学生レポート1999 服部研究室実施
     一原一
聞き取り協力者   古場 幸利氏
調査者       未永 泰樹 樽本 浩二 和田 和範

里
・「ハル(原)とは?」
    モトべ(本部)地区の5集落のうちの1集落であり、36戸で構成される
。また
   5集落の田んなかは各集落にそれぞれ点在しており、したがって、原の田ん
なかも
   5集落に散らばっている。
・「あざ名にはどんなものがありますか?」
     田んなか  イケノハル(池ノ原)  フルカワ(古川)
              ミヤノハル(宮ノ原)  クロイワ(黒岩)
             オガワウチ (小川内)  スギヤマ(移山)
             ゴタンダ(五反田)   ヤツエ(八ツ江)
              ツクモタニ(九十九谷)
    溜池   アカバエ(赤羽江)  シンツツミ(新堤)
    橋   ハヤカワ く早川)一実際流れがはやい。
          サカイ(界)一柿田との境界。
          ビシヤモン(毘沙門)一近くに毘沙門天が祭られている。夏祭
          りが行われる。
          ハル(原)一原の集落にある。
    山   コウノス(鴻巣)  イイモリヤマ(飯森山)  アコウヤマ

    谷   フカタニ(深谷)
    ノウテ   ウーヒラ(大平)
    しいど   ハルカワ(原川)
・「1994年の大旱魃をどのように乗り切ったのですか?」
 溜池の水をどのように使うか会議を重ね、結局連設業者からポンプを5台7〜1
0日間、3ケ所にそのポンプを設置して、川から水を引いてくることにした。溜池の水はそ
の周辺の田に、ポンプの水はその他の田に配給した。このようにみんなで協力し、全体に
うまく水を分配した結果、被害を最小限にくいとめられ、例年と同じくらいの収穫を得る
ことができた。今のようにポンプも普及していない50年前だったらお手上げで皆無であ
っただろう。

 「雨乞いは行ったのですか?」
 淀姫神社でやった。若木町にある水の神が祭ってあり、大旱魃の時にも水が湧く
という菅牟田という所で竹筒2本に水をくみ、1本は伏見神社、1本は淀姫神社におき祈
願したが、効果はなかった(笑)。有田神社にも行って雨乞いをしてもらったが、効果ゼロ(
大笑)。

 「湿田と乾田とはあるんですか?」
 土地の低い田、つまり湿田は水が多すぎて、育ちがあまりよくない。乾田は乾燥
する時
期があり、そのことにより病気にかかりにくくなる。昔は裏作として麦を使ってい
たが、
今はそんなこともなく、圃場整備後は湿田、乾田の区別はなくなった。五反田は圃
場整備
以前から稲も麦もよく育ち、病気にも強い。池ノ原や宮ノ原では洪水がよく起こり
、土地
が砂っぽいため、地力が低く、病気にもかかりやすい。泥が少ないので、他から持
って来
たり、化学肥料を使っているが、今でも問題がある。昔は乾田であれば5,6俵/
反、湿田
だったら4俵/反くらいの収量だったが、圃場整備後は豊作であれば9俵半〜10
俵/反、平
年でも8俵半〜9俵半/反取れるようになった。

 「戦前の食糧難のときはどうしたのですか?」
 太平の奥の山を焼き、芋やあわ、陸稲(乾燥に強い米)を使っていた。その後食
糧不足
が解消されてからは煙草、みかんなども作っていたが今は猪の被害があり、荒地に
なって
いる。今は太平は軽トラが走れるくらい広く舗装もされているが昔は狭く、舗装も
されて
いなかったため、農作業が大変だったそうだ。50年前は米と麦の比率は半々であ
ればい
い方であった。その他、芋やとうもろこしを主食として使っていた。畑に余地があ
ればあ
わやひえも作り、小麦と混ぜて団子にしてみたりした。

 「化学肥料や機械が使われる前と後ではどのような違いがありますか?」
 昔は魚粉、堆肥や大豆の油かす、牛・馬の糞を使っていた。人糞はずっと以前に
は使っ
ていたが久しく使っていない。白菜はどの葉には使わずばれいしょなどの根菜に使
つてい
た。また草も使っていたが今はそこまでやる人はいない。ついこの前までは化学肥
料を大
量に使っていたが、それでは味が悪い、地力がおちる、病気にかかりやすくなるな
どの理
由から今では有機栽培が見直され、畜産業ででた糞を蒸したものを使ったり、また
状況を
みて魚粉、油かす、堆肥も使う。今年、豚の糞のみを肥料として使った米がその他
の米は
すべて2等にもかかわらず、1等に認定された。消費者が安心して食べられる米を
作れる
よう日々努力しているそうだ。また最近は機械が使われ、昔は1日1反耕せれば良
い方だ
つたが、今では5,6反はできるそうだ。昔70kg〜80kgほどの大きな脱穀
機を天秤
で小さな道を運んだり、手植えを牛や馬で耕していたころに比べると今はずいぶん
楽にな
つたが、その分経費が多くかかる(苦笑)とのこと。

 「電気やガスはいつ頃からありましたか?」
 電気は大正末期くらい、ガスは35、36年前からあった。それまではまきで生
活して
いた。農業に手のかからない冬に1年分の薪を、新堤の裏(南)にある20haほ
どの村
の共有林でとり、割って小屋に保管しておいた。昔はすぎやひのきなどの木材を育
て、そ
れを売って現金を得ていたが、今はその現金収入もないので資金不足である。

 「昔は米をどのようにしていたのですか?、また、今ではどのように米を保存し
ている
  のですか?」
 昔は小作料として、地主である酒屋に5俵とれるうちの2、3俵を納めていた。
また残
りの米は30kg(サジッキロ)の紙袋に入れ、風通しのよい涼しい場所で保管す
る。種
籾は米のいいものを選別し、個人でねずみの被害にあわないように乾燥した場所に
保存し、
5月20日前後に種をまく。ねずみ対策として、以前はねずみがふむと薬が浸透し
、死ぬ
ものを使用していたが、今ではピンク色の薬をねずみが住んでいそうな場所にまき
、それ
を食べたねずみはのどが渦き、水を飲むと死ぬものを使っている。

 「家畜はいたのですか?」
 馬、牛が雄、雌関係なく各家に必ず1頭、場合によれば2頭はいた。博労とは誰
もがで
きるものでもなく、目利きで免許をもっている人がやった。馬洗い場は原川、馬捨
て山は
池ノ原の奥にあった。

 「昔の道はどうなってたんですか?」
 今の道は元の道を広くしたものであり、昔も今も道筋はあまりかわらない。昔は
ノウテ
とよばれる農道を、農作業のために稲などを車力や牛で運んでいた。舗装されてい
なかっ
たため、雨がふればべチヤべチヤになり、家族が後押ししながら通っていた。

 「塩や魚はどのようにして得ていたのですか?」
 戦後間もない頃は業者から器具を借り、薪を持って伊万里の先にある黒川で塩を
つくっ
ていた。魚は魚商が伊万里付近から自転車で売りに来ていた。



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