若木町下村学生レポート 1999年 服部研究室実施 原口 武さんの紹介で、昭和2年2月1日生まれの松尾 菊次さんに話を聞きました。 調査者:長 聡子 籾井 舞 <田んなかのしこ名について> ハル(春)・オオフカ(大深)・アラカワハル(荒川春)・シミズマタ(清水又) アラカワ、(荒川)・ヒロハヤタ(広早田)・フチノウニ(渕ノ上)・ダイ(大茂)・デカワゴ(古川古)・マツノハ(松ノ葉)・カネアテ(鐘当)・カミヤウラ(神谷浦) オオイシノタニ(大石ノ谷)・ノナカ(野中)・コバ(古場)・マゴロク(孫六) ヒラバル(平原)・シイケガワ(椎ケ川)・イシノタニ(石ノ谷)・ツバキカワ(椿川)・ツユワル(露割)・オオヒラ(大平)・ワカマツ(若松)・イワノタ岩ノ谷) <シュウジ(小路)について> 下村には65戸あって、それが8つの班に分かれている。 フルキダニ(古木谷)・マツオ(松尾)・ミチバタ(道端) アラカワ(荒川)・ガッコウ(学校)・クギノハラ(釘ノ原) ホリドオシ(堀通)・オオイシノタニ(大石ノ谷) 堀通は、神谷浦に堀を通していたから、この名がついたらしい。 <橋について> シユリ橋・栞橋・古川古橋・渕ノ上橋・第二渕ノ上橋 学校橋がシェリ橋という名前になった。 忠雄黒橋が橋の架け替えで栞橋になった。 <村の発達について> 電気:明治頃に普及した(笑いながら、生まれてなかったので、よく分からないとおっしゃっていた。) プロパンガス:昭和30年前後に普及した。 <村の生活に必要な土地について> 入り会い林野:古場・野中・椿川 20年前に圃場整備でなくなった。現在では、法人の森林組合になっている。 もや山(共有林):椿川 マツリダ(祭田):班ごとに苗を持ちよって、苗を植え、収穫された稲で、12月に祭りを行う。余った米は売って、その米代で春にお花見など行った。 農協に出す前の時代:商人に小作料としてとられていた家族で食べる米は 飯米(はんみゃー)といった。米の保存は籾倉で行った。 戦時中:米を作っても、強制的に出させられた。芋(かんしょ)も割り当てられた(無断で売ったら閣行為とされた。)かぼちゃも出荷していた。ソバ、粟、 キビを個人的に作り、正月の餅にした。芋を輪切りに切り、乾燥させて粉にし、食した。松の根を刻み、炊いて油(ヤニ)をとって飛行機の燃料にした。 終戦後:山からフキや、ツワ等を取ってきて、里芋や大根、麦と一緒に炊き合わせて食べていた(今の雑炊よりひどかったもんだとおっしやつていた。) かぼちやは、今より水っぽく、芋は大きくておいしくなく、多収穫を目的に 作られていた。 <村の動物について> 牛・馬は各家庭にいた。牛は農耕用で、雄・雌はあまり関係なく、農耕の上手な牛が 好まれた(,馬は運送用で、一部落に一頭くらいの割合でいた。祭殖の為、雌牛をかう家もあり、生まれた仔牛は、ばくりゆうさんに売り渡していた(仔牛の売り買いをしていたのは、ばくりゆうさんだけで、その人の言いなりになっていた。)牛の餌は、夏は草で、冬は麦わらに米ぬかを混ぜたものだった。 <村の道について> 塩は伊万里の海岸に、まきを持っていってこ晩かけて海水を炊いて取っていた。 高橋(70〜80年前の朝日町の繁華街で商売の拠点だった。)に満潮の時、船が 入ってきていて、モノを運んできていた。 <まつりについて> 夏は祇園まつりがあり、全員参加していた(昔は部落がなかったから。)た。 戦後は、素人演芸や青年クラブによるまつりのための、踊りや芝居の稽古が行われた。 11月15日:おひまち(日を待つ) 晩、青年クラブで集まって、野菜や干し柿等を近所から盗んできて (この日だけ許されていた。)夜12時頃から食べて、酒等を飲んで 夜通し遊んだ。下村では、,てんくさおどり,(裸になってお腹に 墨で絵を書いてすり鉢やひしやく等を手に持って踊った。)をした。 それから15日間12月1日の朝までおどりの稽古をして、近くの3部落 が集まって踊った。12月1日{かんまつ(神を待つ))の朝その部落 の女の人達が集って、おにぎりを作って、お参りに来た人に配った (その内ひとつだけ、中に塩のかたまりを入れ、そのおにぎりに当たった人 は縁が結ばれると言われていた。) <昔の若者について> 川古川の合流点(湯の口)で水泳等をして遊んでいた。(とても懐かしそうに話していらっしゃった。) <村の耕地について> 良田:渕ノ上・大深・荒川春 泥の探さ(表土)が深かったので米がよく取れていた。この土地は半湿田でうねを、クワで作って麦を作っていた。 悪田:野中・古場・平原 この土地では稲が根腐れを起こしていた。 *良田では8俵、悪田では6俵ほど取れていた(1a当たり) 1俵=60kg 肥料は野中から草をとって来たものと、牛肥であった。わらは縄やむしろ、牛のえさにしていた。 野中は一斉に野焼きされていた。 化学肥料を使うようになると野中は各個人に払い下げになった。 化学肥料の使い始めは、各個人で、自分の家の田に合った肥料を混ぜ合わせて作った。現在は、各田に合った肥料が販売されている。 現在では1a当たり平均8俵取れ、出来のいい時は10俵取れる。
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