宿 学生レポート 1999年 服部研究室実施
久留島暢之
坂田悠
佐藤秀一



1970年代から1990年代にかけて日本の農村において多く圃場整備事業が行われ
て、機械化農業に適合した大型水田への造り替えがなされた。これにより忘れられつつあ
る昔の村の姿、記憶を記録するために、若木町、宿に詳しい原口巧さん(昭和2年生)、
原口強さん(昭和7年生)に昔の状況をお尋ねした.


 事前にうかがう際の都合の良し悪しを尋ねるための手紙の返事に、本部(モトヘ)地区
の百堂原(ヒヤクドウバル)黒岩(クロイワ)宿(シュク)原(ハル)本部山中(モトベ
ヤマナカ)に詳しい方々が、当日百堂原の山口さんのお宅に寄合のために午後1時に集ま
るということで、会議が始まる前に時間をさいていただき、お話を聞かせていただくこと
になった。


・しこ名、通称地名について
 この地区では、5軒くらいで酒を飲んだり花見をしたりする集まりを、茶ゴ内(チヤゴ
ウチ)と呼んでおり、カミシュク(上帝)、ナカシュク(中宿)、シモシュク(下宿)、マツ
バラ(松原)といった4つの地域に分けられるそうだ.(具体的な区分けは地図参照)
 また、タンナカ(田ん中)については、はっきりとしているもので,タジモ(田下),キ
タノマエ(北の前)と呼ばれるものがあり、はっきりとしない場所については、話し合っ
てもらった結果として、シュク(宿)、シュウジと呼ばれるものもあった。(地図参照)
 その他、山や谷については特別な名前ついておらず、原口さんが進んで話してくださっ
たことには、石を川の水面から数十センチだけ出しておいて、同じように間隔をあけて並
べて置いて作った橋のことを、その上をピョンピョンと飛んで渡ることから、ピョンピョ
ン橋と呼はれる橋があることを聞いた。(写真参照)


・水利、慣行について
 昔は水をどの様にとり入れてきたかとの質問には、水のとり入れ方については、百堂原
辺りから水路をひいてきていたとのことだった。宿内部には水路はなく、田の真ん中を通っ
てきていた。詳しく説明して下さったことでは、だんだん畑の位置の高い場所から低い場
所へと特に水路といった決まったものはなく、自然にまかせているようだった。また、旱
魃の対処については、黒岩の唐人池というため池があり、そこの水を利用することもあっ
たというが、旱魃のときにはそこの水も当然のように十分あるというものではなかったと
いう。最近では平成5年に大旱魃があったらしく、めずらしい事のようで、対処法として
上流の方にダムがありそこから少し水を送ってもらい、川をせき止めている5〜6mの板
の少し下ぐらいまで水位が上昇したらポンプでくみ上げて下流の方に流すというポンプア
ップ方式をとっており、「よそのをとってはいけんから、ポンプで水をあげてもってくる。」
そうである。また、「堀とかはなった.」そうである。


・村の耕地について
 圃場整備前の収穫高の差は、少しはあったそうである。その理由としては、地力が当時
は
ものをいっていたからのようである.湿田は「ふけた」と呼ばれており、湿田の方では地
盤
がしっかりしていないために思うようにいかず、収穫時の排水もうまくできず乾田よりは
収穫量があがらなかったらしい。しかし、その差は見た目で判るほどのものではなく、収
穫後に比べてみて若干の違いがあることが判るほどのものだったらしい。湿田は主に山の
ふもと周辺に広がっているという。化学肥料が入る前後の収穫の差については、むかしが
6俵ぐらいのところで、昨年、今年のよくとれるときで8俵となるくらいの差であるそう
だ。また、戦前の肥料は、堆肥、大豆かす、魚粉や堆肥のかわりに草を切ってタンナカの
中にいれたりしていたようである。


・村の発達について
 電気の通った時期については、「住む以前からで分らん。」ガスの通った時期については、
「昭和30年から40年くらいやなかや?」とのこと。ガスがくる以前にはたき木をつか
っており、、そおしてガスが通るよりも先にまず灯油が使われるようになったようだ。


・村の生活に必要な土地について
 このことについて尋ねると、
「あるっすよ、自分の山をもっとるけんそっから(たき木を)出しよった。現金収入はな
かったけん、青年は冬にはたき木、夏は魚とりをした。」
とおっしゃっていた。


・米の保存について
 終戦後に農協ができるまでは、だれかに売る目的でつくっていたことはなかったようで
ある。ただし、地主がいた様で、次のようにおっしやていた。
「終戦前は地主がおって、ここらには2軒あった。そいで年末のいごろ?になれば、小作料
を米で返しよった、昭和初めの頃から終戦前まで。地主制度がのうなって、自分の分しか
作りよらん。」
また、家族で食べる米は保有米といい、かんがと呼ばれるトタンでまるくつくったかめに
保存していたようである.次の年の種は、たねもみをつけたまま別個にとって稲の茎で作
った縄で織った、かますと呼ばれる袋に入れてかこっていた(保存していた)そうである。
青田売り)について質問すると、
「現金収入がないんで生活に苦しみよった。んで、収穫前に(まだ稲が青いうちに)田を
売りよった。」
と実際に青田売りが行われていたことがわかった。ねずみ対策については、
「(被害は)ひどかったよ、ずら〜つと百俵くらい(積み重ねて置いてある中)の下の−・俵
がくわれた。そんときは、倉庫の隙間を埋めて薬品ガス燻蒸をしよった。」
とのことであった。50年前の米と麦の割合については、次のようにおっしやっていた。
「(詳しいことは)女子しか知らんなあ。米5:麦2くらいかな。」
稗、栗、芋を主食にしたことがあったかという質問には、
「あったのは終戦当時くらいかな。私共、あわもちをつきよったもんね。あんがいうまか
よ。」と答えた下さった。


・村の動物について
 昔、牛や馬を飼っていましたかと尋ねると、
「はい飼っていました。タンナカでつかってた。(各家で)だいたい一匹くらい。」
オスかメスかと尋ねると、強調して、
「メス。ふんをタンナカで使いよった。」
とおっしやつていた。ばくりゆうについて尋ねると、
「よくしっとるね(笑いながら)ばくりゅうさんてのは、牛や馬をかっとった時金をとっ
てせりをする人たい。そうしてばくりゅうさんは生活しよったたい。(私達では)なかなか
(売り買いがうまく)できんで取り引きできんかった。」
ばくりゅうは口がうまかったのかと聞くと、
「だいたいその道に入ると口がうまくなった。」
馬入れ川や馬捨て場はあったのかという質問には、この辺りでは知らないということだっ
た。


・村の道について
 昔は、隣の村に行くための道も学校道も同じで、今のバイパスがある道だったそうだ。
また、「〜ノウテ」と呼ばれるような道はなかったそうである.古い道をどんなものが運ば
れてきたのかと尋ねると、
「運ばれよったのは、あの〜・・・米ができればわらがとれるでしょ、それで作ったむしろと
か、わら工品、そういうものを馬車で運んで駅まで行きよったたい。今みたいにトラックは
ないからね。」
魚や塩はどうしていたのかを尋ねると、
「魚は伊万里から行商人が自転車で売りにきよった。塩は店で買いよった。」
それをどうやって運んだのかの質問には、
「60kgくらいつめる自転車があったもん・。それで運んできた・」
とのことだった。


・まつりについて
 村の神や祭りにはどんなものなのかと尋ねると、その返答として、
「え〜淀姫神社、ここでいつ頃からか知らんけど夏祭りはやりよった。それから貰い男3,
40人が10月31日、神無月は何月かいな・・・−10月です一 神無月に(神様が)帰
って来らすけん、カミマチ(神待ち)をしよった。若い衆がしよった。本部の原、宿、百
道原、黒岩、本部山中の5部落でしよった。本部は一つの部落になっとるわけよ。綱引き
もしよったばい。大綱引き。8月15日に。終戦まで。7月役者さんやとうて行事の祭り
はしよった。」と話して下さった。


・昔の若者
 昔の若者は何をしていたかと聞くと、
「何をしよったか・‥‥、冬はたき木とりたい。夏は…。若者ね・・・・、子供遊びもしよった
よ、いろいろあってんが、むくろなげとか(今のビー玉のようなもの)。」
男の人は夜どんな仕事をしていたのか、女の人はどうであったかとの質問には、
「青年時代は公民館を青年クラブといって、朝までみんな居ったわ。そこでみんな寝泊り
しよった。打ち合わせ、花札、将棋ばしよったですよ。」
また、後から思い出したように、
「青年クラブって言うのは、戦時中、上級のもんは下級のもんを徹底してしごきよった。
寝る前にも先輩の布団を後輩が敷くとか、ピシヤーっとしよって勉強にもなった。」
と思いにふけっていらっしやるようだった。また、力石はしていたのかという質問には、
「それはしよった。60,50kgの石を首のまわりをまわしよった。若い時。まあ−、つ
まり力比べたい。」
と楽しそうにおっしやつていた。そして
「悪さしよった。夏にはスイカを・・・」
と言っていらしたので、干し柿泥棒の件について尋ねると、
「神待のときにしよった。そんときは(お互いに盗んでいるから)やかましい言われんか
ら、知らんふりして取りよった。干し柿はとりよかよ。{図を描いて説明しながら}(芋を
つるしてある片方の)ひもをとれば、(竿が傾いて、干し柿が)ドドーツと(落ちてきて)
とりよかったわけ。」
と青年時代をなつかしんでいらっしやる様であった。他の村との交流について聞くと、
「そういうことはあら−した。」
 とのこと。交流を妨害したことはあったのかと聞くと、
「そら−なか−。一時あったかもねー。」
とおっしやていた。隣町の者が来るときには酒などを持ってきたのかと聞くと、
「そんとき酒はなかった。そけん、結婚式のときとか(貴重なので買わずに)どぶろく(米
の酒)をつくっていきよった。祭りん時(ほかの村のもんが)まざるとは‥・良い。」
ということで、縄張り意識は特になかったようである。若者の男女の恋について、男女が
どの様に知り合い、恋をしたのか、恋愛の自由はあったのかと尋ねると、まじめに、
「やっぱり、自由じやなかったよ。半々くらいかのう。やけん決められたのと恋愛が半々
くらい。男と女が話すことが悪者やって、堂々とできんやった。例えば、(女の子に)学校
帰りを遠回りさせて(男に)ふれさせんようにしとった。」
とおっしやっていた。


・村のこれからについて
 村の姿の変わり方について聞いたところ、極端に変わったところは家がほとんど建て変
わったことで昔のままの家はまずないそうだという。2番目に変わったと思えるところは、
車の時代になって、昔の道路では通用しないので新しくなっていったこと。そして3番目
には男女間の意識の変化があげられた。最後に、村はこれからどうなっていくと思うかと
聞くと、この質問に対しては険しい顔つきになり、
「これは難しいことで、(若者と老人では)考え方が全然違って(私達老年の者は)親のタ
ンナカを自分が継ぐことを(当然のように)考えるけど、今の若者は何でもうからんこと
をするんかというてせん。そこが問題なんよ。」
−と真剣に話して下さった。


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