中山 学生レポート 1999 服部研究室実施 今回の調査で僕たちが得たものはとても多いとはいえなかった。しかし、そのわずかな 情報からでも、僕たちのような若い世代にとっては都市に住んでいても分からない農村 独特の暮らし方やル−ルを吸収でき、とてもいい経験になった。 ここから本題、調査結果について述べていこうと思う。まず始めに今回の最重要課題で あるしこ名について質問を始めた。しこ名といっても相手方(松尾賢三氏,以下松尾さん) に分かってもらえなかった。しかし、その後細かい説明をこちら側が加えることによって その問題は解決できた。そこで得たしこ名は次の4つである。ノンナカ(久保畑)、ヒャ −シィ(上杉ノ元)、ツジビラキ、カキゾエの4つであった。ノンナカ(久保畑) について、昔は田んぼが4枚あったが、今では4枚ともみかん畑になっているそう である。この村では、現在減田により収穫のわるい田んぼはほとんど残ってはお らず、すべて良田のみが残っているそうである。しこ名の範囲については松尾さ んはよく知らないといっておられた。次に中山村は山の中にある村であったので、 山や谷、山道や岩や大きな木に目印としてつけられた名前、また草切り場や切り 野などについて聞いてみた。その内で収穫があったのは、切り野についてであっ て、入り会い山が山神溜池の付近にあったそうである。 村の水利について、この村には山神溜池、牟田溜池、それと中山の中心部にあた るところにもうひとつ溜池があり、その3つの溜池が用水となっている。そこで 3つ目の溜池の名前(しこ名)について聞いてみると、特に名前はきまっておら ず、この村ではみんなが単にホリと呼んでいるそうだ。この溜池の水を使うとき のル−ルがあることを松尾さんはついでにおっしゃってくれた。この村では水番 をフ−ツ−と呼び、そのフ−ツ−でなければ、溜池の水を使うことは許されない。 そのフ−ツ−の選びかたは私利私欲の強いひとを避け、みんなに平等に配ってく れるような人を選んでいるそうである。村に水道が通る前、各家の前にホリがあ って、そこで茶碗などを洗っていたそうだ。1994年にこの地方で大旱魃があ ったことを伝え、その対策や雨乞いをしたかどうかについてたずねてみると、松 尾さんはよく覚えていないそうである。村の範囲については尋ねてみてもよくわ からないそうである。村の発達について、村に電気やプロパンガスがいつ来たか、 それらがくるまえはどのような生活であったのかについてきいてみた。松尾さん はすべてわからなかったらしいが、簡易水道は大正時代に来たそうだ。そして、 それは他の村と比べてもかなり早い方だったと少し自慢げともおもえるように笑 いながらおっしゃってくれた。このころになると、大分松尾さんと打ち解けた雰 囲気になっていた。次に、村の祭りについてきいてみた。まず、松尾さんはオヒ マチという祭りについて説明してくれた。オヒマチとは10月頃に行われ、秋の 取り入れが終わって神様に感謝の意を込めた祭りであるそうで、ご飯を三角にし て神様の前に置くように決まっているそうだ。オヒマチと新年会、忘年会などは 年齢を基準にして3組にわけて祝う。その他に、12月の1、15、30日にも祭りがあ り、それは村を地域によって上組、中組、下組にわけて祝うそうである。次に、 村の若者について聞いてみた。農業を営んでいる家が多かったせいか、村の若者 は遊ぶ暇がなかったそうだ。そんな中でも、7月14日に若い者皆が公民館に集まり、 劇団みたいなことをしていたそうだ。昔は前に述べた茶碗洗いなどの仕事は母親 ではなく、子供たちが学校から帰ってやっていたほどなので、若者が暇をもてな かったというのも想像できるような気がした。恋愛については昔は自由ではなか った場合が多かったようだ。つまり、親同士が子どもの結婚相手を決めてくる場 合がおおかったようだ。中には、大恋愛に陥り、駆け落ちなどの方法をとった男 女もいたそうではあるが…・。最後にむらの将来については松尾さんいわく、昔 は農家ばかりで牛が各家に1頭はいて田畑を耕していたそうであるが、今は機械 を用いているそうである。また、農業だけでは食べていけなくなり、若い人たち は皆仕事にでている。農業をする人は高齢者のみになっているそうだ。これから も、これは私達の想像にすぎないが、この傾向は今後も続いていくのではないか とおもわれる。しかし、子どもの数は県下でも多い方に属するので、村自体の発 展は大いに望まれる。そのように言って松尾さんは笑っておられた。僕たちも何 かの縁で巡り合ったこの村の発展を願いたいと思う。 〈調査協力者〉 松尾賢三さん(昭和14年1月2日) 報告者、 安道武志 荒木徹弥
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