永田俊輔くんを悼む                   服部英雄

きのうは田染・小崎の御田植え祭だった。昨年にもまして参加者、見学者は多かった。けれども九大から参加したのはわたし一人だけだった。永田君、昨年はずいぶんはりきっていたね。「九州大学田染庄応援隊」という「荘園領主」(オーナー)の名前も君が考えたものだった。当日君は作務衣のようなものを着ていたが、田植だから和風にという配慮だったのだろう。NHK大分が取材にきていたから、君のユニークな姿も映像に残っていることだろう。「応援隊」は必ずや、きみの気持ちを今後も継承していくと思う。

きみと初めてあったのは、宇佐国東で開催された中世史セミナーの時ではなかっただろうか。このとき田染の景観保存を学問研究に携わる集団が決議した。田染ときみとはなにか縁があったようだ。

その後わたしは別大大学院に非常勤講師として出講した。当時学部生だった君は、大学院の演習に出席し、そのあと九大院に入学した。とりあげていた筑後水田庄の史料はおもしろく、現地を歩き始めたきみがどんな論文を書くのか、楽しみにもしていたが、思わぬ病苦がその完成を許さなかった。

きみには佐賀・嬉野町や塩田町の調査にも行ってもらったし、星野村もいっしょだった。ただ佐賀ではTΑとして、いつもバス1台分の学生の引率をしてもらった。バスが2台になるときはそうせざるを得なかった。星野村では君は別大のチームに入った。別大の和気藹々とした家族的な雰囲気の方が、君にはあっていたのだろう。その時はそう思っていた。ただしきみが服部と一緒に聞き取りをしたいといっていたことを思うと、星野村はその最後の機会だったのに、永久にそれを失することになって、そのことをもうしわけなく思っている。  安らかに眠ってください。 (020610)