若木町川古山中調査レポート


     若木町川古山中の調査レポート
    (しこ名について)
    アキュウドく商人)ハヤシゾウ(林副)トペットウ(壱別当)
    タダコエ(月越)ミソカッチュウ(味噌花鳥)ハタケダく畑田)
    ナメガワ(滑川)ホイキー(堀切)ヒチゴク(七石)

    アキュウドを通って族物(コウラン焼)や米などを物々交換していた。

    中原さん宅の裏には味噌花鳥(林)、月越く山)がある。そのしこ名についての
     由来を紹介する。

      林である百姓がナタで木を切っていたそうだ。昼になったので弁当を食べようと
      映噌を食べていた、その時。キツネが現れ、
      「味噌をかせ」
      と、人の青葉で育ったそうだ。驚いたその百姓はナタを捨て、何も持たずに
      山を越え逃げたそうだ。

     このことからその林はキツネが言った「味噌をかせ」から、かなりくだけて
     「ミソカッチュウ(味噌花鳥)」になり、百姓が逃げるために何も持たずにただ越えた
     山は、
     「タダコエ(只越)」となったそうだ。

    (水利について)
    川の水利権は川の上流のひとが優先される。
    ため池は、当番が平等に分ける。ため池が干ばつのときには川から、ポンプで水をあげて
     いた。

     く災害について)
    S41大干ばっにより、米の収鑽が平年よりすくなかった。
    台風による被害として、川の氾濫により田畑が水をすってしまい作物が駄目になってしまっ
    た。田をもどすために、土をほりおこしたそうだ。
    米の品種改良も進み、災害にもある程度耐えられようになった。

     (余りについて)
    集りは年に5回あったらしい。(九日集り、山の神集り、川の神集り、花見が2回I
     具体的な例をあげると、
    11月15日の日待(ひまち)集り
    もちをついて日の出を待つ。太陽に感謝する気持ちを表わす祭り。
    その日には、洗濯物をほさないようにして太陽を休ませた。
    12月1日の祭り
    この祭りの意味としては、日本の神々が、11月31日に出雲に集まりその帰りを待つ祭り。
    その時に、行う慣例として、おにぎりに一つだけ塩をいれて普通のおにぎりのなかにいれ 、それをみんなで選んでたべる。それを食べた人が幸せになるという話。 正月には、走ろう、歩こう会がある。

く昔の生活から現在にいたるまで) 中原さんが子供のころには、山になるムクロを採りに行って、投げて遊んでいた。
    食べ物も少なかったらしく、あけび、桑の実、やまも、柿を採りに行っていた。
     S17〜18頃電気の普及
     S22〜23頃には、炭で生計をたてる人もいた。
    S62 工業国地の形成(市の企業融地による)
    そのときにサニツクスと排水関係について問題があり住民が猛反発したが、市の仲介にはい り工事のさし止めはなかった。 今日では、谷のあたりでは後継者不足により今では山となり、田は川辺ぞいだけになってしまった。減反政策により専業農家は無理となり兼業農家へとなっていった。

電話や有線放送などべんりな点はあるが、以前よりも周囲の人たちとの交流が少なくなった。

聞き取り 中原秀秋さん

調査者 森田佳祐
    永家伸吾
    羽野強資