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弔辞   9月1日 若ノ花勝治氏逝去。                (若乃花)

 新聞では感傷的なコメントを述べる人が目についた。わたしぐらいか、もう 少し年上のひとだろう。わたしも同じである。  ものごごろが付いて最初に夢中になったのが相撲である。学校の隅っこの土 に棒で大きな円を書く。その頃はクラスでも大きな方だったからたいていの子 に勝ったが、トシ、伊藤敏ちゃんという子がいて、どうしてもその子には勝てな かった。小さい子だったが、文字どおり俊敏だった。  子どもはショウヤで遊んだ。小さな絵札を地面にたたいて相手のショウヤを 裏返せば勝ち。相撲取りの絵があって、吉葉山を好きになった。吉葉山の全盛 期は記憶がない。まもなく栃若時代になった。  一度伯父に連れられ、金山体育館の名古屋準場所に行った。従弟がケガか何 かしたような記憶がある。まだ保育園にも行っていなかったかもしれない。小 さすぎて、そのときの相撲や力士の記憶はない。  相撲ファンにはなったが、テレビはまだない時代、リアルタイムで相撲をみ ることはなかった。  相撲はどこでみたか。映画館のニュースでみた。「黒い弾丸・房錦」、「潜行艇・ 岩風」少し後だが「人間起重機・明歩谷」---ニュースのアナウンサーの語り口が よかった。家でとっていた雑誌『大相撲』を読んで詳しくなった。  若ノ花と、それから同門の琴ヶ浜もすきだった。花籠部屋力士(若ノ花)が 本家の二所ノ関一門(琴ヶ浜)と当たることはなかったから安心、琴ヶ浜は若 ノ花を側面から守る応援隊のようなものだった。  場所になると若ノ花の名前を書いた小さなノボリを作ってラジオを聞いて応 援した。若ノ花ではなくて若の花だったかもしれない。あの人はよくしこ名の 表記を変えた。星取り表も作った。  絶対に負けるはずはないのに若ノ花が負けた。父が「ひでちゃんがちゃんと 応援せんで負けたわ」といったので、泣いた。若ノ花に対しても父に対しても くやしかった。  若ノ花と栃錦の対戦で栃関の髷が切れてザンバラ髪で相撲を取ったシーンは 表情とともに記憶にある。その頃映画ニュースでみたのか、あとになってみた ものかははっきりしない。若ノ花の子どもがチャンコ鍋につっこんでヤケドで 死んだ。この事件は怖かったからはっきりと覚えている。成長していれば貴ノ 花以上の力士になったかもしれなかった。  映画「若ノ花物語」は近所の場末映画館まで来てからみた。都心の映画館は封 切り上映、浄心はその反対で一番最後にフィルムが回ってくる。時々フィルム が切れたりする。  子どもが死ぬシーンはいつ来るのか、こわごわとどきどきしながらみた。若 ノ花本人も出演していたが、女優さんとの台詞のやりとりが、あまりに棒読み で、がっかりした。若ノ花が子どもの名前を書き込んだ数珠を首にかけて支度 部屋にいるシーンは、いまでもみれば涙が出るだろう。  栃錦が初日から二連敗しただけで引退したときは本当に驚いた。あんなに潔 い人はそのあとも見たことがない。若ノ花に引導を渡したという栃ノ海をすき になったが、この弱すぎる横綱には熱中できなかった。そのあとは大鵬も清国 もよかったけれど若ノ花ほどには熱中しない。  若ノ花が原点だから、貴ノ花も貴乃花もすきになった。いまは弱い魁皇を惰 性のように応援している。魁皇が勝つとうれしい。  映画「若ノ花物語―土俵の鬼」は昭和31年(1956)日活とある。女優さんは 北原三枝(石原裕次郎夫人)だったらしい。じぶんは7歳のはず。「名寄岩物語 ―涙の敢闘賞」もみたが、おなじ年1956の映画とある。小学校三年生以降の記 憶しかないと思っていたが、相撲のことは二年生以前のことも覚えていた。記 憶はそのあとのテレビで増幅された部分もあるだろう。  じぶんの相撲熱はラジオを夢中で聞いたあのときがピークだった。テレビも なく画像も見られなかった。仏壇返しもリアルタイムではみていない。みられ ぬものへの熱中だったのかもしれないが。 若ノ花勝治関に合掌。

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