服部英雄のホームページ

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大権寺石塔の紀年銘

                       服部英雄 大権寺石塔では 1  延文三年孟夏四日  1358 2  康安元年辛丑六月六□  1361 3  永徳三年(欠損)八月彼岸廿五日  1383 4   昭陽   永徳三 八月時(正) 大渕献      1383 5  嘉慶二年(欠損)  1388 6  永享十二年(欠損)  1440 の紀年銘が確認されている。筆者に課せられた課題は南北朝期、南朝年号の使用が多か った肥後において北朝年号を使用していることの意味を明らかにすることである。しか しこの課題は容易ではない。なぜなら前川清一氏によれば、これらはすべて永徳三年に 作成されたもので、延文、康安はいずれものちに日付を遡って記されたものとされてい るからだ。これによれば、年号が使われていた時期、リアルタイムな時間帯に、どのよ うな年号をかれらが使用していたのかは、実のところわからない。あとから作成された 年号に北朝年号が記されていたとしても、そのことから当時の政治情勢を読み取ること はできないだろう。  銘文はこれまでの報告書では完全には読まれていなかった。今回前川清一氏の新採拓 によって、読解が正確になった。文字がないとされていた場所にも干支が記されている ことなどが明瞭になった。前川氏説のように、石材、様式の同一性から延文・康安の二 人(両親)分を含め永徳に浄薫・蓮恵(夫妻)が建立したとする見解はたしかに説得的 である。しかし断言しきることに、躊躇がないわけではない。もしも石塔に規格性があ って同一の石工ないしは親子や弟子筋に当たる石工の作成に関わるならば、同じ大きさ、 様式の石塔が造られやすかったともいえる。また墓碑形式には先祖や二親のものを踏襲 する傾向、家としてのスタイルが認められる。たとえば熊本妙解寺の細川家墓所の殉死 者碑は忠利のものと光尚のものが酷似する。ここまで似るのかと思うほどである。中尊 寺金色堂の三代分の遺骸を納める須彌壇それぞれは、細部意匠は異なるけれど、全体に 前代のものを踏襲したことは明らかである。1  前川見解を検討しておく。個々の石塔には前川氏が強調する共通性がたしかにあるが、 同時に個性もある。浄薫の碑文には永徳三年「昭陽大淵献」八月時正とある。昭陽は癸 の異称、大淵献は亥の異称であわせて癸亥となる。この干支の書き方は他と比べて異質 な感じがあって、つりあいがとれていない。しかしこの点は彼女が建立主体であるから、 特異な表記がされたと考えれば納得はできる。時正は彼岸中日をいう。対になる昼の長 さと夜の長さが同じ日であるから、太陽暦ならばおおむね3月23日である。蓮恵に八 月二十五日とあるからこの日が時正のようだ。2  浄薫蓮恵両塔が同日の建立であることは前川氏の指摘の通りであろう。蓮恵禅門は男 性であるから、浄薫が女性で、二人は(おそらく)夫婦であった。浄薫のみに逆修善根と ある。逆修であることを右側に明記し、ふつうなら右に書く年号は墓碑の左側に移した。 彼岸中日とする日付は浄薫も蓮恵も生存者であることを示すだろう。故人ならば命日を 書いたように思われるからだ。するとなぜ生存する蓮恵に逆修と書かずに、他の死者た ちと同じ形式にしたのだろうか。このこともよくわからない。永徳塔は延文・康安の二 塔をどのように意識していたのだろう。  延文・康安・永徳塔相互にも差異はあるし、また永徳塔と嘉慶他の石塔にも様式上の 類似性は指摘できる。  すなわち前者については書体の差がある。永徳のものは太目の字体だが、延文・康安 は細い。とくに延文文字は繊細で洗練されているが、永徳はその逆である。禅の文字が 三石塔に共通するが、「しめすへん」から受ける印象はかなり異なり、「しめすへん」二 画・三画は似ない。前川氏は「年」の文字の第一画・二画が「ク」となっている点から 同筆とされたが、永徳塔には残画しかないので全体の印象を検討できない。ハネは少し ちがうようだ。同筆ではないともいえないが、同筆だと断定もできない。年月日の書き 方は延文では孟夏だが、康安では六月である。同時に同一人が作成し、統一規格にあわ せたのなら六月ではなく、仲夏としたような気がする。  また右側に年号・年を書いてその下に干支を書く手法は上記四塔のうち三塔に共通し ていたが、ほかにも嘉慶のものや、破損して読めないが昭宝和尚のものにも共通してい るので、この地域(制作石工の家)では一般的で基本形だったといえる。  二十五年間も親の墓さえ建てられない状態であったのに、いきなり四つもの大きな塔 を一度に建てることができた、となると、いったい何があったのか。四半世紀の間、大 権寺の土地から追放されていたのだろうか。不思議な気がする。  わからないことが多い。もちろん石の大きさは四塔のみが卓越していて、他とは際だ った差異であり、共通する。この点、前川氏指摘のとおりである。前川氏の見解が優れ た斬新なものであることをふまえても、なお四つの塔のうち、延文・康安二塔が異なる 時期に建てられた可能性は、100%消え去ったわけではない。父母であった可能性は あるが、文言には悲母、慈母、孝子など何も書かれていない。  以上を前提として四塔に書かれた三つの年号を検討する。  菊池氏の勢力が強い肥後は、概して南朝年号だった。大権寺にて北朝年号が使用され たことは天草には反菊池(反征西府)勢力があったことを示している。3 瀬野精一郎 『南北朝遺文』九州編によれば、この年1358年の延文三年北朝年号使用文書は京都 発給を除くと、12通である(京都発とは足利義詮発給1、正八幡宮領家3、足利尊氏 発給2)。 北朝 (延文三)豊後1 肥前1 日向5 大隅5  南朝(正平十三) 筑前1 筑後1 豊前9 豊後4 肥前5 肥後6 日向3 大隅2 薩 摩10  南朝年号使用者が薩摩に多いのは島津氏が南朝年号を使用したからである。豊前豊後 にも多いが宇佐社や大友氏が南朝年号を使用したからである。肥後はむろん、肥前も多 い。  一方大隅・日向で北朝年号を使用したものが多い。その中心は畠山直顕である。かれ は足利尊氏に対立した足利直冬党であった。足利直冬はすでに九州を立ち去っていたが、 なお直顕に敵対する島津氏・大友氏が南朝年号を継続して使用していた。かれらとの対 立を明確にする上でも、北朝年号を使用し続けただろう。追筆のようだが武藤頼直(「大 宰少弐」)も北朝年号を使用していたらしい。武藤(少弐)氏は一貫して直冬党の中心 人物であった。すると南朝年号が優勢である中で、直冬党の残党は北朝年号を使用して いたと想定できる。従来の対立が年号使用の差異となって現れていた。  さて肥後における直冬党といえば河尻幸俊である。この段階でも河尻氏は征西府と敵 対していたと考えられる。正平十三年八月十三日征西将軍宮令旨および九月十七日菊池 武光打渡状ほか(阿蘇文書・岡田文書、『南北朝遺文』4059、4067,4092, 4093)に恵良惟澄の兵粮料所である肥後国守富庄半分地頭職について懐良親王御教 書を発給したが、河尻七郎代官が「不避退」とある。征西府に従っていないことは明ら かなので、やがて、ないしはすでに敵対していただろう。南朝年号の使用を拒否したこ とが想定できる。恵良惟澄申状(阿蘇文書『南北朝遺文』2835、3880)による と、七郎は河尻三河入道広覚の子息で、正平五年段階ではいったん南朝と結んでいたが、 まもなく叛旗を翻したようだ。征西府に敵対する直冬党であった河尻氏は北朝年号を使 用していたと考えられる。  天草・大権寺で北朝年号が使用されていたとすると、この地域はその影響下にあった と考える。河尻は水軍力を持ち中国(明)にも往き来した。この寺(城主菩提寺)、そ して庇護者である城主も、河尻氏との同盟関係か支配下にあったと想定する。  つぎに康安元年についてみる。改元は三月二十九日であるが、南九州での使用は遅れ る。文書の上で確認できる最初の康安年号の使用は七月 日の大隅正八幡宮坪付注進状 である。薩摩・日向では八月末になっても延文年号を使用していた。康安元年六月六日 は九州で確認できる最初の康安年号使用例となるけれども、むろん六月六日は命日、死 亡した日であり、この日に墓を建立するはずはない。墓碑はもっと後に建てられた。  この一年の北朝年号(延文・康安)と南朝年号(正平十六)の使用を確認する。京都 発など九州以外から発給された文書は除く。 南朝(正平) 豊前7 豊後1 肥前13 肥後17  北朝 (延文・康安)筑前1 豊前3 豊後1 肥前6 肥後1 日向10 大隅3 薩摩4 対馬3  南朝年号使用者は先の段階に比べると、範囲が縮小した感がある。肥後での北朝年号 使用者は宇治惟村で、彼は終始北朝方で、益城郡を根拠として南朝方の弟惟武と対立し ていた。南朝勢力は局地化しつつあったので、もともと北朝年号を使用していた大権寺 (反菊池勢力)での北朝年号はこの趨勢に支えられていく。 1  紀年銘が過去帳(大権寺所有)によっていて、過去帳の記述を踏襲したとするならば、 後刻の銘文であったとしても延文年号使用の意味を検討する意義はある。この可能性は、 証明できないが完全に捨てることもできない。 2  『三正綜覧』によればユリウス暦1383年9月23日が八月二十七日、グレゴリウス暦 1383年9月23日が八月十八日。ユリウス暦は天文学上の太陽暦よりは遅れていて、そ のため1582年にグレゴリウス暦に切り替わったとされている。 3  延文三年孟夏四日とはグレゴリウス暦(現行西暦)1358年5月20日に該当する。 康安元年六月六日は1361年7月16日に該当する。 * 発表後の所感:前川氏は明俊禅尼のように細い字は彫刻後には文字が太く見えるように なることを意識して、細めに書いたとする。永徳塔が文字の使用感覚から、重厚で中心 塔であったという印象はある。 石塔画像・前川清一氏・天草市教育委員会(作業中)


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