目次/福岡県若宮町:野中/浅ヶ谷/弥が谷・解原(クヌギバル)

若宮町野中 現地調査リポート 亀山淳一 阪下浩介  話を伺った方 塩川武雄さん(72歳、1927年生まれ) 松尾正さん(75歳、1924年生まれ) 野中 しこな一覧 ロクタ(六田)アカサカ(赤坂)ゲンタバル ゴタンダジカケ(五反田じかけ) サヤヌ キシカケ ヤマンクチシカケ イッチョウダジカケ ヨコノテジカケ トイシバジカケ ハタブ ラジカケ ヤマンシタジカケ ゴタンダウラ(五反田裏) シンガイ(新貝) イシボトケ (石仏) ツジ タカマル(高丸) ドウノモリ オオブリウラ(大振り裏)オタブヤマ タン ノキ(谷のき) カンノンサマ センガン(千岩) サヤントウゲ ハシラマツ(柱松) ジゾ ウノモリ サヤンカミ ムナカタンゴエ サヤントウゲ オカタンダニ タンノキダニ 集落の名前 ゴタンダ(五反田) コノナカ(小野中) オカタ(岡田) カワゼキ(川関) イナサク (稲作) イワバナ(岩鼻) 田畑 小字六田のうちに ロクタ(六田)、アカサカ(赤坂) 小字源田原のうちに ゲンタバル 小字五反田のうちに  ゴタンダジカケ(五反田じかけ)、サヤヌキシカケ 小字五反田裏のうちに ゴタンダウラ(今の山口小学校のあたり、畑) 小字大蔵のうちに ヨコノテジカケ 小字野中前のうちに ヤマンクチシカケ、イッチョウダジカケ 小字岩鼻のうちに ハタブラジカケ 小字瀬戸のうちに トイシバジカケ、ヤマンシタジカケ そのほか 小字奥のうちに ジゾウノモリ 小字五反田裏のうちに オオブリウラ(大振り裏)、ムナカタンゴエ 小字野中のうちに オタブヤマ、タンノキ(谷のき)、タンノキダニ、カンノンサマ  小字瀬戸のうちに センガン(千岩)、ハシラマツ(柱松) 小字原ノ前のうちに イシボトケ(石仏)、シンガイ(新貝)、タカマル(高丸) 小字三郎田のうちに サヤントウゲ、サヤンガミ、ツジ、ドウノモリ 小字岩鼻のうちに イナサク(稲作) 小字岡田のうちに オカタンダニ 備考 堰のことを「シカケ」とよび、その堰から水を引いている田もその名をとって「何々ジカ ケ」とよんだ。 ハシラマツでは、雨乞いの儀式を行っていた。 集落は、組(組合)という集まりに分かれていた。組は五反田、小野中(コノナカ)、川 関、岡田(オカタ)の4つがあった。川関組には、川関のほかに岩鼻、稲作という集落も ふくまれていた。 共有の山、草きり場のことを「マグサヤマ」とよんだ。 ヤマングチジカケ、ヨコノテジカケ、イッチョウダジカケの境界はいりくんでいる。 「サヤンカミ」は、舟形の自然石と小石。 村の耕地  田は全て乾田で、二毛作を行っていた。穀類や野菜類全般を作っていた。穀類は麦のほ かトウイモ(カンショ)、ダイズ、ソバ、ジャガイモなど、野菜類は白菜、大根、にんじ ん、ごぼうなど。 水利  主に川から引水していた。ため池は補助的に用いた  水争いは,小競り合いはあったかもしれないが,大きなものはなかった。水田の面積が それほど広くなく、川もあって水に恵まれていた。昔は今よりも川の水量は多かった。  水は水路ごとに管理しており、違う集落の者でも、その水路の水を利用する者は管理に 加わった。水路の管理については、2月に1度コウシンノコウ(庚神の講)が集落ごとに 行われていて、そのときに話し合っていた。水利責任者をおいていた。  水利用についての申し合わせは,特に決められていなかった。水が足りなくなることが ほとんどなかったため,必要なかったと思われる。水路の管理についてはタンベツ(反別) と呼ぶルールがあった。これは、堤の修理などにかかる費用をその水路の水を利用してい る田の面積に応じて負担するというものである。  94年の旱魃は,影響はなかった。昔から水には恵まれており、水不足になることはな かった  村の姿・暮らし  蚕を飼い、機織をしていた。紙漉きも行われていた。  材木は、炭坑の坑木にもつかわれていた。  畑の肥料には、いしばり(石灰)、だいずかす、牛の堆肥などをつかった。かや、しば などを牛小屋に敷いておき、それにふんが混じったものを堆肥小屋に入れておいた。堆肥 が最も一般的な肥料だが、炭坑からふん(人糞)を買ってくることもあった。近い炭坑で も1日かかる距離にあって、買いに行く際には野菜などを運んでいって売り、買い物もし て、ふんを持って帰った。 村の発達  昔は菜種油、その後石油ランプを使っていた。 村の生活に必要な土地  共有林もあったが、各自の所有する山も利用していた。共有林は,まぐさやまとよんで いた。木の利用法は、杉・ヒノキを建材に、松を坑木に、クヌギなどの雑木を炭にしたり、 シイタケ栽培に使ったりしていた。今は植林した杉・ヒノキが多いが、以前は松が多かっ た。松は20年で育つが、杉・ヒノキは50年かかる。クヌギなどの雑木は、共有林に多 くはえていた。炭焼きは,自家用の分を行っていた。五反田では組合を作って共同で炭焼 きをしていた。まぐさやまの手入れは、2月終わりから3月ごろに、下草が全部枯れたこ ろ、野焼きをした。   米の保存  米を出す先は、農協が出来る前からその前身の組合があって,そこに出していた。話を うかがった方が物心ついたころにはもう組合があった。  家で食べる米は兵糧・兵糧米とよんでいた。モンバコに藁つきのまま保存し、食べると きに精米していた。また、藁を編んで作ったカマスという袋に入れ,家の中につるして保 存していた。種籾は、カマスに入れて土間の天井の棚や庭先の棚などに保存した。種籾を モンバコで保存するところもあった。カマスでつるすと煙でいぶされ、防虫、乾燥の効果 があり、またネズミ対策にもなった。カメのある家はほとんどなかった。米と麦の割合は 家の裕福さにより違うがだいたい半々くらい。米や麦が減ってくると大根や芋を一緒に食 べた。 (カマスについて)90センチ四方くらいの藁の袋で,一袋4斗ほどはいった。自分の家 で作っていた。5軒の家でカマス組合を作り、売っていた人たちもいた。十年か十五年前 までは供出米にも麻袋ではなくカマスを使っていた。稲を干すときなどに使うむしろも作 っていたが、むしろは、端の方の始末が難しく、カマスより作るのは難しかった。 (モンバコについて)大きいもので1間四方くらいの小屋のようなもので、壁は木で、屋 根は瓦でふいていた。母屋と離して作ることも、納屋の一部になっていることもあった。 母屋と離したものは火事対策にもなっていた。収穫した稲をそのまま収めることが出来た。 (田畑の大きさなど)1軒あたり、田は1町くらい。山も平均して1町くらい。畑も1町、 大きいところで2町。ある集落の2割の家に蔵が会った。蔵がある家は本家筋が多い。田 畑の大きさについては、明治時代の「筑前の国地理全史」に具体的に細かく書いてあるそ うです。 村の動物 牛が、1軒に1頭か2飼われていた。ほとんど雌だが、山仕事用に雄を飼っているところ もあり、山仕事のときは雄牛を持っている人に頼んでいた。雄はこって・こってうし、雌 はうのう、子牛はべべとよんでいた。馬はほとんど飼ってなかった。 (ばくろうについて)牛馬の取引をしている人をばくろうと呼んでいた。村の中にもいた し、宗像など他のところからくることもあった。ばくろうは一目置かれていて、ヤクザみ たいな感じもあった。ばくろうになるには資金力、牛を見分ける能力がひつようだが、口 もうまかった。よくだまされた、とおっしゃっていました。 (やましについて)山の売買をしている人を山師をよんでいた。山師は商売気のあるひと がやっていた。山の面積、生えている本数、樹齢、木の種類などを見ていくらで売れるか、 いくらで買うか決めるので、見極める能力が重要だった。 村の道  五反田という集落は、道沿いにあるので、その道を「五反田道」と呼んだ。ナカミチと 呼ぶ道があった。  宗像から、新鮮な魚や、いりこなどの乾物が運ばれてきた。醤油、味噌はそれぞれの家 でつくっていた。ドブザケ(どぶろく)も大体の家でつくっていた。米だけでつくってい た。飲みやすいがきついお酒。寄り合いなどで集まるときに、ふるまわれた。去年、おば あさんの話を元に再現した。10、11月ころ,取り入れの後にしこみ、1、2月ごろに できる。酵母の変わりにイースト菌をつかって、1斗5升ほど出来た。  村には4軒商店があり、酒、たばこ、塩などを売っていた。つけで買うことができ、盆 と正月に支払うことになっていた。酒1升の値段はその当時の賃仕事の日給の3分の1ほ どだった。 村の決まり  まぐさやまの手入れ、野焼きや植林、また水路、ため池、堰堤の修繕など、村で共同で する仕事をでかた(出方)とよび、必ず戸主が出なければならなかった。戸主が出られな い場合は、みしん(身銭)といってお金を納めなければならなかった。 お祭りについて 庚神様 60日に一度庚神様の掛け軸を代表者の家にかけて寝ないで話し合う。話の内容は水利のこ となど村の取り決めについて。庚はサルタ彦で神は青面金剛のこと。延命や子孫繁栄のも の。 おしおいとり 玄関の横に砂を入れた竹の入れ物をつるす。砂は年に一回どこかから取ってきたもの。昔 は箱崎宮などから取ってきたらしい。 さなぶり 区長さんが野中全部の田植えが終わるとみんなに言ってごちそうを作ってその日は一日中 仕事をしないで休む。 おくんち 秋の刈り入れ後に宮相撲をしたり甘酒を作るなどする。 また、おくんち歩きと言って親 戚の家に言ってご馳走を食べるものもある いのこさま 10月の亥の日にもちをつき、橋の上から石を投げたりする。 えびすさま 11月3日の朝、川に魚を捕りに行き、その魚を竹で編んだ器にいれ 床の間に祭ったえびす さまにお供えする。 ------------------------------------------------------------------------ 若宮町 (浅ヶ谷) 野口聡利 お話をして下さった方:荒牧幸一さん 昭和5年生まれ 荒牧重昭さん 昭和4年生まれ 1999年7月16日(金)、「歴史の認識」の授業として「失われつつある通称地名を 古老から聞き取り、それを記録して後世に残す。そのほか記録されずに忘れられつつあ る昔の姿を記録する。」という趣旨で現地調査として若宮町浅ヶ谷を訪れた。 朝9時に六本松を出発して10時過ぎに目的地へ到着し、12時半頃から浅ヶ谷の区長 をされている荒牧幸一さんのお宅でお話を聞かせていただくこことになった。このとき 近所に住んでいらっしゃる、土地に詳しい荒牧重昭さんにもわざわざ来てもらい、いろ いろと教えていただいた。以下、おうかがいしたお話の内容を記す。 【しこ名】 田畑 小字葉ノ口のうちに ホンツボ(本坪)、コバグチ 小字浅ヶ谷のうちに タツノシタ(辰ノ下)、コゴヘ 小字葛ヶ谷のうちに ゼンマイワラ 小字見坂のうちに フケンタ(ふけ田)、ナガオサ、オオブダニグチ、 イシワラダ(石原田) 山谷 小字葉ノ口のうちに クエンクラ、オオクボ、ヤンブシダニ(山伏谷)、 クロエモンダニ、オクジュウベイ(奥十兵)、 カンマイキョウ(神舞峡)、キドダニ、ハナクバラ 小字葛ヶ谷のうちに ホトケダニ、ジンナイ(陣内) 小字見坂のうちに サラヤマ(皿山) 小字坂口のうちに ニュウドウダニ(入道谷) 小字金山のうちに ササオ 小字宮ノ原のうちに カゼフキ 小字鳴水のうちに チンサカ、ナカクラ、ウメノキダニ(梅ノ木谷) 沢 小字見坂のうちに キュウシチヤシキ 溜池 小字金山のうちに オナゴコロシ 峠 小字宮ノ原のうちに ジジリ 橋 小字浅ヶ谷のうちに サクランカワバシ その他 小字鳴水のうちに オオトシサマ 小字水汲谷のうちに キフネ(貴船) 小字坂口のうちに センガン(千岩) 【村の水利】 水田にかかる水は浅ヶ谷川、仏谷川などから引水し、村の単独の用水であり、他村との共有ではなかった。 1994年(平成6年)には福岡で日照りがつづき、渇水が起こったが、この地区では特に水に困ることもなく特別な水対策というのもなかった。また、今までにも水不足になったというようなことはほとんどなく、他の所が水不足になってもかえって晴天のおかげで農作物にはいい影響を与えるということである。 【村の耕地】 田には、米がよくとれるところと余りとれないところがあった。その理由として日当たり、水利、土質の差などが挙げられる。また、それぞれの田にはそれらのさによる等級がつけられていた。 戦前の、化学肥料が入る前に比べて化学肥料をもちいるようになってからは収穫量は増えたが、よくとれる田とあまりとれない田との差はそれほど変わらなかったそうである。 【村の発達】 村に電気がきた年:昭和11年頃 村にプロパンガスがきた年:昭和36、37年頃 電気が来る前の生活:電気が来る前は石油ランプを用いており、それ以前は「とうじ み」という皿に油を入れてひもをたらしたものであった。石油ランプなどのそうじは 子供たちの仕事だったそうである。 プロパンガスが来る前の生活: プロパンガスがくる以前は七輪やまきなどで火を使い、 まきは冬の間にとっておいた。 【村の生活に必要な土地】 入り会い山の有無:入り会い山(村の共有の山林)は存在し、しこ名でいう小字葉ノ口の「奥十兵」の辺りであり、そこではわら葺屋根などに用いるわらの採集などが行われていた。 【米の保存】 米は、農協に出す前の時代は個人売買であり、主に他の村の人たちに売ったりしていた。 家族で食べる飯米は「兵糧」といい、戦時中は特に「自家米」などといっていたそうである。 保存方法:保存方法は、もみ箱にもみのまま入れて保存していた。また、ネズミ対策としては、厚さ4cmくらいの松の板を使って箱を作りもみ箱にかぶせておいたり、もみだけを入れる専用の小屋を作って、その中に保存していたこともあったそうである。 50年前:50年ほど前の戦時中の食事における米・麦の割合は、1対1くらいで戦時中以外ではそれほど厳しい状況ではなかった。 稗・粟などのような雑穀を主食にすることはなく、栽培もあまりしていなかった。むしろ、稗・粟よりも いも・大根などを米に混ぜて食べることのほうが多かったそうである。 【村の動物】 各家で飼っていた動物は、牛がほとんどで馬は少なかった。また、各家に1頭が普通で、多くて2頭ほどであった。 各家で飼っていた牛は、子どもを生ませるために雌牛が多かった。一方、山の中から木を切って引き出してくるような力作業をする仕事に就いていた人は、力の強い雄牛を飼っていた。 当時は牛にえさを与えたりして世話をしなければならなかったので、旅行などには行くことはできなかったそうである。 博労(馬喰)は、仏谷に1人いて、正式ではないけれどもそのような仕事をしていた人がいたそうである。 【村の道】 塩:塩は福間から海水を運んできてそれからつくったりしていた。 魚:魚は、福間・津屋崎から自転車で売りに来る人がいた。自転車の前は馬車を使っていた。また、てんびん棒をかついで歩いてくる人もいた。 これらの物売りにくるひとびとは、この土地で休憩するとき菓子やタバコなど世話になったため、この地に記念碑を立てた。 【まつり】 以前は、金山様・貴船様など各所で小さな組でまつりを行っていたが、今では昔のようにしていたのでは大変になったため天満神社に7つの神社をまとめ、年一回全員参加のまつりが行われている。 【昔の若者】 テレビも映画もなかった時代、夜でも若者たちは働いていることが多かった。仕事の内容は主に農作業で、昼間に刈り取った稲を干しておき、夜にランプの下で脱穀をしたりした。冬には、そのような農作業のための道具を作ったりした。また、このように娯楽も少なかったため、山の神様を祭るというような名目の下でみんなでご馳走を食べたりして楽しむこともあった。 若者たちが夕ご飯の後集まっていた場所は、「区の集会所」・「青年宿」などと呼ばれ、そこでは世間話をしたり、珠算の練習をしたりした。また、そこには畳の間と板の間があり、畳の間では先輩たちからわら細工を習ったりした。よそのむらの若者たちがくるということはそれほど多くはなかった。 <調査者> 光原 昌寿 小桜 和彦 <調査地区> 若宮町内弥ヶ谷(ヤガダニ)地区および解原(クヌギバル)地区 <序文> 7月13日、雨がしとしと降る中、若宮町に到着した。僕たちは絵に描いたよう な田舎を想像していたのだが、町にはセブンイレブンもあり、思っていたほど田舎 ではないなと思った。しかし、それは町の中心部だけであり、一歩小道をはいった だけで田んぼが広がり、のどかな田舎の風景となった。 最初に訪れた家では、おじいさんが一人でテレビを見ていて、話を聞いたが、方 言がひどく、しかも早口で声が小さかったので、ほとんど話の内容が分からなかっ た。僕たちはその後に不安を感じながらも2軒目を訪れた。 2軒目の家は神谷貢(コウヤ ミツギ)さんの家で、とてもやさしそうな方であ った。神谷さんはとても丁寧にわかりやすく話をしてくれ、とても参考になった。 その後も、弥ヶ谷を何軒かまわったが、一番参考になったのは、神谷貢さんの話だ った。弥ヶ谷は神谷という名字がほとんどであったのだが、みんな親戚なのだろう か? 僕たちは弥ヶ谷での大きな収穫を胸に2つ目の調査地である解原(クヌギバル) へとむかった。 しかし、解原の範囲は狭く、かなり迷った。人に尋ねながらやっと到着したが 付近にみえる家は少なく、また僕たちは不安にかられた。最初に訪れた家で、 ”このあたりに詳しい方はいらっしゃいますか?”と聞くと、この付近には古老 の方は一人しかいないことが判明した。他の人はみんな若い人ばかりらしい。ち なみにその最初に訪れた家のおばあちゃんが一番古老のかたであった。しかし、 解原はしこ名がたくさんのこるほど広くはなくおばあちゃんもすぐに家の奥に引 き込んでしまった。しかし、その家族の方たちが、昔聞いたことがある話を聞か せてくれた。この方たちはとても陽気で笑いが絶えなかった。しかも若宮町の郷 土を研究していらっしゃる塩川さんという方の家を教えてもらい、ぼくたちは、 一路そこへ向かうことにした。そこは、解原からはかなり離れているが、何らか の手がかりが得られるのではないかと期待に胸をふくらませていた。しかし、塩 川さんの家に着いたものの塩川さんは留守であり、隣の家の人に聞いても、帰り が遅くなるのではないかという話だった。もう辺りは薄暗く、これ以上の手がか りを見出すことができなかったので、残念ではあるが、僕たちはここで調査を断 念することにした。 以下に調査内容を報告する。 <しこ名について> 弥ヶ谷内に、ミョウガダニ(明毛谷) カメノコウ(亀甲) カワニシ(川西) 山口内に、ヒルカゲ 解原内に、ヤナガタニ サヤノツツミ ウラノタニ (備考) 大字山口村において、6000番地台は旧カサマツ村であり、解原はカサマツ村、 山口村、 南郷村(現宗像市)にかこまれた地区であった。 * 以後は主に弥ヶ谷において調査した内容である。 <村の水利について> 主に、根頃溜池や、近くの井戸からのみずを田に引き、用いているようだ。そ れに関して、他の村と争いがあったということもなく、また使い方の取り決めと いうものも存在せず、昔の慣習に従い利用しているということである。また、1 994年の大旱魃について特にその年に旱魃があったということもなく、水害に おいての記憶は、昭和9年と昭和28年の大旱魃、そして平成11年6月29日 の大雨の話をしてくださった。昭和9年のときには、鶴ヶ谷溜池によってもちき ったそうである。平成11年6月29日の大雨のときには、近くの天満宮付近で 川が氾濫し、床上浸水が起こったそうだ。 <村の人々> 弥ヶ谷の村の人々の先祖は、元禄のまえのころにミョウガダニにすみ移った人 々であったそうだ。 <村の耕地> 田について、よく米が取れるところ、あまり米が取れないところについて聞い てみたところ、多少の差はあるものの、特に大きく違うというようなことはない らしい。 <村の発達> 現在は電気温水器を使っているが昔は薪を燃料にしていた。薪を誰かが売 たり買ったりというようなことはなかったようだ。主に、農作業のない冬場に各自 必要とするぶんだけの薪を取っていたらしい。 <米の保存> 米を農協にだすまえの時代について聞くと、当時は戦時中で売る余裕はなかった とのことだ。家族で食べる飯米については、ひょうろうと呼ぶらしい。 <村の動物> 各家には、よほど田のおおきな家でない限り雌牛を1頭ずつかっていたようだ。 馬や牛を交換してもうけるばくろうと呼ばれる人たちは、山口村辺りに2、3人 いたらしく、やはり口は上手だったらしい。 <まつり> 弥ヶ谷内には、天満宮があり、昔は春、秋の年に2回天満宮の祭りが行われてい たそうだが、現在では年に1度春にしか行われないらしい。 <昔の若者> テレビも映画もなかった時代、若者は何をしていたのかについて聞いたところ、 昔は、”青年宿”(せいねんやど)と呼ばれる集会所のような場所があり、男子は そこに集まって寝泊まりしていたらしい。女子は参加していなかったようだ。また、 よその村の若者も遊びに来るということがあったようだ。 <村の古道について> 地図に図示してある。 <感想> 僕たちは最初、この調査の内容を知ったときに、”なんてたいへんなさぎょうな んだ!”と思ったが、若宮町のいろいろな人と話しをし、人々の優しさに触れるこ とによってだんだん調査が楽しくなっていったように思う。1番最初の消極的な態 度も消え、自分から興味を持って、積極的に話が聞けるようになっていった。 土地にはそれぞれ昔ながらの呼ばれかた(しこ名)があり、ル−ツをたどってい けば、その土地のご先祖様が開拓したものであった。そしてその土地に名前(しこ 名)をつけたのも、ご先祖様である。今回は、残念ながらそのご先祖様の名前や、 そのしこ名がついた理由などは分からなかったが、そのご先祖様を大切にするため にも”しこ名”の保存は大切なことだと思った。 人が自然を拓き、田を作り、生活をする。それがいずれ町になり、長い時間の中 でたくさんの人がその人生を送るのである。少々大袈裟かもしれないが、そういう ことを大切にすることによって、人間の歴史が理解でき、未来へつなげることがで きるのではないだろうか。 人間が自然を開拓したときにその土地の歴史が始まるのである。そして、人間が その土地に愛着を感じたときにしこ名がうまれたのであろう。僕たちが最初に見た 若宮町の田舎の風景は自然ではなかった。それは、ご先祖たちが作り上げた人工の 風景だった。 1999年7月23日   後日 神谷貢こうやみつぎ氏よりテレあり。地名にはナコウバナ、ネゴロ、トビイシ、ウエノシタ、イワシタ、トノミヤマ、トリゴエ、マエノタニなどがあるとのこと。