現地調査のためのマニュアル01版、その2
旱魃 ○1994年(平成六年)、つまり今から6年前に、この地方には大旱魃があった。この年、どの ように水をまかなっていったのか。何か特別の水対策をしたのか。普通他の村から水を分けてもら う、とか、時間給水(時間によって水を分けていく方法)を行うとか、犠牲田を作る(他の作物に 切り替える;大豆など)とかを行う。時間給水は場所によってときすい(時水)、番水などといっ ている。この呼び方も併せて尋ねる。 もしこの大旱魃がさらに50年前の出来事だったらどうなっていたのか、雨乞の経験も聞いてみ よう。いつ、どこで何をして雨ごいをしたか。その効果はあったか。 ○雨ごい 町部(別府)全体、薪や藁を持って天山の頂上に上がる。これをこづんでどんどん燃 やす。「真っ黒なって降ってきた。真っ黒なって降ってきた。」といいながらドラ(鐘や鍋)をた たく。子供心に半信半疑。でも本当に降ってきたので驚いた。しかし少し田が湿る程度で流れるま では降らない。センバタキといった(*多久市別府の場合)。 ○土器園(かわらきぞう)のため池に、龍の絵のついたお銭を投げ入れる。 ○神様がのどが渇くように、祠に味噌を塗る(嬉野・井手河内)。 ○氏神の前に海水を供える。海水を飲んだ氏神が喉の渇きを潤すために雨を降らせる(武雄市若木 町永野)。 災害 水害はあったか。古い堤防はどこにあったか(干拓地などは堤防の位置が海側に前進するから変わ っていく)。台風の被害は?切れ所(堤防が切れたところ)はあるか、またどこか。 風避けの例はあるか。山の上から下まで大注連縄をつなぎ、風の神様である弁財天さまが通れない ようにする(まじない)。
村の範囲
訪ねた村の範囲はどこからどこまでか。どの道、どの水路、どのホリが境界かを聞く。
村の耕地
圃場整備以前には、村の水田には湿田や乾田が入り交じっていた。麦が作れる田(裏作ができる 田)が乾田、できない田が湿田。どの田が湿田で、どの田が乾田かたずねよう。そして昔(圃場整 備前)この村では、とくに米がよくとれるところ、逆に余りとれない田んなかがあったのかどうか、 場所による差があったのかどうかを尋ねてみる。またその理由が分かれば聞いてみよう。 またそれぞれ戦前、化学肥料が入る前で米は反当何俵か、良い田と悪い田でどれほどの差があっ たのか。化学肥料が入ったあとではどう変わったのか。戦前には何を肥料にしていたのか---化学肥 料の前は金肥(干鰯・ホシカ)、その前は堆肥か人糞か、あるいはカッチキ(カリシキ・山の草) か。良田(一等田)、悪田(八等田)は地図の上で確認する。 耕作にともなう慣行 ○ゆい(共同作業)→どのようなものだったか ○あぜ(畦、畔) あぜに大豆や小豆を植えることはあったか。なぜか。なぜなくなったか。あぜ もどのあぜに植えてももよかったわけではなく、個人の田に接する部分だけだったらしい。 ○農薬のない時代の様子。虫避けに、菜種油を撒いて、夫婦で蹴って広げてたりした。あるいは鯨 油・石油をまく。どうしてこうしたものが防虫になったのか。 ○手間代返し・ゆい返しイイカエシ・イイス(ゆいで手助けしたお礼)は? ○手間返し:牛は飼うのに一頭一年で草地が四反いる。牛を飼えない人は借りて、そのお礼に麦を 作って労力奉仕をした。
農作業に伴う楽しみ
共同田植えはいつまであったのか。農作業は楽しみか。たとえば田植えの後のさなぶり(早苗振)。 誰が費用を出したのか。稲刈りの後はなにをするのか。ほかどんな楽しみがあったか。苦痛は何か。
村の生活に必要な土地・山の利用
山に近い村だったら、入り会い山(村の共有の山林)はあったのか、あったとすればどこにあっ たのかをも聞く。これはガスが普及する以前、村の人たちがご飯を炊いたり、風呂を焚く燃料ある いは田に入れる肥料(くさ)をどこからとっていたのかにも関係する。山が遠い村だったら、どう していたのか、薪を誰かから買うことがあったのかも聞きたい。 ○入会山の管理のため、山仕事に出ることをデゴトといった。下草刈りや枝打ちの仕事。 ○ (杵島郡白石町の例)オウギビラという共有林があった。一月〜二月が薪取り。山と家を一日四 往復。一回三十キロぐらいの薪は背負った。一年分の薪。朝早く行かないと、だんだん遠くて不便 なところにしか薪が残っていない。 田の近くには草切り場(草を取って牛の餌にしたり肥料にした。干草場ヒクサバとも干草切り場 ともいった)。あるところとないところがある。ないところはどこから牛の餌をえたのだろうか。 太平洋戦争の頃まで佐賀の山間地では焼き畑が行われ、ハラーヤ(払い野?)とかキイノ(切り 野)などとよんだようだ。熊本県ではコバ作、大分県ではカンノ〔苅野)という。草切り場や焼畑 があったのか、あったとすればそこをなんと呼んだのか、その位置はどこか、誰の土地だったのか (個人のものか、入り会い山<共同の土地>かをきく。なお焼畑は三年ほど耕作した後、他の場所 に移る。一〇年単位で回る。三年たつと、同じ場所では行われない。 炭は焼いたか、収入はよかったか。薪とりに山は生命線だった。
村の発達
村に電気はいつ来たか(ふつうの村は大正の頃だから、話者は生まれていないか、子供だっただ ろう。山の村では遅くなってから電気がきた。プロパンガスはいつ来たか。だいたいは戦後の昭3 0年代か。それらが来る前はどんな生活だったのか。 村の生活に必要な土地 山に近い村だったら、入り会い山(村の共有の山林)はあったのか、あったとすればどこにあっ たのかをも聞く。これはガスが普及する以前、村の人たちがご飯を炊いたり、風呂を焚く燃料ある いは田に入れる肥料(くさ)をどこからとっていたのかにも関係する。山が遠い村だったら、どう していたのか、薪を買うことがあったのかも聞きたい。 ○入会山の管理のため、山仕事に出ることをデゴトといった。下草刈りや枝打ちの仕事。 ○ (杵島郡白石町の例)オウギビラという共有林があった。一月〜二月が薪取り。山と家を一日四 往復。一回三十キロぐらいの薪は背負った。一年分の薪。朝早く行かないと、だんだん遠くて不便 なところにしか薪が残っていない。
米の保存
米は農協に出す前の時代は、いつだれに渡したり、売ったりしていたか。地主と小作人の関係は どんなものだったのか。小作米に出す米の質は?くず米(質の悪い米)はあったか、それはどうし たか。青田売りということはあったのか(米の場合、不作が続く時などあったらしい。あまり記憶 はされていない。野菜などではいまもある。事前に買って、お金を払った側、つまり買った方が収 穫する。不名誉なことだからあまりしゃべってはもらえないかもしれない)。家族で食べる飯米 (はんまい)はなんといったか(福岡県ではひょうろう<兵粮>米といった。佐賀はハンミャーか、 保有米か)。どうやって保存したか。次年度の作付けに必要な種籾はどう保存したか。ネズミ対策? 五〇年前:食事における米・麦の割合は?稗や粟、芋のような雑穀を主食にすることはあったのか。
村の動物
牛や馬はいたか。各家に何匹いたか。雄だったか雌だったか。雄は去勢していたか否か。 ふつうはおとなしい雌牛を飼うがとくに力作業が必要なときは、力の強い雄牛(コッテイ、コッ テ牛といった)を飼った。家で1ぴきがふつう。博労(馬喰・ばくろう、ばくりゅう)はいたか。 ばくろう(牛方、馬方)は牛や馬を交換してもうけていたから、口がうまい人が多かったというが、 ほんとうだろうか。馬洗い場(馬入れ川)や馬捨て場はどこにあったか。 *牛洗い川は珍しい。なぜ馬洗い川があって牛洗い川はないのか。聞いてみよう。
村の道
昔の隣の村に行く道はどれか。学校道はどれか。牛が通る道はどこか(牛は谷川の丸木橋は渡れ ない)。古い道をどんなものが運ばれてきたのか、を尋ねてみよう。山の村だったら、塩や魚はど こから来たのか。だれが運んできたのか。峠はどこか、峠を越えてくる動物はいたか(動物の道。 鳥はカスミ編みを仕掛けて取ったりした)。道は地図の上に記入する。
まつりと行事
村の神様の祭りには一年を通じてどんなものがあるか。どんな組織で行うか、全員参加か、そう でなければどんな人が参加できるのか。昔はどうだったか。 6月:田祈祷(たぎとう)・風日、風避かざび(8/31二一〇日一番かざび・9/10二番風日)一〇月願成就ガンジョージュ
昔の若者
テレビも映画もなかった時代、とくに夜、若者は何をしていたのか、働いてばかりだったのか (男子は夜にどんな仕事をし、女子はどんな仕事をしたか)。あるいは遊んでいたのか、遊んだと したら何をして遊んだか。力石(力試しの石)などはあったか。干し柿泥棒・すいか泥棒・にわと り泥棒をしたという話も聞く。お日待ち・神待ちのような特別の日には神様に捧げるからと、若者 が勝手にもっていくことも許されたという地方もある(もしそうなら、それは何日か)。 若者たちが夕御飯のあと、特に集まる場所があったのか。あったらそこをなんと呼んだのか(わ かしゅう宿とか、若いもん宿、わっかもん宿とかクラブとか青年クラブという地方が多い)。規律 は厳しかったか(年長者の下級生への制裁などがあったか)。よその村の若者が遊びに来ることは あったのか。そうしたよそものを村に立ち入らせないよう妨害したり、あるいは自警団のように活 動することはあったのか。通してもらうために、よその村のものが酒を持ってきたりすることはあ ったのか(よその村に恋人がいる若者はそういうことをして通してもらったという地方もある。祭 りの時には出入りは自由。そういう制約はなかった→恋のきっかけになる)。若者たちはどんなふ うに男女が知り合い、恋をしたのか、恋愛の自由はあったのか---むずかしい質問だが、尋ねたい。 (参考)ここまで話してくると、「夜遊び」や「ヨバイ」の話しになることがある。夜に娘の寝て いるところに忍び込むという話である。夕方娘たちは二人一組で重い臼を摺っている。親の蚕を飼 う仕事を手伝ったりして忙しい。そういうときに若者が来て、一緒に臼をひいてくれたり、仕事を 手伝ってくれると、楽だし、うれしい。下心は見え見え。ライバルも現れる。やがて恋が芽生える。 今も昔も一緒。むかしだって積極的な人、遊び好きな人、消極的な人、まじめな人。いろいろいた。 遊び本位の若者の行動が誇張されて、ヨバイは興味本位に語られている。しかしよく話しを聞いて みれば、みんなの恋愛と余り変わりはない。 親も公認でつきあっているのだから、妊娠すれば、まわりも認めて結婚させるのがふつうだった。 ただ認められなければ悲劇になった。逃げる男もいた。このあたりは話者によって、さまざまに話 が展開する。プライバシーに突っ込んではいけないが、こういう世代はもう余りいない。「ヨバイ」 の風習はあったのか。聞いておこう。
村のこれから
相手が疲れていなければ---村の姿の変わり方、村はどうなったのか、これからどうなるのか、今 後の日本農業への展望を聞いてみよう。諫早干拓についてのご意見は?ガタリンピックのまちおこ しは?その他個人的に聞きたいことも含め、何でも尋ねてみよう。 ┌─────────────────────────────────┐ │教師は教壇の上、大学の中にだけいるのではない。 │ └─────────────────────────────────┘
最後にお話をしてくださった方の氏名と生年(例えば大正何年生まれなど)を聞く。
*以下余裕があれば別の古老にも同じことを聞く。現地にはいって最初に詳しい人から話を聞けた からといって、そこで調査を打ち切らない。村のすべてを知っている人はいない。その人が一番詳 しいかどうかは、他の人の話も聞いてみなければ分からない。調査時間をフルに活用する。なお現 地を見ることも忘れずに。お話を聞いたあと、現地を見ると理解度がかなり深まるだろう。カメラ、 デジカメを持っている人は撮影してください。 終わったあとのお礼の手紙はレポートに同封する形でみなさんのものと服部のものを出すが、成 績をつけ終わって整理した後になるから、相当に遅くなる。別に各自からお礼のはがきを出してく ださい。
実際の聞き取り時の注意
事前にマニュアルをよく読んで、メモ書きにしておく。当日、マニュアルをみながら聞き取りを すると、「えーっと、次は?(ーーーー沈黙)」となります。異様に間が空いて、場が白けるし、 向こうの方も困ってしまう。この子たちは勉強せずにきているなと思うでしょう。準備が第一!
参考文献
「地名の歴史学」(角川書店・図書館参考図書、貸し出しはしない)、課題図書にする つもりだが、現地に行く前に読めばよかったという人が多い。目を通しておいてください。 「二千人が七百の村で聞き取った二万の地名、しこ名----佐賀平野の地名地図」(花書院・近日刊) -----先輩たちの調査のまとめ 服部英雄のホームページhttp://www.rc.kyushu-u.ac.jp/~hatt/index.html(九大比文、ヤフー、イン フォシークなどから入れます)、先輩のレポートの一部を掲載中。
しこ名の見つけかた(レポートから)
A嬉野町烏帽子岩 1LA00147E 田代隼一郎 1LA00142S 竹内正浩 こうして岸田さんへの質問も一段落を終えた。参考になる話をたくさん伺えて、何より であった。 ただ唯一、惜しむらくは田に関する情報に接することが出来なかったことだ。岸川さん の話では、湯の田区で専業農家は全体の一割ほどしかないらしい。とりわけ、米を中心に 出荷を行っている農家といったら数えるほどしかないという。主に茶と温泉と焼き物で栄 えた町である。昔の人々は茶を背中の籠に担いで、リアカーとか自転車で行商を行って生 計を立てていたそうである。 まあ、しかしながら、これほど為になる話を教えてもらったのだから、我々は十分であ る。調査もほとんど完璧だし、もはや思い残すことは何もあるまい。時間もちょうど頃合 だ。いざ、発とうか。そう思っていたときである。すぐ近くにも専業で農業をやっておら れる方がいるよ、と岸川さんは言ったのだ。さらに、紹介の電話をいれてもよい、とつけ 加えるではないか。間髪いれずに、我々は頭を下げていた。 ところ移して、山口さん宅。またもや、感じのよい夫婦。ウチの親にも見習わせたい。 時間があまりないが、まずはしこ名をきかねばならぬ。人の田を皆で協力して手伝う作業 を説明すると、それはユイというらしい、逆に教えていただいた。はじめは、我々の質問 もなかなか要領を得ないで、望んでいた答えを得ることが出来なかった。本当にしこ名な んてあるのかな、と疑いきっていたところ、あざ名ならばあると奥さんが言う。それだ、 と意気込んで伺ってみたところ、正式なあざ名では呼んでいなかったと旦那さんが言うが、 まさにそれです。 二人ともあざ名を口にするのが照れくさそうにするから面白かった。それでも、色鉛筆 を渡すと渋々書いてくださった。その間、我々はこの調査の主旨・目的を説明するのだが、 今ひとつ、いぶかしげ。田とは意外と広いなと地図を覗き込みながら思った。時計の音が 刻々と聞こえる。前にも記したが、地域の名がそのまま田のあざ名となっている例もたく さんあると伺う。そういう点を理解するために結構苦労した気がする。 結局、田のあざ名を訊き終わるだけで時間が来てしまった。今更ながら、もっと早く岸 川宅を訪れておくべきだったと悔やまれる。山口さんも茶のことを訊ねられず、腑に落ち ない表情だ。いささか申し訳なかった。 しかし、山口さん夫婦のおかげで、調査もずいぶんと進んだ。田のあざ名を訊かずして、 調査が成功したとはいえまい。心より感謝しています。また、お忙しい中、時間を割いて くださった岸川さんにも、この場を借りてお礼を述べさせていただきます。有り難う御座 いました。 B 嬉野町・井手河内の場合 1EC99088E 土岐泰之・1EC99060N 佐藤 愛 まず、お話を伺ったのは宮田秀一郎さん。住宅地図のおかげでたいして迷う事もな く、すんなり宮田さん宅にたどり着くことができた。家の庭に入ると宮田さんが庭仕 事をされていて、「こんにちは、九州大学の者です。」っというとなんだか苦笑いし て「わしゃーなんも、知らんよー」と言いながら、僕達を家のほうへ案内して下さっ た。部屋に案内されると、「あつかねぇー」といいながらきちんと正座で座られた。 僕達の質問にちょっと身構えていらっしゃるようだ。もちろん、僕達にとっても初め ての調査で落ち着かない気持ちは多少なりともあった。 そんななか、「まずはじめに、ここどき(土器)の地区範囲について教えていただ けますか?」と僕達が聞くと、「うん、こうらぎれっちゃーここらへんのことばい」 と住宅地図に記しをしてくださった。とりあえず、地名の読み方の難しさを改めて知 らされた。宮田さん自身も土器とかいて"こうらぎれ"といきなり読めるとは思って なかたようだ。宮田さんの次ぎにお話を伺った副島さんの話によるとこうらぎれの地 名の由来は昔ここらへんで瓦(かわら)を作っていたらしくそこからきたのではとい うことだった。いきなり出鼻を挫かれた気がした僕達だったが、気をとりなおしてし こ名についての質問にうつった。といってもやっぱりしこ名について始めは何の事か 良くわからいない様子。だからまず始めに宮田さんが所有している田んぼがないかを 尋ねて、それからこの田んぼに水をはったり、畑仕事に行く時になんてこの田んぼの ことを呼んでますかという具合にしこ名を聞き出した。そうすると「それじゃった ら。ここの田んなかにいくときゃーヤマシタ(山下)とかっていいよーよ」とあっさ りしこ名を教えて下さった。しかもこの山下というしこ名はまさに山の麓(下)にあ るからかってやましたと呼んでいるらしい。あと他にも、ジュウオ、ミゾネ、タカダ ンなどのしこ名を教えて下さった。しこ名にははっきりとその名の由来が分かってい るものと昔からその名だけが受け継がれているものがあるようだ。しこ名のじゅーお については宮田さんもなぜそういうしこ名になったのかは分からないと仰っていた。 (中略) 次ぎに話しを伺ったのは、副島一豊さん。先に話を伺った宮田さんの家からすぐ近く の場所にあった。ただ少し違ったのは副島さんの家の庭は山にそのまま繋がるように できていて、よく手入れされた庭園の向こうには森が広がっていてこの山全体がおそ らく副島さんのものなんだなということは、すぐわかったし、見事な庭に負けじ劣ら ずの立派な構えの家を見ても明らかだった。玄関に近づくと副島さんとその親族の 方々が家の中の見えるところに団扇をもって座っていた。どうやら夏休みを利用して 息子さん達が子供を連れて帰ってきているようだ。家に案内されると、さっきの宮田 さんと同じように「ちょっと、あつかもんねぇ」といいながら扇風機をだして下さっ た。宮田さんに話を伺ったときと同じようにしこ名の説明をして住宅地図を見せる と、さっき宮田さんが教えてくださった、ジュウオの田んぼのところを見て「ここん 田ん中は、ジュウオじゃなしにシゲマツっていいよったごとある」「じゅうおっ ちゃー、塩田川でワシらがおさなかときによう遊びよったところばい」と塩手川の一 部の所を丸でかこって下さった。さらにそのじゅうおの川の下宿側の方にはショウ ジョウイワという岩場があるということも教えて下さった。今は塩手川の流れは別府 のひい川なんかよりずっとほそぼそとしたものとなってしまってはいるが、昔は今よ りずっと川幅も広く昭和30年くらいまでは子供たちがよく水遊びをしていたらし い。昭和30年くらいから塩手川であまり子供たちが泳げなくなっちゃった理由の一 つに、嬉野温泉の宿からの排水の垂れ流しによる川の汚染があるようだ。現在は温泉 宿の規模自体は大きくなってはいるが保健所が排水などを厳しく取り締まっているの で、昔に比べると随分、川もきれいになったらしい。次に教えて下さったしこ名は フッジョノモト(古城の下)、井手川内川の流れに沿って左側の、丹生神社の麓にある 田んぼ一帯をそう呼んできたらしい。宮田さんはこのあたりに住む沢田さんや藤田さ んの家のあたりを呼ぶときもフッジョと呼んできたらしい。副島さんが仰るには漢字 からも分かるようにこのあたり(丹生神社のある丘)には昔、藤城という城があった と言われており、その名残としてこの丘の一番上の所は平地になっているらしい。今 はその平地には副島さんが所有されている茶畑が広がっている。山王の茶畑と読んで いるらしい。また藤城があったと言われている場所よりちょっと塩手川よりには宮ん のきという宮のようなものもあったらしい。この"んのき"とは場所のこと表すのに しばしば使う言葉らしい。宮田さんに話を伺った時は僕たちが地図に教えてもらった しこ名を書き留めていったが、副島さんは自分でペンをもってきてくれて、僕たちの 地図に自分でしこ名を書きこんでいって下さった。 「ここらへんは、えーとフッジョノモトっていいよったばい。そいからそのうえのほ うには宮んのき・・」という具合に特に気負うこともなく淡々と落ち着いてしこ名を 教えて下さった。きれいな字でしこ名を地図に書く姿がみょうに板についていらっ しゃったように思えた。教えて下さったしこ名の一つにババというのがあって、今は 漢字で場々と書くらしいが昔はそこに馬のつなぎ場所があったことから漢字で馬場と かいていたらしい。しこ名は地図上には記載されないような地名で住民の間の通称の ようなものと思っていたので副島さんのお話からしこ名にもその由来やそれに沿った 漢字があることを知った。田んぼのしこ名を聞き終わり今度は井堰の話になった、井 堰自体はかなり昔からのものらしいが色んなところに様々な工夫が凝らされているよ うだ。例えば、水害がきても井堰のなかに物が流れ込んで詰まったりしないように井 堰の幅を狭くして造られているらしい。副島さんの田んぼ用に使っている井堰が井手 川内川に3つあった。それぞれの井堰にはしこ名があるらしいが普段その井堰を利用 はしても実際にしこ名で呼ぶことはほとんどないことから、今では副島さん自身も井 堰のしこ名は忘れてしまったらしい。ちゃんとした形で文書化されないしこ名が何十 年もの間、脈々と受け次がれてきたことの背景にはどれくらいそのしこ名が日常の中 で実際に声に出されるかということが実はとても重要な条件としてあることも知っ た。 C嬉野町築城ついじょうの場合 近藤 隆光 1TE99128G 瀬戸口 誠 1TE99149T そして、しこ名の範囲は以下のようになる。 小字新替のうちに―ニシダ(西田) ミゾムコウ(溝向) ナガツカ(長塚) 小字二本杉のうちに―ハチリュウ(八竜) 小字五本松のうちに―ナガフカ(長深) ウラコガ(浦古賀) ゴタンガク(五反角) ツジ(辻) ヤボタ(藪田) ヨコババ(横馬場) カミヤマニタ(上山仁田) シモヤマニタ(下山仁田) 小字四本松のうちに―オケミズ(桶水) サンペイバル(三兵エ原) カキノキワダ(柿ノ木和田) ニシビラ(西平) ヨコババ(横馬場) 小字三本杉のうちに―カルカスダ(傘田) 小字五本杉のうちに―イシゴモリ(石籠) 小字二本栗のうちに―コイチバル(小市原) コイチバルダ コバンタ 小字四本栗のうちに―コイチバル(小市原) オオシゲ(大繁) シマダ(島田) ホンデン(本田) フルカワ(古川) 小字二本松のうちに―ジョウノマエ(城ノ前) カモンダ(掃部田) ヨシマツ(吉松) ヒワタシ ヤナギノセ(柳ノ瀬) フルカワ(古川) 小字五本栗のうちに―サンザブロウ(山三郎) カネツキベン(鐘突免) タカイモリ(高井森) ヨシマツ(吉松) フルカワ(古川) 地図にもしこ名の範囲が示してある。村田さんによると、しこ名は人によって呼び名が違うという ことだが、下宿区長である中山さんの協力により最も確かだと思われるしこ名を集めた。
◎現地調査ダイジェスト版とポイント
何のための調査か 失われつつある通称地名を古老から聞き取り、それを記録して後世に残す。そのほか記録されずに 忘れられつつある昔の村の姿・記憶を記録する。 レポートに記載しなければならないこと *調査した学生の名前と学籍番号:別記事項として鉛筆で住所および帰省先。それぞれの電話番号。 *聞き取りしたおじいさんおばあさんの名前と生まれた年(例:佐賀太郎;大正5年生まれ) ---------------------------------------------------------------------------------- 村の名前 しこ名(カタカナ)一覧 △△ (*向こうが漢字を教えてくれた場合は漢字も併記する、必ず カタカナを先に書く)。 田畑 小字**のうちに------- ◇◇,□□、■■、◆◆ 小字△△のうちに--------◎◎、◯◯ ほか(宅地とか山林とか) 小字▽▽のうちに--- ---------------------------------------------------------------------------------- *必ず地図を付ける。住宅地図は参考資料として添付してください。正式には5000分の1の地 図を付ける。*小字はしこ名の位置が正確なのか、確認するために必要。 ---------------------------------------------------------------------------------- 村の名前 使用している用水の名前 用水源 共有しているほかの村 △△ ◎◎井手 嘉瀬川石井樋 △△ほか15カ村 昔の配水の慣行・約束事 昔の水争いの有無 水を全部とってはいけな ++分水点で**村とよく争っ い。しがらの堰でせいて た。その原因は-----。 下流にも水を流す。 △△井手 (以下同様に) ----------------------------------------------------------------------------------- 村の範囲;地図に図示する。 古道;地図に図示する。 一日の行動記録と古老から教えていただいたことをレポート用紙(パソコン・ワープロ)5枚以上 に(分量が多い方が良い)。話してくれた内容も多い方がよい。筋書きを追って整理した上での逐 語記録(相手がしゃべったとおりの記録)もよい。なるべく多く書いてください。写真は自由。 レポートの部数は各班(原則二人)で1セット3部。それぞれ以下のようにする 1:教官への提出分(これが正本、地図<色塗り>も一緒に封筒に入れる。封筒に正本と書く。テ ープのある場合は一緒に:なお下書きは地図とともに成績が通知されるまで保存しておくこと、服 部から電話で質問される場合があります)。封筒必要。 2:教育委員会に送付する分(地図も含めコピーする、カラーコピーでなくともよい。):冒頭に 朱書きで、**町と明記する。これはあとでまとめて服部が地元教育委員会に送ります。封筒不要。 3:お世話になったかたへの送付分(地図も含めコピーする):九大の封筒に、相手の郵便番号、 住所、宛名を明記してください。お礼の手紙も同封して、開封のままで切手を貼らずに提出するこ と。服部が今後のお願いの手紙などを添付した上で発送します。封筒必要。九大の封筒は服部から 受け取ること。1、3は封筒に入れる。2は入れない。なお3の差出人は服部研究室の名前になり ます。発送は成績評価・全体のレポート整理の後になるので、かなり遅くなります。またお世話に なった方が多くて、複数に出す必要がある時は、その分も用意してください。 レポートはできるだけパソコンで みんなのレポートをパソコンでも保存したい。地図以外の本文はなるべく大学にあるパソコンで 入力して、保存の際には「テキストで保存」し、それをフロッピーに入れて保存してください。一 号館の一三〇、一三六教室で作成またプリントができます。ただしプリントが目的ではなく電算入 力と、その電子保存が目的です。またレポート以外に授業時間を使って各種情報の入力作業を行う 予定です。今回は鹿島市の北部、浜町、鹿島地区を担当した人、福岡市早良区を担当した人を対象 に作業します。ワープロ専用機(書院、オアシスなど)は互換性がなく、パソコンには保存できま せん。ただし保存する際に「通常で保存する」ではなく、その下の欄から「テキストで保存する」 を選んでフロッピーに保存すれば、互換できるものもあります。テキスト・ワード・一太郎がよい。 *「テキスト」はパソコンの共通語。最低限の機能だが、どの機種のパソコン世界にも通じる。た だし図表は消えます。 タイトルは「歩き・み・ふれる歴史学」「服部レポート」などではなく、調査に行った場所(市町 村名ではなく、行った地域の名前)の名前を付けてください。なおレポートはかならずプリントア ウトしたものを提出し、あわせてフローッピーを添付すること。プリントアウトしてないと、成績 評価から漏れる可能性があります。 みんなのフローッピーはレポート提出時(7月2週の授業時)にコピーさせてもらい、フローッ ピーそのものは返却します。ただし殺到する場合などがあり、その時は現物の借用になります。 フローッピー提出がむずかしければ、Eメールで送ってください(hatt@rc.kyushu-u.ac.jp)。今 後レポートの内容は内容を適宜判断しつつ、服部のホームページhttp://www.rc.kyushu-u.ac.jp/~ hatt/index.htmlで公開していきたいと思います。したがって保存の形式は「テキストで保存」または HTML形式で保存してください。改行(リターンキー)も入力しておいてください。また調査者 であり、著作権者である君たちの名前は公表しますが、公開に支障のある個人情報(住所や電話番 号)は教官提出用のみに鉛筆・手書きにして記入してください。また相手の話の中で、手書きにし た方がよいもの(公開には支障のある内容、つまりプライバシーや差別に関する問題など)も同様 に手書きにしてください。省略はしない。 なお初心者はよく「保存」の際に失敗し、せっかく打ち込んだ文字が消えてしまったりします。 はじめに「保存」の方法をよく練習してから文字を打ち込んでください。プリントアウトした後、 フロッピーに保存せずに消してしまう学生が毎年何人かいます。それでは電算入力した意味がない。 くり返しますが、電算入力の意味はパソコンで保存し、公開し活用していくためです。 なおどうしてもパソコンでうつことのできない人は申し出てください。
地図
*地図が半分しかないのに、現地に着くまで気がつかない人もいるが、その時点で不可は決定的! *正確に地図に聞き取った地名を落とせたか。せっかく教えてもらっても間違った位置に記入して いては、何の意味もない。 ◎地図には小字の範囲と小字、そして調べた通称地名を文字で記入する。番号のみを記入する方法 は見にくいのでさける。カラーコピーは長期間には退色する。黒、赤の色鉛筆、サインペン、マジ ックなどを使う。。糊で貼り付けると何年かの後には劣化して落ちる。これもさけたい。「録音テ ープにあるとおり」というような形でレポートの記載を省略しない。印刷されたレポートが基本。
レポートのポイント
*事前の準備◎地図は地形図に小字を記入したものを、あらかじめ用意できたか。 村の範囲はきちんと包括したか(山は特に広い)。 住宅地図を用意したか。その他参考資料を用意したか。 地図をきちんと準備できたか。事前に把握したか。色塗りをきちんとしているか(水路、道路、 高圧線。墓地)。聞き取るべき範囲を十分カバーする地図を用意していたか。リーダーに配布した 各資料を調査者が事前にコピーし、きちんと読んでいたか。マニュアルをしっかり読んでいるか。 *目的が十分、果たせたか。割り当てられた村をきちんと調査したのか。しこ名(あざな・通称) というものを相手に理解してもらい、収集することができたか(調査する側が、調査の趣旨を理解 していなければ、目的をはたすことはできない)。*地名以外の調査項目をきちんと調べたか。 注意:レポートには事実を列挙するだけではなく、それに対する話者の評価を(たとえば青年の行 動について「いいことばっかりじゃないんよ」、といったら、そうした事も含めてレポートする。 またレポートは臨場感あふれるように。話者の発言もなるべくそのままに方言も入れて書く。その 場の雰囲気が分かるように。どっと笑ったとか、このとき複雑な表情をしたとか、急に声を潜めた とか、にやにや笑うとか。みんなは一流のマスコミ人になったと考えよう。質が高く、読みやすい 「ルポルタージュ」を書く。レポートは事実に忠実に、そしておもしろく。みんなが味わったおも しろさを伝えてください。
レポートの締め切り
7月第2週の授業時間に回収します(このときは情報室に集まり、鹿島市浜町、鹿島地区を担当 した人、および福岡市を担当した人に入力作業を行ってもらう計画でいます)。もし7月7日に調 査に行った人で、どうしても間に合わない人がいれば、7月17日までに服部の研究室(本館5F 33)に持参して下さい。フロッピー・テープ・MDは交換で新しいものを渡します。なおレポー ト本文と地図、テープがバラバラになりやすいので、正本は封筒(袋)に入れて出して下さい。ま た成績評価が出るまで、地図及びレポートの原稿(下書き)は必ず保存して置いて下さい。 なお服部のメールアドレスはhattアットマークrc.です。メールでの質問にはメールで対応し ます。メールを送る場合は、返信を一,二日以内に読めるようにしておいてください。なおこちら が不在のこともあり、そうであれば返信は出せません。あまり過信はしないでください。 レポートは必ず印刷物で提出すること。