若宮町下/ 小伏/ 黒丸
現地調査 若宮町下 しこ名 小字名 しこ名 下鉛 イナサク(稲作) 鹿子馬原 ハンダ、ウエノガタ(上方) 鉛 タブノチノシタ、オキノキド、ナガノテ(=ナガドテ)、ムカイガワ ウメギ、ユウノキ 蓮町 コハルダ 鹿子馬前 ヨコダヤマ(=ヨコリヤマ) 五反田 イジリ(井尻)、テンコ(天弧)、シタンヤシキ(下屋敷) 乙藤 ヤマンシタ、クマサキ、コウヤドン、キド(木戸)、イジリノインキョ カワバタ(川端) 壱丁田 フルミヤ(古宮) 東之前 ガーラ 高宮 ニタガサカ 緋縮緬 ウエンダン 庄屋村 ニシダニ(西谷)、ヤクシサマ(薬師様)、シタンミセ 観音堂 ヨシガタニ 乙丸 ドウマルダ 広瀬 オモテ、ワキノタニ、クスノキブチ 八反田 ムカイ 東葉月 シンヤ 茶ノ木 ドイノウチ 浦ノ谷 ムカイデラ 村の水利 使用している川 乙藤川 犬鳴川(宮ノ上、宮ノ下、道瀬) 井堰 蓮町井堰 貴船井堰(乙藤川→釘上、小倉) 梅ノ木井堰 配水の慣行・約束事 昔 1人の水当てさんに水利権を与え、平等に調節してもらった。 今 村の中で当番を決め、朝・夕の2回、見回りして調節する。 水の争い 昭和40年頃の旱魃の時、犬鳴川の水をめぐって庄屋村と乙藤が対立した。 (ポンプでくみ上げた犬鳴川の水を庄屋村が、単独で使おうとしたため) 1994年の旱魃 山の手の堤のないところでは、水不足となり乙藤川からポンプで土手に水を くみ上げたり、犬鳴ダムで調節したりした。 1999年6月29日の大雨 土砂崩れが起こり、乙藤川が氾濫した。 村の耕地 米がとれる所 山から離れた所、犬鳴川の側(釘上、小倉、獺淵、伊久保、畦町) 理由 日照時間と温度が十分なため 良田と悪田の差 60 〜 90kg 肥料 昔 山(長羽山など)から草を刈ってきて、それを堆肥にしていた。 朝3時から7時の間に行っていた。かなりの重労働だった。 1反あたり5〜6俵 今 化学肥料を使用している。 1反あたり9〜10俵 米の保存 昔 俵に入れて納屋につんだ。ねずみに備えて、籾はブリキの缶(5俵)にい れたり、俵の周りに籾殻を詰め込んだりした。 米:麦=1:1 昭和25年以降 1升に2合(20%)の割合 農協に米を出す前は、5,6俵のうち、半分を年貢として納めた。残りの半分を兵糧米とし て食べ、もう半分を地主や仲買人に売っていた。 村の動物 昭和35年頃までは、農耕用の牛馬を各家1ぴきずつ飼っていた。雌がほとんどで、雄は 、3割程度だった。馬喰がいて、牛馬の仲買をしていた。その人たちは、対人関係が良く 話し合いでは、1歩も引かなかった。男らしくもあり、頑固者でもあった。 村の道 塩や魚は、福間からミサカ峠を通って人が自転車で週に1回程度売りにきていた。 村のまつり 春 川祭り(水を祭る) 夏 ダ祭り(牛馬を祭る) 冬 山の川祭り(山を祭る) この3つの祭りは、3軒ずつ当番を決めて行っていた。今では、集会所で行っている。 祇園祭り(7月15日) 庄屋村、乙藤、鉛の3つの小字の人々が参加。 なご祭り(7月 30日) すすきで直径約2メートルの輪を作りその中をくぐる。すると、1年間病気しないと 言われている。 昔の若者 遊び 映画を見に行く、ラジオを聞く、芝居を見に行くなど 青年所に布団を持って、泊まりにいって話をしたり、ラジオを聞いたりした。 そして、飾り用の縄を競ってなっていた。 仕事 男女の区別なく、夏の間は、かかりきりで田んぼの仕事をしていた。女性は、帰 宅してからも炊事や洗濯をしなければならなかった。 恋 世間の目がうるさかった(「脇田口説き」という歌ができるほど) 話をして下さった方 因 一彦;昭和9年生まれ 大津美穂 下川千賀子 ----------------------------------------------------------------------------- 鞍手郡若宮町小伏(クラテグンワカミヤチョウコブシ) 1.田圃 この地域の田がしこ名で呼ばれることは、まずないと考えてよい。ここで はすべて番地で呼ばれる。”大字小伏の小字**の*千*百*番地”と言い 表すのが常である。(昭和28年8月改定の田地所有者記録帳に記されたと おりに呼ばれている。写真参照) また、この小伏区では来年(2000年)に大規模な圃場整備を行なう。 機械化を充実させるために、いくつかの田をまとめることで巨大化を促し、 形もすべて長方形へと変えていく。これは小伏の地の発展に大きく貢献する と考えられるが、さまざまな点で違いが生じてくるのも事実であり、年配の 方々にとっては不安の種となっている。以下、その違いをあげる。 ・田圃の大きさを測る単位が反や町からha(ヘクタール)に統一され る。(1ha=1町、10ha=1反) ・田圃の数や大きさの変化により位置を示す番地が変わる。 今でもここ小伏には広大な水田が残されているが、昔に比べるとやはり少 なくなってきている。小字山の鼻にはすでに田圃としての土地はなく、コン クリート会社で経営をたてている。水田の減少はこれからの時代にとって大 きな課題となるだろう。 田圃には水の取り入れ口が必要である。これを水口(ミズクチ)という。 来年の圃場整備により変わるのだが、基本的に水口は水路にもっとも近い 水田にのみ存在する。そして、その田圃に水を取りいれてしまうと、残り の田圃のことまで考えることなく、水路に石を置いて、水をせき止めてしま うことも数多くあるらしい。従って、夜になると残りの田の所有者達は相談 し合って、その石をはずすために走り回るようだ。これを夜水引きといい、 現在でも行われている。 化学肥料の進化により、今では良田、悪田の違いはほとんどなく、ひとつ の水田につき平均して8-9俵とることが可能となっている。しかし戦前は、 かなり顕著にその違いがでており、良田で5-6俵、悪田ともなると2-3俵 しかとることができなかったようだ。(1俵=60kg) また、水口が個人個人で存在していなかったために、ここ小伏では現在、 裏作は行なっていない。たとえ作っていたとしても、今はせいぜい家族分程 度のものだ。これは、個々の都合で水を溜めたり溜めなかったりを決めるこ とができなかったためである。(具体例;Aさんが裏作として作っていた麦 を刈り入れる前に、水口をもつ水田の所有者であるBさんが、自分の田圃に 水を取りいれてしまったために、麦を刈り取ることができなくなってしまっ た。)裏作としては麦のほか、菜種の栽培も行なっていたようだが、結局の ところ、戦後40年ぐらいを最後に裏作はしていない。 一般的に、化学肥料の使用は戦後であると考えられがちだが、実際は戦前 から使われていた。しかし、主に使われていたのはやはり、牛の糞とわらを 混ぜ合わせて作る堆肥である。昔は一家に一頭、必ずと言ってよいほど、牛 を飼うことが当たり前のことであったため、堆肥には不自由しなかったよう だ。そうはいっても戦時中は、この肥料でさえ配給制になったらしい。馬を 飼っている家はほとんどなかった。 2.水路 ここ小伏は水にめぐまれた地域である。水源としては川、ため池、調整池 の3つに分けることができる。 ・ここ小伏は犬鳴川に沿って存在する。犬鳴川は地価が高く、川に沿って いてもその水を利用することができず、専らため池にのみ頼っている地域 も多い。その点、小伏は昔から水田が多く裕福であったため、犬鳴川の水 を十分に使用することが可能なのだ。 小伏では川の井堰を3つ所有している。小字川寄に庚神塔井堰、小字夕 津に三太夫井堰、そして小字射場ヶ元に非常井堰である。非常井堰はその 名のとおり、非常事態にのみ使われるために今は作動していない。特に、 庚神塔井堰の存在は大きく、小伏の水田の大部分に水を供給している。 ・小伏には5つのため池が存在する。正田ため池、身内ため池、縄手添た め池、出口ため池、井下田ため池の5つである。 ・若宮ゴルフ場建設により、大規模な木の伐採が行われた。こういった森 林破壊は大雨による水害をおこしやすくする。そこでゴルフ場のコース内 に5ヶ所、調整池と呼ばれるものをつくったのだ。小字で言えば、立地、 土器田、太良志浦にわたって存在する。今現在、5ヶ所の調整池のうち、 第一、第二、第三、第四の4つが使われているが、第五調整池は空池とな っている。 どの水源においても言えることだが、水源と水田のあいだに谷をはさんで しまっている場合、ここではサイホンと呼ばれる技術を使う。”ためます” と呼ばれる、水を溜めておく穴をつくり、そこから谷に沿ってビニールパイ プを通す。そして、その間に水を流すのである。簡単に言えば、トンネルの ようなものなのだろう。昔はビニールパイプのかわりに土管を使用していた らしい。このようにして、あらゆる水田に水を運ぶのだ。 ここ小伏には3つのサイホンがある。サイホンは集落の近くにあるのが大 きな特徴である。小字夕津と平田にかかる川沿いに3つとも存在する。サイ ホンに近い水田ほど良田といえる。 小伏がこれだけの水源をもつことからもわかるように、1994年に九州 地区を襲った大干ばつにも、なんら影響は受けなかった。しかし、若宮町全 域がそうだったわけではない。特に、対岸地区では干ばつがひどく、区長み ずから水の分配を頼みにくることもしばしばあったようだ。水を分け与える 方法としては、やはり井堰の水を落とすことが一般的である。そうはいって も干ばつ自体がここ小伏にとって、まったくの無縁であったわけではない。 大正時代までさかのぼるのだが、小伏区全域で協力体制をしき、十分な雨が 降るまでは控えめに米作りを行なったこともあったようだ。 これほどの水田地帯であれば、やはり水をはさんでの争いは避けられない。 昭和初期にも大きな争いがあった。小伏区所有の大井手井堰から200メー トルのところに、湯原区所有の五助(ゴスケ)井堰があり、それを小伏の人 間が落としたことから始まった。この水利妨害のために警察に捕らえられた 人もいたようだ。 3.小伏の祭り ・毎年7月14日、ここ小伏では夏祭りが開催される。ここ数年訪れる人の 数が激減しているため、14日直前の日曜日に行われるようになった。規模 的には以前の3分の1程度である。この祭りではまず、男性が赤飯を炊き、 特大の赤飯にぎりを3つ作ることから始まる。また、子供に相撲をとらせる ことも大きな特徴となっている。 ・10月30日には神送りの儀、11月30日には神迎えの儀をとり行なう。 神送りとは、小伏の神様を出雲大社にお返しすることをいう。神送りではま ず、未婚の男性がおにぎりを作る。そのおにぎりの中に1つだけ、胡椒の粒 を含んだものを用意し、それを食べることができた人のみ翌年嫁をもらうこ とができると言われている。今では、翌年結婚しそうな男性にあえてそれを 食べさせるらしいのだが・・・。 4.その他 ・<米> 収穫された米は大部分が農協に出される。残りは米屋に直接売ることで成 り立っている。これをヤミ米という。ヤミ米とはいっても、戦後の大混乱の 中で生じた、警察沙汰になるようなものではない。 今から50年前、そのような大混乱期において、米は今からでは考えられ ないほど貴重なものだったに違いない。にもかかわらず、ここ小伏ではその ような時代でさえ、白い米の中に麦を少し混ぜる程度であったようだ。 (米:麦=5:1)さすが米どころと言えるだろう。 ・<米の保存> 一般家庭の場合、米は基本的にモミをつけたまま保存される。そして、必 要に応じて精米するのだ。米が大量である場合、保存には冷凍庫を使う。 種モミは特別な扱いが必要であり、それは乾燥のさせ方に大きな特徴をも つ。普通の米は水分量が14-15%であるのに対し、種モミは17-18% でなければならないのだ。このような工程に手間がかかるため、今では種モ ミを自分で作らず、直接購入する人も増えてきているようだ。 ネズミ対策としては、ネズミに食べられないような袋に米を入れて、風通 しの良い場所に保存することが一般的となっている。それでもやはり、ネズ ミの害は避けられず、その分を見越して保存を行なっている。 ・<電気、ガス> 電気が普及し始めたのは大正時代である。この時代の電気は、今のような 九州電力ではなく、犬鳴川を利用した上脇田水力発電によるものだった。ガ スの普及は電気よりもかなりおくれ、戦後だったという。それまでは、ラン プを使い、薪で火をおこしての生活だったようだ。薪を購入することはほと んどなく、各自所有の山に拾いに行くことが一般的であった。所有の山を持 たない人は、共有山林での薪拾いとなったようだ。今でも共有山林は残って いるが、あまり広大なものではない。山までが遠いところに住む村人も、自 転車にまたがって薪拾いに向ったらしい。 ・<道> 隣の村へ行くのに、これといって定まった道はなく、時には川を横切るこ ともあったようだ。一方、通学路としては、小学校が小字脇田区にしかなく、 県道を歩いていくことが決められていた。 小伏は海から離れているいるため、海のものは福間の浜辺りから来る業者 に依存していた。これらの業者はいつも決まった道を通ってやってきたとい う。しかし、やはり距離があるために新鮮な魚というわけにもいかず、魚は 干したものが多かった。塩はこの地域にも販売店があったため、売りにくる ということはなかったようだ。 ・<昔の若者の生活> 昔の若者は、映画、芝居、歌、舞踊などを娯楽としていた。昭和初期にラ ジオが伝えられたが、この地で流行り出したのは終戦後だった。ただ、自分 でコイルを巻く、電気のいらないラジオは聴くこともあったようだ。蓄音機 なども娯楽のひとつになったらしい。 また、他の村との交流も深く、よその村の人間と小伏の青年宿で夜どうし 飲み明かすこともあったようだ。また、夜這いなどをすることもあったらし い。 ・<女性の仕事> 女性の一日は早起きして、飯炊きをすることから始まる。そして、田圃へ 行き、男性と共に働くのだ。また、冬になるとわら仕事が待っており、むし ろや草履などを作ることになる。草履は人間のためのみならず、飼っている 牛にも履かせることがあったようだ。 5.小伏の今後 来年、ここ小伏では大規模な圃場整備が行なわれる。河川も形を変え、巨 大なバイパス(支線10号道路)も走るようになる。今後もますますの発展 が続くことになるのだろう。 *お話を聞かせてくださった方々 氏名 生年月日 安河内 一孝 氏(小伏区長) 昭和13年5月21日 杉園 隆夫 氏 大正2年8月15日 *調査者 山岡 由季 山崎 いづみ *調査日 1999年7月16日 晴天 ------------------------------------------------------------------------- 若宮町黒丸 安永憲一:大正12年生まれ 村の名前 しこ名一覧 黒丸 サイショウゾン(才正園) エンドゾン オクゾン(奥園) デミの道(出見) 田畑 小字ナカボウ(中坊)のうちに サイショウゾン 小字ダイデンボウ(大殿坊)のうちに オクゾン ほか ナカボウとダイデンボウの境界 デミの道 安永恵美子:昭和3年生まれ 村の名前 しこ名一覧 黒丸 イナサク(稲作) オクノボウ(奥の坊) ドウノウエ(土井の上) ドウジタ(土井の下) ソブザカ コウシントウ 田畑 小字ジデン(地田)のうちに イナサク 小字カミヌマ(上沼)のうちに ドウジタ 小字マツオ(松尾)のうちに ソブザカ 小字オゾノ(尾園)のうちに ドウノウエ オクノボウ 小字シモコウジ(下小路)のうちに コウシントウ <しこ名> しこ名は言い伝えなので正式な由来は分からない。 小字は一般に広い地域を示すので、しこ名は細かく場所を特定するのに役にたつ。 その土地の持ち主の名前を地名に流用することもある。 なお、しこ名はさほど多くないという話を数人から聞いた。それぞれの地域によって、しこ名が多い少ないの差もあるらしい。 <村の水利> 昔は上の方の田から順に水を取っていたが、今は上も下も同じ権利になっている。 トンネルのために山からの水が使えなくなった。そのため、今は新幹線が水を運んでいる。 タンノウエの溜め池やハンの溜め池などを村で使用。 干ばつの際には話し合いをして、時間給水などの対策をしていた。 <村の耕地> 昔は、干ばつの時など下の方はひやけて米が取れなくなることがあった。 今は、水持ちがよくなったので格段の差はない。 <村の発達> 電気 黒丸専用の発電所があった。 プロパンガス 若宮町の農協が使いはじめると同時に一般に広がった。 それより昔は、豆炭などを使っていた。 <村の生活に必要な土地> 薪を個人所有の山から調達していた。 「一年のうち何ヶ月は、よその山に入ってもいい」という制度もあったらしい。 <米の保存> 昔は自由販売だったので、米を炭坑あたりに売りに行くこともあった。 ネズミ対策としては猫を飼っているところが多い。 ひょうろう米という呼び方があった。 なお、稗や粟を主食にすることはなかったらしい。 <村の動物> 馬を飼っている家はほとんどない。 昔、雌牛を1頭飼っていた。(雌は力がない分扱い易い) 今は耕運機を使っている。 <村の道> 昔は、車を使うとなると、わざわざ福丸を経由しなければならなかった。(歩きであれば、直通の道がちゃんとある) 今はオウダンセン(横断線?)ができて便利になった。 <まつり> 4/15 合社(ゴウシャ)祭り 7/1 百万遍(ヒャクマンベン)祭り 10/1 お宮座 12/3 恵比寿 12/24 山神(ヤマンカ)祭り 別名・餅祭り など <村の若者> 昔は周囲が遊ぶのに不便でなすべき仕事が山のようにあり、遊びに行くことはほとんど なかったようだ。(仕事内容は両親の畑仕事を手伝うことで、主に麦、菜種、はだか麦な どを作っていたそうだ。)夜、若者たちは時々夜学(やがく)と呼ばれる集会所に集まったようで、どさまわり、素人による園芸、青年運動会や盆踊りなどの男女共通の娯楽もあったようである。特に男子は他村との相撲の交流試合もあったようである。 青年運動会や盆踊りなどにおいて男女が出会う機会はあったようだが、恋愛結婚というものはほとんどなくあってもうまくいったものはいなかったようだ。親の目が光っていたということだ。 <村のこれから> お話しをうかがった安永憲一さんの考えは次のようだ。今の若い人たちは農業からとうざかっている。しかし彼らも、自分の親の世代がいよいよ畑仕事ができなくなったときは日本の農業を守るために自分たちで始めていくだろう。 <現地調査その日一日の行動> <武田> 7月16日午前9時15分バスで六本松を出発。11時半頃若宮町に到着。黒丸で僕たち調査班武田浩一と森貴裕はバスを降りた。どこで降りたのか、どっちが北でどっち南なのか全く見当がつかず僕らは目的の安永さん宅とは逆の方向に歩きはじめた。ひざしは射すように照りつけそよ風も感じない。焼け付く道路から離れ、涼しさを求め川辺を歩くことにした。何百メートルか歩いて、私武田が地図を持ってきたことに気付いた。もと来た道を 引き返す。ある畑の横を通り過ぎるとき、農作業着を着ている年配の男性から声をかけられた。少し話しをすると、その人がすぐに安永さんの父親だということが分かった。 お名前は憲一さんである。失礼して座敷にあがらせていただいた。正邦さんの奥さんから 麦茶とお菓子を頂いた。始めは恐縮していた僕たちも憲一さん夫婦の好意的な対応に次第に落ち着きを取り戻していった。質問を終え、憲一さんらにお礼を言って、安永さん宅を出た。 <森> 元来、乗り物酔いのひどい自分は、金曜日のために体調を万全にして現地調査にのぞんだ。 木曜日を一日潰しただけのことはあり、吐くというような最悪の事態を避けることはできたが、それでも多少の酔いはある。時間もあるので現地を迷っているうちに回復しようと 思っていたのだが、幸いにも安永さんの方から自分たちを見付けて頂いた。 問題は、予想外に順調にいったので訪問予定時刻よりもはやく安永さんの家にたどり着いたことである。先方には多大な迷惑をかけてしまったことと推測される。 それにも関わらず、自分たちの質問に丁寧に答えていただいたので非常に助かりました。