目次 若宮町稲光/金光
若宮町稲光 名嘉 良仁 真鍋 祐介 調査に協力していただいた方々 豊福 芳雄さん(88) 安永 葉子さん(71) 松尾 力さん (60) 荒木 義信さん(64) 村の名前 小字名 しこ名 稲光 宮の下 ふろふ竹(ふろん竹)、中しま、宮縄手(みやんて), 八反田、しとふ田、おひ田、戸板はずし 杭田 くひ田 杉園 すきぞの、舞谷(もう谷)、いけ田、森の元、 上屋しき 小金原 沼の元、小金原、きつね坂(きっつぁか)、 ときの浦 沖 大門(でいみ)、白土、いし橋、念佛場、長浦、 嶋の内 清水 む田、清水 平田 廻り町、さこ田、平田 前田 まへ田、見田、七はか、かじやその(かじやどん)、 あな田、五反田 谷 中みつ、谷 井の向 いじり、いの向、まつが久保、うらんたに 高柳 石か坪、高柳、山田、柳久保 海老 へび、えひさき 大坪 大坪、つか田、橋か元 園田 その田 川原 河原 米の山 笹田、鳥のす、たつ、いし谷(うしだん) 場所のわからなかった所 いわの、水あらひ、さなぼり(さなぶり)等 また昔、この村はお宮(宇佐八幡宮)中心であり、お宮に近い地方を上(かみ),遠い 地方を下(しも)とよんだ。さらに下(しも)の中でもお宮に近いほうを空(そら)、遠い ほうを下(しも)とよんだ。 村の水利 用水源 ため池(宇左官ため池、米の山ため池)、多々良川、黒丸川 飲料水は井戸水で揚水ポンプでくみ上げた また、ため池の水権は、平等であった。 干ばつの時には、お宮さん(宇佐八幡宮)、天の坊で雨乞いしていた。 この村の水は豊富であり、水がなくなったことがない。 ため池には、3段階の栓があり1994年の干ばつの時には、ポンプアップして ちゅうひから引水した。 村の耕地 水田(63町(63ha)) 山のふもとや谷、低地では、あまり取れない。 村の発達 昔、稲光村は、中村といわれていた。 電気がひかれたのは、大正4、5年位だった。 米について 戦前(昭和10年から)強制集出。 青田売りなどなく 、家族では個有米をたべていた。 米の保存 もみのまま家の中にある木の箱で保存していたためネズミは、はいらなか った。 村の動物 機械化される前は、農家に牛や馬1、2頭いた。 祭り 正月祭り お地蔵様 (愛宕将軍地蔵菩薩 7/23子ども相撲) 夏祭 お獅子様(家族みんなおはらい。無病息災をねがう) 氏神様の秋祭り (昔)おくんち (昔)60年頃前、お盆に浄土宗、浄土真宗の2つの寺の真向かいの1本道 で村人全員で綱引きがあった。 村の若い人 働く場所 役場、農協、中小企業 外に出ていく人も多く若い人は少なくなっている。 若い人で専業農家はいなくほとんどが兼業農家. 調査員 堀田直岐 増田智文 宮前陽一 私達は福岡県若宮町金丸地区を7月16日に歴史の認識の授業の 一環として訪ねました。その日の行動をまず整理しますと 9:00 集合 11:00 到着 11:30 現地の方から話を聞く 13:00 瀬戸住雄様宅に到着 聞き取り開始 15:00 終了 16:00 中央公民館に集合 16:30 遺跡を見学 19:00 帰宅 この日はとても暑く私達は汗をかきながら歩いて行動しました。 私達のこの土地に対する第一印象は自然に囲まれているということ でした。見渡す限り山と水田があり、川には小魚がおよいでいました。 それでは本題の金丸地区のレポートにはいります。 1、しこ名・・・明治15年の小名と現在の小字は聞くところによるとすべて おなじでした。 一覧・・・ニシノウラ、ウタバル、エチゴ、イシハラ、ウメキ、 テンジンメン、カンノンメン、ヤシキダ、ヒラタ、 カナマルヤシキ、カキタ、カリヤ、カリヤマエ、 カリヤウシロ、フカノグチ、モリノモト、 橋・掘は目立つものはなかったようです。井樋もなかったようです。 2, 山の名前 天神山、茶園谷、 3、村の水利 ため池を中心としていた。稲の収穫は2月から4月の間に行われていた。 昭和28年に大水害があって堤防も破れ大きな被害を受けた。 となり町との水源からの水の割合はそれぞれの町の水田の面積によって きめられていた。例えば若宮町の場合はほかの町と比べて割合が少なかった。 この地方にはため池が数多く存在していた。この事は昔からこの地方は、稲作 が盛んだったことを物語っている。現在でも稲作が盛んで、畑作は、自家菜園 程度のものしかなく出荷するほどのものはない。 4、昔の村の人々の生活や歴史 ・集落には共同風呂があり当番制で風呂の掃除や沸かしたり していた。その風呂は、混浴であるけれども全員なじみの人な のでとくにきにしていなかった。 ・定礼というものがあって毎年医者に米を納めていて病気や怪我を した時にはほとんど無料で看てもらえた。治療費を払うとしても お米で感謝の気持ちとしておさめていた。今で言う保険のような ものである。 ・大宮祭というものがあってくじびきによりそこの水田を五年間耕す 人が決められた。 ・仮屋には昔 、若宮八幡宮を造る宮大工として来た人が住み着きそのまま そこで生活しているため大工の人が多い。 ・金丸と水原(隣町)水路の使用料として弁納米を納めていた。 ・戦後の農地改革により地主は少なくなったが、それまでは貧富の差があり 小作人と地主がいた。地主が田畑を耕すことはあまりなかった。 ・商人が比較的裕福であった。 ・昔の子供たちはおもちゃなど買ってもらえる人は少なく自分でおもちゃ 等を制作して遊んでいた。例えば罠かけやこま、パッチン、たこ、竹馬 釣りなどである。 ・昔の人は水田に水を引くのを寒い時期の行った。その理由は、水は冷たい 時に体積が小さくなるのでたくさん水が引けて長持ちするからである。こ のように自然の知恵を至る所に利用していたようである。 ・ガスやテレビは昭和36年から昭和40年ぐらいにはいってきたようである。 それまでは、豆炭等が利用されていた。金丸は炭坑の近くなので豆炭が 利用されていたが地域によっては木炭なども利用されていた。また現在でも 利用している人も多々いるようである。 仮屋の地名のおこり 今から1700年前ごろ、神功后が朝鮮遠征の折、この地に(仮の宿)を とられたことから地名を(仮屋)とつけられたという説もある。 八幡宮の境内に樹齢数百年と思われる楠の大樹の横に一段と盛り上がった 地に(神功皇后駐輩の跡)という記念碑が建っている。古文書には、 鎌倉時代、京都六条佐目牛八幡宮の分社のことを(おかりや)というので、 (仮屋)の地名になったとも言われている。 若宮八幡宮の放生会大祭 若宮八幡宮は、(筑前国風土記)によるとその起源は今から約八百年前に さかのぼると言われている。 当時から若宮卿はもちろん、遠近の 老若男女が参拝に訪れた時にこの放生会大祭は、筑前国三大放生会(箱崎 宮、宗像神宮、若宮八幡宮)の一つと呼ばれて大変にぎわった。 流鏑馬、相撲大会、放生会などが行われた。現在ある八幡宮前の池は その放生池である。放生会は近隣の村から山笠も多く奉納され、出店も社前 左右にたくさん並び、祭り見物の人々の列はひきもきれなかったという。 特に若宮の山笠には可愛らしい雅子による太鼓 子は他の二宮二はない趣向で これを見物するために山笠の回りには何重というたくさんの人垣ができた。 感想 私達はなぜ現地調査などするのかと不思議に思った。なぜならパソコンや インターネットで調べれば経済的にも労力的にも無駄がないと思ったから である。しかしながら現地調査にはそれなりのメリットがあるとわかった。 それは、実際にその地の人に会って話を聞いてみることで彼らがどんな生活 をおくってきたのかが彼らの顔を見ることで私達の心を通して伝わってくる ことである。言うなれば心のふれあいである。これを用いると文字を通す よりも簡単に物事を理解できる。しかしながらこれは現地の人の多大な 協力が無ければなり立たない。いきなり見知らぬ人が来て、その人が質問 してきてもなかなか答える気にはならない。それを瀬戸住雄さんや、その 他の方々が協力してくださり今回のレポートができあがった。本当に感謝の 気持ちで一杯である。最後になったがこの講義はずっと続けていくべきだ。 なぜなら今の日本は過去を見詰め直さなければならない時にある。その時に この講義はきっと役に立つだろう。この講義を開いてくれた服部教授、 ありがとうございました。 協力者 瀬戸住雄様ならびに友人の方々6名様 若宮町役場