服部英雄のホームページ

  和田峠を歩く会・報告

 和田峠

 男女倉口

 唐沢一里塚

 和田宿本陣

 本陣前 母ちゃんの店にて

平成19年11月10日(土曜日) JR中央東線下諏訪駅9時35分出発(バスにて) 水戸浪士墓・登山開始地点西餅屋一里塚より和田峠を経て 、男女倉口(それよりバス)、唐沢一里塚、 和田宿見学、本陣・宿散策を経て解散(長野新幹線上田駅行きバス停長門まで) 和田峠越え反省記 夜なかに雨音はなはだし。ネットの天気予報に一喜一憂。8時和田村旧役場着、本陣の方に歩い ていったら荒川さんに出会った。和田村旧役場ということで本陣の駐車場の方に駐車したとのこ と。本陣は今や旧・旧役場である。 8時15分過ぎ、みなさん続々登場。教委勝見さん、おてんまの会は丸山さん、羽田さん、とあ いさつ。会長松山さんは同行できないがということながら、わざわざ挨拶にこられた。元教育長 の田中さんも現れ驚く。旧交を温めた。 8時30分出発。9時10分過ぎには下諏訪駅に着。「和田峠の会」と書いた紙を持って待つ。 9時26分中川さんら3人パーティーおよび大上さん到着。つづいて臨時特急・風林火山をまつ。 岡田さん到着。出発。諏訪社秋宮から、本陣岩波家前を通って旧中山道へ。旦過の湯を説明。源 泉は70度、46度にさまして入湯用。加水はしない。じつは昨日入った。熱い方の浴槽は1分 で、ぬるい方の浴槽は2分で足がしびれてくる。とにかく熱い。 龍ノ口で慈雲寺の説明。ここから諏訪湖が見えるはずだったが。坂を上がって慈雲寺境内を横目 に。さらにいくと御柱の木落とし坂と、川の対岸に桟敷をみる。「注連掛け」という地名は御柱 を1月の間、置いておく場所とのこと。 樋橋(とよはし)は本陣跡を車中から見学。宿場ではないから茶屋本陣であろう。駅にもなった という。つまり国鉄時代の貨物の取り扱い場である。和田の唐沢本陣も同じと、羽田さん。 以下聞き取り成果を披露。夜光屋など街道業務に従事した人たちは多い。しかしそのわりに、と いうか、だから、というか、山は多く岡谷の人たちの所有になっている。地元の人は炭焼きにも 従事したが、山持ちは案外いない。街道の生活で十分暮らしていけたのであろう。 分間絵図に顕著な姿で描かれる香炉岩は、中山道に飛び出した岩。和宮通行時にお姫様が怖がる から白い布で隠したとか、落ちないように紐で引っ張ったとか、伝説が多い。冬になれば国道か らも見える。草木が生い茂って、いまは見えない。武田耕雲斎、天狗党の通過に高島藩は鉄砲隊 を香炉岩上にあげて布陣。対岸の「山の神」に本陣を置き、狭隘な香炉岩下を通過してくる天狗 党を狙撃する構え。天狗党は容易には突破できず。長板(ながいた)から後ろの山(東)に上が り、深沢橋(樋橋南方)まで下りて背後を襲撃、もういっぽうは北の干草(ヒイクサ)山から敵 陣本営を攻撃。松本藩士は砥沢(とざわ)から北へ、沢から尾根にあがって、二つ山(ふたつや ま)を経て松本の牛伏寺(ゴフクジ)へ逃げた。これは親から聞いている話とのこと。講演会で 話もきいた。人によっていいことがちがう。それとまじっている話もあるという。でも合戦のよ うすは理屈に合っている。水戸の人たちが熱心にたずねて来るという。 水戸浪士の墓は下諏訪町の説明版では高島藩が作ったことになっているが、高島藩側でも犠 牲者が出ている。感情的にいっても成立しないはなしだ。土まんじゅう、墓標とまったくの儒式 (中国式・大陸式)である。韓国にもふつうに見られる墓の形式で、水戸徳川家墓所の発想その ものでもある。合戦直後に埋葬はしただろうが、明治4年に作られたというから、明治政府に なってから、尊皇攘夷、倒幕の先駆けであった天狗党を新政府が顕彰したと見るのが正しいので はないか。名前が記されている不動院は修験の僧侶。今弁慶ともいわれた。47歳。横山巳之助 は18歳。父親に随行してきて戦死した。だが17名戦死しているのに6名の名前しか刻してい ないことはやや不審。 戦死者は天狗党の方が多い。けっして天狗党の圧勝ではない。高島松本両藩はかれらの進軍を阻 止できると考えていたし、勝算もあったと思う。天狗党の圧勝というイメージも粉飾の可能性が ある。 徳本の南無阿弥陀仏は古峠にあったものをおろしたと町誌にある。その横の観世音碑は香炉岩に あったもの。 ここから西餅屋まで車道の下に古道があるが、この雨では悪いということで、バスで行く。この 道の悪い箇所は「垂木岩下の桟橋」(かけはし)と見えるものに該当しよう(『下諏訪町誌』、 ただし分間延絵図には描写なし)。片側の橋が架かっていた。雨足が激しく国道表面を多量 の流水。西餅屋一里塚へ。片側に跡のみ。新しそうな碑があった。 西餅屋は古写真があって(横浜開港資料館)、比較すれば雰囲気がわかる。急坂に人力車が写っ ている。ここも高島藩が焼いた。焼かれても公費で再建された。ただで新築にしてくれると笑い。 ここから2度車道(旧トンネル道)を横断。道筋は草刈りもしてある。予想してあったよりはず っと歩きやすい。バスが待機してくれるので、まったくの空身で楽だった。雨も少しずつ小やみ になってくる。そのから上は歩道のみ。 水呑み場に観音様、クマがひっかいた木の皮、石小屋を見学、七曲の急登を経て古峠へ。 雨はやんで、霧。少し寒い。ヒロッパラの一里塚をみて、旧スキー場下の食堂で、キノコ汁を頼 んで昼食。寒かったからおいしかった。 そのあと再び下る。車道下トンネル内の道は、やはり一見して道らしくないから登りの人が迷う らしい。道標の矢印が二重に書き足してあった。東餅屋には廃屋があった。そこより接待まで下 る。接待手前の沢が当初に建てられ流された場所(山の神)という。接待は屋根の葺き替えが終 わったばかり。壁の障子紙を張っても一週間も保たないという。車道沿いでマナーが悪いらしい。 ここの湧き水は皆が汲みにくる名水。残念ながらゴミが多い。 休憩所は2カ所あったが、いずれもトイレは閉鎖されていた。10年以上前は、くみ取って川に 流していた。さすがに時代に合わなかった。どうしても下流ではわかるそうである。むかし歴史 の道の座談会で、席上、上原さんに山中のトイレの処理で苦労することはありませんかと話をふ ったら、半分おこっていた。バクテリアの浄化槽は高額だが補助があるケースを聞いたことがあ る。寒冷地ではムリなのだろうか。 川にはイワナがいるという話をお二人から聞いた。あのころは絶滅したといわれていた。環境保 護の条件が厳しくなって、いまは川にパールライト廃液を流すことはない。 途中サンケイ・中山道旅の会一行にすれ違った。200人近くか。ものすごい数である。 男女倉口手前にも休憩場と三十三観音があった。ここまで下ると紅葉もそれらしくなる。道に出 て記念撮影、つづいて唐沢一里塚へ。じつに見事で壮観な一里塚である。大きすぎてどうしても 一対一枚の写真に収まらない。ほんとうの一里塚を実感できたという声を聞いた。 中山道分間延絵図では道の片側に二つ並んだ一里塚が書かれていることが多い。広原ではそうし たことから道筋がちがっているのでは、という意見もあるそうだ。この唐沢一里塚も絵図では対 面ではなく並列に描かれている。でも道筋字体は二つの塚の中間を通っていると考える方が自然 である。 きょうは3つの一里塚を歩いた。江戸時代には一里(4キロ)を1時間(半時はんとき)だから、 8つの一里塚をみて一日の旅が終わった。それを毎日休まず続ける。旅は仕事だった。 ここから下って、バスで和田宿内へ。本陣を見学できた。屋根を修理中。本陣を修理したときの 棟梁がまたきてくれているという話。本来、栗板屋根は表裏を返し、上下を入れ替えて4回位置 を変えて保たせるそうだが、いっさいそれをしていなかったらしい。本陣では桜井元校長がきて くださった。天狗党が運んだ砲弾を入れる桶を見せてもらった。厚い底板だった。一つの砲弾で あれほど頑丈な桶が要る。何千もある弾をどうして運んだものか。 そのあと本亭に荷を置いてから温泉にいき、うかつにも時間をまちがえて夜の会に遅れてしま った。桜井先生はじめ、みなさんが心のこもったお話しをしてくださって、とてもうれしかった。 会に参加されたみなさんも、あとからメールでも感想を寄せてくださった。おてんまの会のみな さんの歓待。会が成功してよかった。来年もぜひ実現したい。 翌朝は上原さんの家に行った。予告なしでいってしまったが、仏壇に『峠の歴史学』が置いてあ った。そのあと城下元村長の家に行く。名物村長の話に、人嫌いの丸山さんもおもしろがってい る。話が弾んで、こんどシゲル(上原さん)の位牌でももってきて、いっぱいやりましょうとい うことになった。いつの間にかお昼になって帰る時間ぎりぎりになっていた。


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