若木町永野学生レポート 1999年服部研究室実施

 1.永野一帯の水利状況について
 永野地区の中央部に位置する永野川。その側に住んでいたおばあちやんにお話をうかがっ
  た。
 「ん〜、そう言えば、ん〜、あれは20〜50年ぐらい前やったろか〜。あん時は大洪水で今
 永野川を見っと水も少なかばってん、もうそん時は溢れ返ってねえ〜。うちんとこは流さ
 れんかったばってん、もう少し下流の所の家ん人は家を流されたとよ。」
 実際、川の水量を見るとこれで本当に4軒もの家が流されたのかと思うほど少ない。しか
 し、大雨が降ると近隣の山から押し寄せる水によって相当な水量となるそうである。例の
 洪水の時には自衛隊が派遣されたというのだから、その量のすごさがうかがえる。この洪水
 が起きてから、この永野の中島橋付近の人々は永野川のさらに下流の方に移り住んだそう
 である。私はここまでの話から、付近の本部ダムというダムはこのような洪水に備えたも
 のであるのかと思い、尋ねてみたところ、確かに洪水に備えてという一面も持つが、それ
 以上に重要な目的として、大干ばつに備えての飲料水の確保があるということだった。実
 際、平成5年の大干ばつの際、ダムの水はほとんど底を尽きかけていたが、下流の伊万里
 市の要請により放水したが、土地がやけてしまっていて、すぐにしみこんでしみ無駄にな
 つたとのことだった。本部ダムの上の方には、上川内、下川内地区があるが、そこはダム
 の上流に位置するため、11台のポンプで本部ダムの水を汲み上げたが、途中で断念したと
 最近までダムの管理をしていたというおじいちやんから聞いた。最近では環境破壊などの
 問題点からいやがられているものと考えていたが、それどころかこの一帯の地区の人々は
 感謝しているようであった。
2.永野一帯の「しこ名」について
「しこ名はありますか?」との問いに対して地元の人々は「そぎゃんとは知らんばってん
が昔からいわれとるのはあるよ。」と口をそろえて言った。
その一つとして<陣屋>というものがある。これは地図で見ると永野橋の南東にあたる山
の西側斜面一帯のことを言う。この<陣屋>という名前の由来については、戦国時代(*
平安時代)に鎮西八郎為朝という武将がいて、その山の南側斜面で陣をはっていたことか
ら<陣屋>という名がついたとのことである。この鎮西八郎為朝についてはたくさんの言
い伝えがあるが、1つあげてみると、「黒髪山の大蛇退治」というのがある。この地帯一
帯を苦しめていた大蛇を鎮西八郎為朝が弓で退治するというのがおおまかなあらすじであ
るが、その言い伝え
のゆかりの地がこの永野地区にもあるとのことで、実際に行ってみた。それは永野川を下
ったところにある一本の松で、「弓かけ松」といった。しかし、当時の松はとうに枯れてし
まっていて、今生えている松は近くの小学生が新たに植えたものであるとのことだった。
これは田んぼの真ん中にあり邪魔なもののように見えた。この松の側にある記念碑には、
「姿ゆかしき眉山の裾野も広き松が平鎮西八郎弓かけし若木の名こそしのばるれ」という
郷土唱歌が刻まれていた。余談であるが、黒髪山の大蛇退治の話は昔の戦で鎮西八郎為朝
が勝利したことを伝説化したものであるといわれている。
3.昭和初期の住民の暮らしについて


第二次世界大戦中一番無かったものはなんと言っても塩。塩が無いと人は生きていけない
のでこれはかなり深刻な問題であったそうだ。その当時塩を一体どのようにして手に入れ
ていたのかを尋ねてみると、
「そん時は、自分は参加せんだったばってんが、おいの父親達が人力車に薪ば積んで隣ん
伊万里市まで行って塩だきに行きよんしやつたんよ。塩だきは時間のかかっけんが行って
戻ってくっまでが2〜3日かかりよったんよ。」と教えてくれた。
伊万里市まで人力車で行っていたとはとても驚いた。自分で車を押さなければならなかっ
たうえ、当時は今とは比べ物にならないほどの悪路であったからである。当時の人々の若
労がしのばれる答えであった。


永野川を下り、付近の住民に話をうかがっていくうちに、渡邊隼人さんという人物がこの
辺りの地理、地史に詳しいということがわかり、早速私は渡邊さん宅を訪ねた。
                         まず渡邊さん日く「自分達が住んどる
  管牟田    川内             こん附防はこんあたりの地区の中でも
                 中山      最も新しかとこよ。」とのことだった。
                         左の図を見ても分かるように、この附
       永野               防というところは管牟田、川内、永野、
                         中山、御所という山の斜面沿いから土
                  御所     地が平らになる場所に位置し、この5
  附防                    つの地区から物資が集まっていたそう
                          だ。
以下は渡邊隼人さんの話


電気について…大正〜昭和にかけて電気がくるようになった。大正11年には、契約した
       ほぼ全ての家に電気が供給されていたという記録が残っている。これによ
       り精米方法が水車から竜気精米へと変わっていく。各家庭に電気はまわっ

       ており、1軒につき1〜2個の電灯がついていた。当時の電力の単位は今の
      ようにWで表すのではなく、<燭光>という単位で料金を決めていた。1
      番小さいのは2燭光で平均1軒あたり18燭光くらいだったそうだ。

祭りについて・I・春は花見、12月1日は神様に感謝するための祭りがあった。祭りの会場は
      各家で毎年交代してまわっていった。昔は遊ぶという機会が少なかったた
      めに祭りがそのためにあったのではないだろうかと考えられている。11月
      15日にはお日待ち。これは米ができた直後にお天道様に感謝するために行
        われていた。
お日待ちで用意されるもの


               イーーーーーなまこもち
                      (月に似せる)


         <−−−−−−−−・−−・−(お日様に泌せたもち。
                       中に塩でゆでたあずきが入っている)



若い人達の生活について…昔は公民館のことを青年クラブと言って若い男の人達は全員
            入っており、目上の人に対する礼儀など、社会勉強の場であっ
           た。他に青年クラブがすることといえば、11月30日に<神待
           ち>で<おうたい>という謡曲を歌いながら夜を明かした。

田んぼについて…このあたり一帯は、地図で見ても分かるようにため池が多い。昔から
       ため池を作ってそこから田んぼに水を引いていたからである。しかし、
       今では本部ダムにその地位を奪われている。

雨乞いについて…雨乞いの方法は神社の氏神の前に海水を供えるという方法がとられて
       いた。これは、海水を飲んだ氏神が喉の渇きを潤すために雨を降らせる
        という考え方による。

塩だきについて‥・塩だきはそのままではなかなか塩にならないので、大豆を入れて炊いて
       いた。大豆を入れるのと入れないのではそのスピードにはかなりの違い
        があったそうである。


品物等について…雑貨屋、医者、酒屋、薬屋など一通り揃っていたので暮らしに困ることは
        特に無かった。但し、この話は附防に限ったことで他の地区のことはわ
        からない。


お米について・‥現在ではもっと取れるが、以前は一反で5俵しか取れなかった。1年間
       に1人あたり2俵は食べるので10俵分は家族用にとっていたそうだ。1
       農家あたり平均5反は田んぼを持っていたので、残りの15俵は売った
        して現金に換えていた。


田んぼの肥料…当時から硫酸アンモニア等化学肥料を多く使っていた。ふんも使っていた
      が、やはり化学肥料の方が使用量は多かった。ふんが使われていたのは20
      年ぐらい前までで、それ以降は使われることはなかった。
現金収入について
余分なお米を売って現金を得ていたほか、やせた牛や子牛を太らせて
それを売ることを生業としていた人もいた。彼らの多くが感じのよい
世波り上手な人であったという。また、同じ米を売るといっても、や
り方は何通りかあり、お金に余裕のある人は米が品薄になるまで待ち
高く売り、逆にゆとりの無い人は米が実る前の青田の段階で安く売ら
ざるをえず、貧富の差が拡大していった。
男女関係について
昔の男達は夜這いでお目当ての女性をものにしていたそうだ。渡邊さ
んの話によると、自分達の頃にはもうそのようなことはほとんどなく
なっていたという。
夜這いに関して一つ笑い話を聞いた。ある男が目当ての女性の家に侵
入した時誤って物音を立ててしまい、家の主人が「誰だ?」と言った
ところ、男は「ニヤー」と猫の鳴き真似をして切り抜けようとしたが
それを見抜いていた主人が「なんだ、猫か。」とわざと言ったのに対
し男が「はい。」と返事をしてしまい、ばれてしまったと言うオチだ。

尾田和拡
有水大樹


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