田さんが仕事の途中だったが、非常に多くの話を 聞かせてくださった。 まず、小字の読み方、正確な地図についての話をしていると、長原(チョウ バル)は、稲光地区の方に入るはずだとおっしゃっていた。 次に、昔からの通称の地名をお聞きしたけれど、生まれたときからずっとそ こに住んでいるが、ホノケの中でもご存じないものがいくつかあるようだった。 そして、それぞれの位置を教えて頂きながら、地図に落としていく作業行の中 で、それぞれの土地についての次のようなお話も聞かせて頂いた。 *小字でいうと、安町(ヤスマチ)と横田(ヨコタ)の辺りにキヨメダ (清免田)というところがあり、そこでは、宮座に奉納するために清め られた米を作り、奉納していた。 ずっと昔から阿弥陀ヶ峯(アミダガミネ)には墓地があったのだが、 戦後、ほとんどが西の方にある納骨堂に移され、いまでは少しの墓が残 っているだけである。 和田(ワダ)の中にあったヒラタ(平田)という場所は、範囲が小さ く、現在は山陽新幹線のしたにほとんどが隠れてしまっている。 川原(カワハラ)、村ノ前(ムラノマエ)にまたがっているヤシキダ (屋鋪田)という通称の由来は、昔からこの辺りにはお屋敷がたくさん あったためだと思われる。 宮ノ辻(ミヤノツジ)に含まれるハナノキダニ(花ノ木谷)は、少し 高台にあり、水利が悪く、昔は芋などを作っていた。最近は宅地開発が 進んでいる。 井ノ浦(イノウラ)にあるムギタ(麦田)も花ノ木谷と同様、高台で 水利が悪く、麦ぐらいしか作れなかったため、その名がついたと思われ る。ただし、西部に新溜池ができてからは、水利がよくなり、稲作も可 能になった。 向ノ山(ムコウノヤマ)は、田ではなく、向こうの丘のふもとに一軒 だけ家があったので、その家を指してそう呼んでいた。 ヤクシメ(薬師免)は、薬師如来がまつられたほこらがあることから その名がついた。 以上のことを地名とともに教えていただいた。 <村の水利> すべての田が井ノ浦溜池と、新溜池の水を使っていた。また、新 溜池は、明治のころ作られたもので、これによって、高台にあった田へも 水が行くようになり、作物の幅が広がった。 5年前の大旱魃の際には、これらの溜池と、農協の裏の方にある、 非常用の貯水施設のようなものがあったために、そこから水を引くことが できたため、なんとかなったそうである。 <電気・ガスについて> 村に電気が来たのは、大正13年から14年の間で、お話を伺っ た森田さんが物心つくときぐらいには、電気もガスもきていたそうである。 <『シュウジ』について> これにあたるものとしては、寺小路(テラシュウジ)という場所 があった。