目次/若宮町宮永・金生・湯原

調査地 福岡県若宮町宮永 福永 亮 福本 健太郎 調査に協力していただいたかた 篠崎 正人(74) 若生会会長 調査日時 7月13日 宮永 小字高田のうちに * ヒワリダ (*は田畑) (日割田) 善斤 * オオヒラ ゼンキン (大平) (善斤) 大久保 ヤマカミ フクゼン チャヤ (山神) (福善) (茶屋) 八久保 アナンクチ (穴の口) 片鉾 ジョウノツジ (城の辻) 福田 * オザキ * イノツボ (尾崎) (井ノ坪) 伊串 * ココロイケ* イクシ * ニタンダ (心池) (伊久志) (弐反田) 麦田 * カラスダ *ハッタンダ*ヒノコ*ヒヤキ (烏田) (八反田) (火焼) 米の山 ガンギジョウ ウラヤマ 玉国 タチバナ イケダ (立花) (池田) 草場 タニカワ (谷川) @‘はっきりとは憶えていないが・・・‘とおっしゃっていた篠原さんだが、 次々としこ名を地図上に指し示していった。しかしその指ははっきりと ’ここ’とは言わず、’ここらへんだったかな・・’という感じだった。 場所や名前がはっきりと思い出せないときは、毛利さん(手紙をだした方) とあーでもないこーでもないと議論を繰り広げていた。 <村の範囲> 黒丸との境:神野、長谷溜池を通る長谷川(古川) 平との境 :米山川 <村の耕地> よく米がとれたところ :伊串(伊久志) 、福田 また、ほとんどの田で麦を裏作。米の豊貧は田の形状に依存 <村の発達> 昭和8年に村に電気がきた。 昭和40年にプロパンガス、外灯は戦後。 <必要な物> 薪は山の方で生活している人(山の所有者)から枝木を購入(物久 交換)していた。 <米の保存> 農協以前にも農協に似た組織があり、そこに集めていた。(農会、 産業組合)。また、籾箱(もんばこ)に保存。 <村の動物> 農作業用の牛を各家に一頭ずつ。(ほとんどがメスで子を産ませて それを副収入に。大きな家では雄、雌の2頭をもつ。雄は少ないが種 つけ用に飼っていたところもあった。鶏は各家にいた。祝い事、大き な行事に鶏を食した。 <村の道> 魚、塩は浜の人(行商)が福間の方から大谷溜池ー神野、長谷溜池の そばを通るみちからきた。ほとんど物々交換で入手。 <まつり> 昔は祭りは多かった。今は少なくなってきている。昔は氏神様中心。 <昔の若者> 若者は夜にはたまり場にたまり泊った。村内に好きな女性ができると 夜這いをした。(もちろん黙認の公認)隣村の女性と婚姻を結ぶ者も 結構いたらしい。 <その他> *村の水源 ー 神野、長谷、赤坂溜池 *干ばつのときポンプで時間給水 *昔の医者はそのつど治療費を請求せずに、米の収穫時期に皆が米を おさめた。 *牛を大事にしていた。牛肉はたべなかった。かわりに鯨、鶏 *黒丸との水争い(いざこざ)があった。 1日の行動 9:15 学校を出発 10:30 現地の若宮町に到着 11:00 金生の野見山さんの家に到着 お話を伺う 15:30 若宮町を出発 16:20 竹原古墳に到着 18:00 学校到着 解散 --------------------------------------------------------------- 金生のしこ名 ゴタンダ(五反田) ハッタンダ(八反田) コショウズ フジワラ(藤原) ハチマンダ(八幡田) ホウマンダ コガノハラ ビンカガミ(鬢鏡) コウザキ ウラノタニ 上記のしこ名は地図に落としてあります 地図に落とせなかったところ ノトウゲ(野峠) 金生にはしいどの特別な呼び名はなかった 金生の橋は現在と同じ呼び名である ニシキバシ(にしき橋) フクマバシ(福間橋) ダサイダバシ(駄祭田橋) 村の名前 ダイヂガウラ(大地浦) 2戸 ヒノクチ (樋ノ口)  10戸 エイゲ  (江下)   12戸 ナカショウジ(中小路) 14戸 マンプクジ(万福寺)  13戸 ナカ(中)       14戸 ニシ(西)       12戸 ヒガシ(東)      11戸 ニョライダ(如来田)8戸は昭和30年に隣の宮田町に移った 金生地区の役員構成 部落長  | 代理(副部落長)  | 評議員(田の水利管理をするミズアテも含まれる) 村の耕地と水利 村の耕地は大きく分けて3つの部分に分けられる(地図参照)田は、現在すべて乾田であ るが、圃場整備前は、湿田も犬鳴川周辺に少し見られた 村の耕地をA,B,Cとすると(地図参照)それぞれの水利にも特徴がある。 A(山付きの田)は、ノウトゲ、シンヅツミ等の溜め池から水を引いているB(平野と山 の間の田)は、溜め池とホウマンダ(宝満田)川からの水を利用している。C(平野部の 田)は宝満田川に加えて、犬鳴川の水を引き込んで利用している。犬鳴川の水は、金生橋 の上流付近から引き込んでいる。 金生の耕地は、管理上も3つの部分に分けて行われていて、水利を管理する役員、ミズア テ(水当)はそれぞれAの田では、オオイデ(大井手)、Bではイナサク(稲作)、Cで はカイサク(開作)と呼ばれる。 米の収穫量は、溜め池の水に頼るCの田より、A,Bの田の方が安定していて多い。 圃場整備は裏作を行っており、乾田では小麦や裸麦を作っていて、戦前、戦後の主食は米 8に対し麦2くらいであった。 一方湿田では、レンゲ草やナタネをつくり油をえていた 現在は、政府の方針で毎年、田の何割かを耕休田として野菜や大豆を作っている 1994年の大旱魃では、金生はほとんど被害を受けなかった。それは金生が水が豊富で あるからである。 村の発達 金生では、電気は戦前に入ってきた。またプロパンガスは戦後の昭和25年くらいだそう である。 プロパンガスが来る前の金生の生活はというと薪木を山でとってきて、それを燃料として 使っていたそうである。金生ではまた炭鉱に近いという地理的な特性をいかし石炭も利用 していた。 肥料と家畜 化学肥料が入る以前は、山の芝の早春の新芽を牛に食わせ、そのふんを肥料として使って いた。現在では化学肥料を使っていて、収穫量も格段にあがった。 家畜は各家に1頭が普通で、牛、馬を耕作や運搬に使っていた。 戦後しばらくは、バクリュウと呼ばれる人々がいて、彼らはそれを専業としていて、商売 上手な人が多く、バクリュウとの交渉にやられたと愚痴を漏らす人も多かったと言う。 米の保存と売買 以前は、モミのまま乾燥させ、浅い箱に何段もしいて、冷暗ところに保存した。モミのま まの米はまだ生きている状態であって、その管理は大変なものであったようだ。 米を農協に出すようになる前は、やはり地主に小作料を払っていたようだ。金生地区のほ とんどは小作人で、今回お話を伺った野見山隆次さん宅の前にある石井産業が以前は大地 主だった。小作人は、収穫量の4〜5割を地主に収め、その残りを自宅で消費したり米商 人に売ったりしていた。金生地区には宝満田川の上流地域には、自小作人と呼ばれる人た ちがいて、自分の田と地主の田を持っていた。 村の生活に必要な土地 金生地区にも入り会い山はあった。 鬢鏡、高山、勝山(地図参照)など。金生地区のほとんどの山は村の人々で分割して所有 していたが、村の共有のものとして利用していた。生活に必要な木は近くの山でとってい た。さらに興味深いことに近くに築豊地区の炭田があるので燃料としてボタ山から石炭を とってくることもあったようだ。 戦後、山林は私有のものではなくなったが金生地区では、上金生、下金生の2つの植林組 合を作って共同で管理している。 村の道 金生では特に村の道として名前はつけられていなかった。 村の祭り 戦前は、年に1度、オクンチと呼ばれる祭りが9月9日に行われていた。これは、金生地 区にある白山(地図参照)に宿る氏神に、米の収穫を感謝するものであったようだ。祭り は盛大なもので、太鼓をたたき、山笠も2本たてて御神楽も行われていた。金生地区では 9月9日に祭りがあったが近隣の地区(向田、原田等)はまた別の日に行われるようにな っていて、他地区との交流も大きな要素であったようである。 現在ではその祭りは村の役員と年配の人々が簡単に行われている様である。他の若い人々 は神無月になると太鼓をたたいて、白山の氏神をお送りする行事を行っている。 感想 今回、私達が現地調査に伺った金生のは水が豊富であるので、少々の水不足でも、ほとん ど被害を受けないということがとても印象に残った。 お世話になった人の名前 野見山 隆次さん 82歳 中島 敬太郎 村松 亮介  ---------------------------- 若宮町湯原 <湯原> しこ名一覧 小字俵石のうちに うど 小字千間のうちに 砂入 小字谷のうちに 東禅寺谷 小字大城前のうちに 野添 小字東花木のうちに 四反間 小字西花木のうちに しるめん 小字大越のうちに 朝鮮原・唐野尾 小字岩倉のうちに 山神・赤坂 小字芳ヶ谷のうちに 小屋が谷・桜ヶ谷 調査に協力してくださった方々 安永 蔵太郎さん(昭和8年生まれ) 小田 公平さん(大正10年生まれ) 小田 鈴子さん(昭和4年生まれ) 調査した学生 久冨木原 育美 貞刈 季代子 *良田は地図に赤で示す T水利と水利慣行について 水田にかかる水はどこから引水されているか。 湯原における川については、谷川、岩倉川、犬鳴川、山ノ口川であり、溜池については、大 越溜池、立田溜池、浄光庵溜池から水田に引水されている。また、山から流れ出る水も引 水されている。 何という井堰からとりいれているのか。 井堰(水を他にひくため、川水をせきとめたところ) 主なものは、茶屋ヶ元井堰、ゴスケ井堰、岩坪井堰からとりいれている。 用水は、湯原がすべて使うことができたのか、つまり単独の用水だったのか、他村と共 有だったのか。 湯原では、単独で用水を利用した。 1994(平成6年)、つまり今から5年前の大旱魃のとき、どのように水をまかなっ たのか。 湯原では、大旱魃というほどの被害はなく、飲み水にも困ることはなかった。しかし、田 においては、本流の犬鳴川からポンプで水を汲み上げて大旱魃を乗り切った。 U村の耕地のついて 圃場整備以前には、場所によって特に米がとれる所と、逆にあまりとれない所があった か。 湯原では、圃場整備は現在、個人個人ではしている所もあるけれども、全体ではこれから 行われる予定である。圃場整備の目的は、収穫差に関係するのではなく、田が狭いので基 盤整理をして大型農具機械が入るように田を大きくすることである。現在ある田は、大き くて1反である。それをこれから6反ほどに広げようという話し合いがなされており、今 年の秋ごろ実施される。 また、この整備は担い手事業の一貫としておこなわれる。ここ20年、兼業農家(サラリ ーマンなど)が増えてきているが、農機具などが高いためにその効率が上がらない。そこ で、農家は農家で分かれる、つまり専業農家を育成することも目的のひとつである。 戦前、化学肥料が入る前、米は反当何俵とれたか。 戦前は1反当たり5俵、今は平均すると8俵ほどになる。 良い田、悪い田では、どれほどの差があるか。 河口(例えば大城前など)は、日当たりがよく、平担地ということもあり、収穫が多い。 一方、山の近くは日当たりが悪く、収穫が少ない。しかし、山間部の米は山水が使われて いるので(水が汚染されていない)、汚染された水でつくられた川口の米よりも味が良い。 化学肥料が入った後では、どう変わったか。 収穫はいくらかよくなったが、農薬を使っているので質としては良くなっていない。収穫 の良い所と悪い所の差は、原因が水の質であるので、肥料は無関係である。 戦前には、何を肥料にしていたのか。 堆肥、人糞などである。 V村の発達について 村に電気はいつきたのか。 昭和10年ごろは、個人で川の水を利用して電気をおこしていた。当時は、脇田温泉のさ きとダイジガウラのほうに電気をおこす所があり、そこから電気をひいていた。(水力発 電) A村にプロパンガスはいつきたのか。 昭和30年以前は、大事なときにだけプロパンガスをつかっていた。本格的に使い始めた のは、昭和30年ごろである。昭和25年ごろは、風呂や食事の準備をするのにまきを利 用していた。 電気、ガスが来る前の生活はどうだったか。 電気の場合は、ろうそくやランプが使われていた。ランプは灯油を燃料としていて、ラン プみがきを古老はしていたそうだ。 ガスの場合は、まきが利用された。 W米の保存 米を農協にだす前の時代は、いつ誰に渡したり、売ったりしていたか。 小作が地主に米を納めていたころは、地主の倉にその米は蓄積されていた。それを商人が 購入し、利益を見込んで、人々に売った。 巧みなかけひきがあった。(これが来たら売らん、あれが来たら売る) 青田売りというのがったのか。 青田売り(稲が十分に成熟しないうちに収穫高を見越してあらかじめ産米を売ること) 青田売りは昔からあった。先年の米不足(平成の米騒動)の際にも青田売りが盛んにあった。 家族で食べる飯米はどうやって保存したか。 もみのままもみ倉に入れ、必要に応じて精米する。 ネズミ対策はどうしたか。 じかじかするスギの葉を入れていた。倉は泥壁でつくられていて、気温が一定に保たれて いる。だから倉自体がネズミ対策の構造となっていた。かます(おもに穀物・塩・石炭な どをいれるのに用いる藁むしろの袋)にもみを入れ、つるして保存した。 50年前の食事における米、麦の割合はどのくらいか。 米1升に対し麦3合(米:麦=10:3) この麦は真ん中に黒い線の入った黒麦。鍋で麦を煮て、ころころしたのをごはんにかけて 食べていた。50年前はいもごはん、つわごはん、だいこんごはんも食されていた。 稗、粟のような雑穀を主食にすることはあったのか。 稗、粟を主食にすることはなかった。 X村の動物について 牛や馬は各家に何頭いたか、雄だったか、雌だったか。 地主の家にはいなかったが、小作の家には牛か馬どちらかが必ずい1頭はいた。これは荷 馬車をひくのに必要であった。雄と雌は半々ぐらいの頭数で、おすは特に山の材木をひき だすことをした。雌は田の仕事が主であった。昔は母屋と小屋が隣同士で、牛や馬も同じ 家族同様に大切にされていた。 博労はいたか、いたとするならどんな人だったか。 博労(馬を売買・周旋する人) 博労はいた。50歳ぐらいの男の人。 Y 村の道 昔の隣村にいく道はどうか。 犬鳴峠 ― 久山 ― 博多 山道を通って1日で往復した。 犬鳴峠 ― 篠栗 ― 博多 ミサカ峠 ― 福間 山間部なのでどこへ行くにも峠を越えて隣村に行った。 学校に行く道はどうか。 鞍手高校までは、フクマルまで歩いて50分を自転車で行き、軌道(電車とバスをあわせ たような乗り物)で直方までいっていた。今は直通バスがでている。博多女子、博多高校、 タチバナ高校、香椎高校、九州高校へ行く人が多い。バス、電車を利用している。 勤めの人は乗用車、バスで博多に出る人が多い。 塩や魚はどこから、誰が運んできていたか。 塩は平地の店から購入していた。魚は福間から売りにきていた。平地の方の橋近くの飲食 店に、決まった時間におばさんが1週間か10日に1回めごを担って売りに来ていた。 (下脇田までバスで来ていた) 直方からはおじさんが干物を運んで来ていた。湯原では、干物や塩物を食べることが多い。 Z 祭りについて 村の神様や祭りにはどんなものがあるか。 日吉神社で春、秋にとなり組で祭りがあり、神主さんに祝詞をあげてもらい、テーブル5、 6を囲んで酒や恒例のなます、鍋物(水炊き)を食す。もとは個人の家をまわっていたが、 今は集会所で行われている。 元旦はお宮に行く。 14軒の小田さん、安永さんで御先祖祭りが行われている。半分にわかれて当番が決めら れている。水炊き、寿司、精進の吸い物、すみそがだされる。 家、かまど、水を取り扱うところを壊す際は、氏神様にお払いしてもらう。 全員参加するのか。 日吉神社の春、秋の祭りでは、22、23軒の家全部が参加。 [ 昔の若者 夜は何をして遊んでいたのか。 テレビも映画もなかった昭和25年ごろはラジオを聞いていた。久山ではとなり組に女子青 年団や男子青年団があって青年宿に集まって、夜にそろばんや習字の稽古をしていた。 よその家のつるし柿をとるレクリエーションや、8月には盆踊りがありエネルギーを発散 していた。10月(神無月)にはかみおくり、かみむかえがあった。