目次 若宮町沼口 /原田 /竹原

       福岡県鞍手郡若宮町沼口 調査日7/16(金)              浦底 愛子   加治 里佳子 日程  平成11年7月16日    9:00  九州大学六本松キャンパス正門前集合   10:10  若宮町沼口到着   10:30  訪問に備えて最終確認   12:00  昼食   13:00  区長さん宅訪問   13:30  松井仙之助さん宅訪問(話を聞く)   15:30  中央公民館到着   15:50  中央公民館出発   16:55  竹原古墳到着(見学)   17:05  竹原古墳出発   18:00  九州大学六本松キャンパス到着、解散のち帰宅 話者:松井 仙之助  大正14年8月25日生まれ 沼口には現在31の小字があります。江戸時代の「ホノケ」はご存知 ありませんでしたが、今の31の小字はほとんどその時代から使われ ているもののようです。ここは、31の小字がよく使われており、「し こ名」もほとんどなく、山や水田もOO山やOO水田として呼ぶので はなく、例えば「萩ノ浦」のような小字名で呼ぶのだそうです。ただ、 沼口の中心を流れる山口川を、「前ン川」と呼ぶとおっしゃっていまし た。それから、お話をしていただいた松井さんの住む「四郎丸崎」と いう小字は、通称「下小路」といい、これは江戸時代のホノケに含ま れていました。 <小字の変化>      江戸時代のホノケ → 現在の小字        下河原    →  下川原        石が崎    →  石ヶ崎        潮井掛    →  汐井掛        鏡面    →  鏡突免        こつわ    →  小諏訪        せせなき   →  瀬々ナキ        中河原    →  中川原        ふくれ    →  福礼        下小路    →  四郎丸崎        西の浦    →  西ノ浦        堀リの内   →  堀ノ内        萩の浦    →  萩ノ浦 汐井掛原と丸山は、ホノケには含まれず、明治時代から呼ばれるよう になったもののようです。 村の水利 使用している用水は、堀の内溜池と山口川です。地形的にも山口川 が、水田の真ん中をつっきる形になっていて、水には恵まれている ところです。水源が豊富なため、村内では特に決まったルールも争 いもなかったそうです。しかし、山口川の水の出口であるため、昔 は川の通らない隣の村が、争いにやって来ていたようです。 5年前の干ばつは、このような豊富な水のために、困ることもなか ったそうです。溜池から計画的に水を流し、水田を守ったのでした。 50年前でも変わらず、大丈夫だっただろうとおっしゃっていまし た。 水田・畑  水田は主に山口川の両側にあります。山に近く高いところに住宅、  川が流れ低いところに水田というふうに土地利用がなされています。  昔から水が豊富で、計画的に水田に最適な水量を送り込むことがで  きたので、悪田はないようでした。昔は裏作として麦を作っていた  そうですが、今は、外国から安く麦が手に入る時代なので、麦は作  っていません。50年前、ちょうど終戦頃は、米は政府に納め、農  民はほとんど麦を食べていました。割合としては、米:麦=1:9  です。  米は、むしろを庭に干し、土間にもみをつるしてから,もみ箱に入  れて高床の倉庫に保存したそうです。湿気、ネズミの対策が考えら  れていると思います。田植えも今は機械ですが、昔はやはり全て手  作業だったようです。  また各農家には、牛と馬が1匹ずついて、農作業に利用していまし  た。戦前から化学肥料を、少しずつ取り入れていたそうですが、そ  れ以前の肥料は主に堆肥でした。  水田・畑での自給自足の生活がうかがえます。これも、沼口が水と  地形に恵まれているからだと思います。 生活  昔は、中学校を卒業してから皆百姓になり、農業をやっていたそう  です。村人は皆百姓でした。  昔から伝わる祭もいくつかありました。  1月1日   正月。神社で御払いをするそうです。  7月15日  お祇園さん。昔は山笠のようなみこしを作っていた         そうですが、最近は集まってお酒を飲むだけのよう         です。  7月下旬頃  供養祭。昔、疫病が流行ってたくさんの人が死んだ         そうです。その霊を供養するための祭です。  10月10日 豊作祝。秋祭りです。 今の沼口と移り変わり  若宮町には都市計画があります。若宮インターが沼口にできると、  昭和40年頃から、企業が進出してきました。昔は、80町歩(チ  ョウブ)あった水田も、今では50町歩ほどに減っています。企業  の進入というと、私にはあまりよいイメージはなく、そこの住民は 大切な自分たちの土地を企業に手渡したくないと、反対するだろう と思っていました。しかし、実際は逆に企業を歓迎しています。や はり農業だけでは、金銭的に苦しいからです。土地は1反(300 坪)3〜5千万円で売れるそうです。 松井さんの家から見て川を隔てた下の方には、住宅が建てられてお り、沼口の住宅化がうかがえます。 昭和32年に町村合併が行われてから、山口村が大字になって、新 しく若宮町として成り立ちました。 子供の数も多く、過疎化に苦しんでいるようでもありませんでした。 しかし、ちょうど働き時の若者が、仕事を持って独立し、親元を離 れて暮らしていますが、毎週末には帰ってきて、田や畑の世話をす るそうです。とてもすてきなところです。   感想  早くに着きすぎて、少し時間をもてあましてしまいました。お約束  していた1時頃に区長さんのお宅を訪問しましたが、仕事のために  ご不在で、奥様から近所の古老の方を紹介していただきました。残  念ながらその方もご不在のようで、隣のお宅を訪問し、やっとお話  を聞かせていただくことができました。突然の訪問にもかかわらず、  快く引き受けてお話をしていただきました。偶然にも、松井さんは  沼口で組合長のお仕事をなさっていて、区長さんとも仲が良く、町  のこともよく把握していらっしゃいました。  福岡からほんの1時間で、こんな静かな緑の多いところに来れたこ  とに驚きました。企業がいくつかあるために、大きなトラックが出  入りしていましたが、山のふもとの住宅には音も聞こえません。福  岡のベットタウンとして、これから発展していってほしいと思いま  した。  それから、沼口の水の豊富さにも驚きました。干ばつといえば必ず  田畑はだめになり、不作どころの話ではないはずですが、沼口は見  事に干ばつを乗り越えていました。いろいろな面で恵まれたところ  だと思いました。  沼口のいろいろなところを、このように私たちの手で書き残せたこ  とをとてもうれしく思います。 --------------------------------------------------------- 若宮町原田/現地調査レポート                    武藤 晃一郎  宮川 創 実施日 平成11年7月16日 調査場所 原田 当日の行動  当日はバスがおもっていたよりも早く到着して、あらかじめ有吉さんのお宅に電話して 約束していた時刻までは時間があったので、とりあえず、昼食を早めに取った。  原田は、のんびりとした感じを漂わせた町で、田んぼが犬飼川に沿って広がっていて、 緑色の稲がとてもきれいだった。昼食は犬飼川の土手で食べたのだが、川には魚がたくさ ん泳いでいた。田んぼの用水路には、ザリガニとりをしている子供がいて、時間はゆった りと過ぎていった。  地図を見て、また、人に聞いたりしてどうにか有吉さんのお宅に行くことができた。有 吉さんは昭和の生まれで、福岡で長いこと暮らしておられたそうで、それ以前のことにつ いてはあまりご存知なかったけれども、有吉さんのお母さんのハルヨさんも、僕らの調査 にご協力してくださり、いろいろと貴重なお話を聞くことができた。  有吉さんに、他にこの原田について、より詳しく昔のことを覚えていらっしゃるような ご老人は、いらっしゃらないかと聞いたところ、近所にお住まいの明治生まれのおじいさ んをご紹介してくださった。  そのおじいさんは、小野文男さんとおっしゃられる方で、元気なおじいさんだった。突 然の訪問にもかかわらず、いろいろご親切に教えてくださった。  時間はそのようにしてお話を聞いているうちにあっという間に過ぎてしまい、小野さん のお宅をおいとまして、バスの集合の時間に間に合うようにと、急ぎ足で中央公民館に向 かった。 調査に協力していただいた方の名前と生まれた年    有吉 文昭;昭和3年生まれ    有吉 ハルヨ;明治44年生まれ    小野 文男;明治44年生まれ しこ名について  しこ名についてお聞きしたところ、現在の小字と同じであり、昔のしこ名がそのまま受 け継がれてきたようであると分かった。  小苗代  寒の湿  惣連寺  久保  馬ノ川  友池  奥之地  柱松     貴船ヶ裏  新堀  三月田  大浦  損ヶ熊  東向原  大谷  牛谷  タブ山    猿原  島巡リ  赤子谷  向ヶ原  前川原   上川原  屋鋪田  鹿手 下  坂本  尺野  道出  上ヶ田  上ノ原  西屋鋪  立石  裏ノ谷  桜 町  先園  中園  奥園  道園  頭無  杉谷  大坪  猪首  沖田  合 代  向川原 道のしこ名 ジョロ坂        鞍手軌道(金丸、福丸などを結ぶ大きな道で、今は廃止されている。)  水利について  ここ原田は、地図から一見して分かるように、犬鳴川という大きな川が流れており、低 地にすむ人々は、昔から水に困るということはほとんどなく、5年前の大旱魃でもさほど 困ることはなかったそうだ。高地の田畑は、溜池の水を利用していた。  大きな川があり、水争いなどほとんどなかったのではあるが、一応水の管理は、水当て と呼ばれる人が行っていた。この水当てには、田畑の面積の小さい人が選ばれ、それぞれ の田畑に平等になるよう水を配分した。  犬飼川は大氾濫を招くことになったことが少なくない。その、被害のほうがむしろ、旱 魃より、この原田の低地にすむ人にとっては大問題であったようである。現に今年6月の 大雨で川が氾濫し、田んぼに被害が出ていた。そのため、有吉さんは僕らの訪問の後、そ の被害に対しての話し合いの集会に出るそうだ。田んぼが、かなり広い範囲で水びたしに なったようだ。  原田にはひとつの伝説のようなものがあった。陣内ホゲと呼ばれる場所がある。ホゲと は、溜池の小さなものをさす言葉であるそうだ。昔、犬鳴川がよく氾濫を起こしていたた めに、陣内さんという人が自ら人柱になって、そのおかげで水害の被害が静められたとい うもので、共同墓地のしたあたりにそれはある。それは、かなり有名な話であるそうで、 みんな知っているとのことだ。 主な溜池; 大谷下溜池  浦水谷溜池  貴船ヶ浦溜池  尺野溜池  杉谷溜池        牛谷溜池 村の生活  村に電気がきたのは大正5、6年。プロパンガスは、昭和40〜45年。それ以前は、 熱源として、まき、石炭、木炭が使われていた。山が近いのでまき木を、また炭坑も近い ため石炭もよく使っていた。  以前は99%が、農家であったけれども現在は50戸が兼業農家で、わずかに3戸のみ が専業農家という現状である。  食事は、米に1割は麦をたしたもので、朝は味噌汁に漬物、昼は干物など、そして夜は お煮付けなどで、たまに魚が出たらしい。  米の保存であるが、昔はどのうちも猫を飼っていて、それがねずみをよく捕まえていた そうである。泥壁にとたんをしたものでねずみを防いでいたそうだ。    村の動物  農耕用のうしが主で1頭大体どこも持っていたようである。また、卵などがスーパーマ ーケットで買える時代ではないので、鶏を飼っている所が多かった。大体、20羽から多 いところで100羽飼っていた。自家用としてと余った分は、市場にもっていかれたそう である。他にウサギや山羊、それに羊や馬。山羊はその乳を飲んで、羊は昭和10年頃ま で何件も飼っていたそうである。 交通について  馬車やリアカーなどが使われたそうである。もちろんほとんどが歩きで、昭和以降に自 転車も見られるようになったそうだ。鞍手軌道というものが、大きな道としてあって、昭 和14、15年くらいまで使っていたらしい。 祭りについて  若宮町を一体とする大きな祭りが、福丸のあたりであったらしい。祇園様と呼ばれるそ れは9月ごろあったらしい。また、現在福岡市でゆうめいな山笠と同じことをこの若宮で もやっていたらしく、昭和5、6年まで5本の山を立てていたらしい。今は福丸のみ山を 立てている。  原田宮のそばに、お観音様と呼ばれる小さな神殿のようなものがある。そこでは旧暦の 7月、いろんなところから人が集まり相撲を晩にとっていたとのことである。結構遠いと ころからもやってくるらしく、孟宗竹の上に素焼きの皿を載せ、そこにろうそくの火をと もし、それを何十本と立ててやり、夜通ししたらしい。もちろん、そんなプロがやるので はなく、ただ相撲がすきだとかそう言う人の集まりであり、これは大正10年頃まで続い たそうだ。現在は8月10日に子供相撲として行われているらしい。 昔の若者  テレビもなかった時代、若者は働いてばっかりであったそうで、家の仕事をしていたと いうことである。青年の集まる若しゅう宿、ここでは青年集会所とよばれたものがあった そうだ。原田宮のそばにあった。 現地調査をおえて  実際に行って見て、それまで地図でしかイメージしたことのない所に、生き生きとした ものが加わり、また現地でお年寄りに直接触れ合うことでより生きた情報をえることがで きた。このような体験は教室の中の勉強になりがちな大学の授業の中ではとくに意味深く、 興味を持てるものだった。  また、知らない土地に生き、知らない人と交流を持つという経験をつむこともできよか った。実際行ってみるまでは、どうなるのかと心配したものだった。しかし、案ずるより 生むがやすしではないが、親切にもてなされて時はあっという間に過ぎていった。わざわ ざ僕らが行くということで、時間を空けてくださり、また突然の訪問にいやな顔ひとつ見 せることもなく受け入れてくださり、有吉さん、小野さん、本当に心からお礼を申し上げ ます。  それと、話の中で、今は川にめだかが見られなくなったと、農薬を使うようになっての 環境の変化の話も有吉さんはされていたが、緑豊かなこの原田がいつまでもこのままであ ることを祈りたい。 ----------------------------------------------------------------- 鞍手郡若宮町竹原について 1.農業 竹原には戦前では60,70戸、現在は105戸がある。 以前はほとんどが農業で生計を立てていたが、現在専業農家は 1,2軒で、その他は第二種兼業農家である。専業農家では、裏作 で花、柿、いちご、ぶどうなどが作られている。 米作は、久保田がいい田としてしられており、反当8,9俵ほど の収穫だったらしい。高野ではあるが高田も水持ちは悪くない。 最近では米の減反政策により、集団転作の策をとっている。去年 は森ノ元、今年は前川原という様に、山口川をはさんで右と左で交 互に行うことで、同じ土地を田と畑で交互に使うのが目的である。 また、干ばつへの対策として、京田では早期米にきりかえたので 水が不足している時期に、京田ではあまり水を必要としない。大体 1ヶ月ほど他の地域とずれる。 運搬は車がふたつついた’しゃりき’というものを使っていた。 その後、前に台をつけたしゃりき馬車へ発展し,現在はリアカーを つかっている。 また、それ以外に運搬には馬や牛も使っていた。牛と馬では餌代 がちがうため、ほとんど安く付く牛が主流だった。牛はだいたい1 軒に1頭かわれており、スピードはゆっくりではあるが持続的なと ころがうりである。逆に馬は終戦以降しか使われなかった。牛の3 倍のスピードがあるがやはり餌代がネックとなっていたようだ。 飼料には、麦や菜種、馬にはふすま(小麦のから)、レンゲなど があり、山道の脇や、川の土手の草を食べさせたりもしていた。 これからは、区画整理がすすみ隣り合った田を合併し共同にする ことでますます農家が減っていくのではないかと考えられる。 農家の減少は、これからの時代にとって大きな問題である。 ((米の保存)) 刈り入れ後、風に当ててわらも乾燥させるために、積み方に工夫 がされていた。4x3段=12束で積み、その形から’散りコズミ’ とか、’鳥の足’と言われている。この状態で1ヶ月くらい置いた 後、雨の日納屋でこいだ。脱穀後、3回ほどむしろの上で地ぼしし、 もみびつで保存したあと、ある程度固まったら精米した。 昭和10年に農協の倉庫ができるまで、その米は商人のもとにあ った。 しかし、米をねずみや虫から守るためには、もみのまま保存して おいて必要なときにもみをとることが懸命だった。 終戦後、脱穀機の導入により動力が強力になったため、もみも一 緒に取れてしまうようになったため、新しい対策をしいられている。 ねずみは、飼っているも同然な位たくさんいるらしい。泥でかた めたり、石ばいをかためたり、棘のある杉の葉を天井においたりし ていたが、結局はねずみがどうにかしてはいって来ている状態であ る。田につんでいるときも、また穂が垂れる途中のものでさえも、 集めて巣をつくってしまうなど、今でも手を焼いている様である。 戦前は地主への年貢として5,6俵(反あたり)を納めていたが 戦後は農地解放で金納にかわった。地主だけが儲かり、小作人は、 くず米や麦米を食べていた。麦米は、米1升に麦2合の割合だった。 竹原は、ほとんどが小作農だったため、貧しい人が多かった様で ある。 2、水利について 1、溜池 ・竹原には2つの溜池がある。1つは杉谷溜池で、塚ノ元、ハスワ、 辻ノ前、中小路、森ノ元の水源となっている。また、杉谷溜池からは 前述の竹原の地域以外にも、少量ではあるが、沼口にも水を供給し ている。 もう1つは高田溜池で、これは人工の溜池である。高田にはもと もと小さな溜池がたくさんあったので、周囲をコンクリートでかた めて1つの溜池にしたのである。また、高田はもともと高野に属し ていたが、区画整備の時に竹原の管轄となった。しかし高田溜池が 作られた当時はまだ高野の管理下にあったので、この溜池は高野の ひとがつくったものである。 ・杉谷溜池は水がたまりにくいため、昔は戸石川(といしのかわ) という小さな川から冬場だけ水をひいていた。しかし、毎年のよう にパイプがこわれるため、昭和30年代に山口川の岸にポンプ小屋 を作り、杉谷溜池と山口川をパイプでつないだ。このポンプは電気 を必要としたが、電気代を払ってでもこちらのポンプを選ぶほど、 戸石川からのパイプの修理は大変だったのだろう。 2、その他の水源 ・竹原の人は、黒目川も水源として利用しており、黒目川には、干 ばつの年以外は普通に水があった。現在はもうないが、川には昔は 仕掛け溝という水車のようなものがあり、冬場は平から水路をつく って池にためた。 ・前川原には生水(しょうず)と呼ばれる湧き水が2ヶ所ある。山 口川の副流である。この水は飲料水にも使えるため、夏場などは、 農作業の際に家から飲み物を持ってくるかわりに生水の水を飲んだ ほどであった。生水の水は夏は冷たく、しかも川の水がなくなった 時でも生水には水があった。一方で、生水の水は冬は川の水よりも あたたかく、井戸地下水と同じ13度くらいを保つ。このような利 点のため、生水にはポンプをすえていた。また、生水のまわりは湿 田であった。 生水には特に呼び名のようなものはなく、「前川原の生水に行こ う。」というように呼んでいたようである。 3、干ばつについて ・昔の用水路は小さいものや曲がりくねったものが多かったため、 トラブルが多かった。皆が寝静まったころ自分のところに水を引く 夜水引きはその一例である。現在は水路が整備され、用水と排水が わかりやすく、とったらすぐに見つかると言うこともあり、そのよ うなトラブルはない。 ・沼口、水浦は共同で出資して大きな池から水を引いた。竹原にも 出資の要求はあったが、竹原は川下にあるため、当時の竹原の人は 必要ないと判断し、出資はしなかった。 ・平成5年の大干ばつのとき、竹原では各々でポンプを購入し、川 からポンプアップした。皆がとるため、川の水もチョロチョロにな ったそうである。 4、その他 1.山口川には福礼井樋、町並井樋、西早田井樋、久保田井樋、前 川原井樋がある。久保田井樋以外は右岸である。昔は町並井樋の少 し下流に柳井樋があったが、今は痕跡すら残っていない。現在主に 役に立っているのは町並井樋と西早田井樋である。 2.竹原の人は、30,40年前、平に水代(みずしろ)をだして いた。主に金や米だった様だ。これは、水が通るため湿気が付くの で、湿付料(しつずきりょう)として払ったものであった。いわば 「迷惑料」のようなものであった、。 3.昔のホノケについて ・鳥巣(トンノス)には、冷たい清水がわいていたので、干ばつが あっても大丈夫であった。湿田で、足を入れると腿まであったので 手で耕した。夏にはせんつめといって、余り水以外は用水にとって いた。シラサギがきていたこおが、この名の由来である。 ・馬場は、その名の通り馬を走りまわらせるための土地だった。 ・別当塚には遺跡があったが、持ち主が代がわりをした際に新しい 所有者が移動させたため、新幹線の開通時にはすでに遺跡はなかっ た。 ・礼曽と熊本という呼び名は、話をお聞きした赤星不二生氏が子供 の頃に老人が口にしていた覚えはあるそうだが、場所は定かではな いということである。 お話を伺った方々 赤星 不二生氏 大正14年生 松崎 健児氏 昭和7年生 調査者 山中 麻衣子  吉田 優