鳥越 学生レポート 1999 服部研究室実施
S1−31 大村淳一・兒玉祥彦 
調査目的 
失われつつある田圃などの通称地名(しこ名)や、昔の農村の姿を古老から 聞                                      
き取り、それを記録に残す。
調査地域 
武雄市武内町鳥越・武雄市武内町馬場
協力していただいた方 
山口三友さん(武雄市武内町鳥越・昭和9年生まれ)
山口義昭さん(武雄市武内町鳥越)
朝重俊次さん(武雄市武内町馬場・明治45年生まれ)
調査報告
A)鳥越地区
はじめ、我々は、鳥越にお住まいの山口三友さん宅をたずねた。山口三友さんは、若いころは、
佐世保や臼杵の造船所で働いておられ、現在は鉄工所で働いておられるので、田ん中のしこ名
等にはあまり詳しくはないとのことであったが、山口義昭さんのお宅をたずねるなどして、橋
の名前や、谷の名前、畑の名前などの他、青年時代の興味深いお話を伺うことができた。
1.橋の名前
 ハタンガワ
ハタンガワは、松浦川にかかる橋で、大字畑野と鳥越を結ぶ橋である。戦前は飛び石のような
ものでできていたが、終戦後、鳥越の部落が協力して橋をかけた。
 ミヤンセ
ミヤンセも、松浦川にかかる橋で、大字ヒトギレにかかる橋である。圃場整備事業までは飛び
石のようなものでできていたが、整備の際、橋になったものである。
2.畑の名前(畑の名前であり、地名でもあるという。)
 オショコバ・ソーベシ・ツガネ・アイヲウ
以上の名前は鳥越地区の南東の山(名称不詳)にある畑と、その地名である。
3.谷の名前
 ヒャーダニ(灰谷)
次米田溜池に面した道をなす谷の名前である。
 アイヲウダニ
 ウータニ(大谷)
4.部落の名前
今でいう町内会をチャコウウチと言い、鳥越には三つのチャコウウチがあった。すなわち、鳥
越の前組と、中組と、裏組である。「チャコウ」とは女性の遊びである「茶講」のことだとい
う。
5.道の名前
 ゲンダミチ(源田道)
大字源田の田ん中をとおる、整備前の道で、鳥越から学校(現武内小・武内北中)への通学路でも
あった。
6.田のしこ名
 アゼタ
大字源田の田の名前である。
7.部落の制度と、山口三友さんの若い頃のお話し
山口さんが生まれたときにはすでに電気がとおっていたというが、電球は、たいてい各家庭に
2個程度だったので、夜になると灯油を燃料とする「テトボシ」を使うことも多かったという。
米は、農協ができる前は組合というところに供出していた。自分たちが食べる分は当然差し引
かれるが、それを「保有米」といい、古く三友さんの父の代くらいでは「サクミャー」と言っ
ていたという。当時は大体一人3俵が目安であり、大きなかめに入れて保存していた。三友さ
んは本家から分かれて来る際に二つのかめをもらってきたそうで、納屋になおしてあるものを
拝見させていただいたが、それは身の丈ほどもある大きなものであった。
本家からは牛も一頭もらってきたという。近隣の農家では耕作の際に牛を使っていたが、三友
さんは農業をしないので、主に、牛を博労(バクリュー・家畜商)に売って利益を得るために
育てていた。2年ほど飼って、昭和29年ごろ、4万9千円で売ったという。三友さんによる
と博労は普通の人だったということであった。そのような牛の飼育は、鳥越では昭和35年ご
ろまで続いた。
薪などはどこから取ってきていたのかをたずねると、各々の持っている山から取ってこられた
そうで、部落で共有している山(入りあい山)はスギやヒノキを植えていて、次の代のために
とってあるのだという。ちなみに三友さんの代では、これを売ることはしなかったそうである。
水害時の水の配分でもめ事が起こることはなかったのですか、と聞いてみた。三友さんによる
と、鳥越すぐ近くを流れる松浦川が一級河川であり、水で困ることはないということだ。
三友さんが造船所から帰って武内町で就いた仕事は区役であった。区役とは水害などで壊れた
堤防を区全体のために直す仕事であった。また若いころは、酒が高価だったそうで、そのため
に若いものの集まりのときにはどぶろくを作り、それは見つかると困るものだから、山の中で
集まっていたそうである。公民館は「クラブ」といい、若いもののたまり場でもあった。泊ま
りに行ったりすることもあったそうである。夏は若者だけで、金毘羅神社と武内神社で夏祭り
をしたりしたという。
B)馬場地区
鳥越地区の山口義昭さん宅で、田ん中のしこ名等について聞いていると、馬場の朝重俊次さん
を紹介された。朝重さんは、鳥越地区のしこ名についても詳しいと紹介されたのだが、鳥越地
区のしこ名については分からないとおっしゃり、代わりに馬場地区、小字田原、小字馬場、小
字八反田の田ん中のしこ名、また朝重さんの若い頃のことについて教えて下さった。朝重さん
は、圃場整備の際の工事事務所が解散するとき、その工事図面をもらってきていらっしゃって
いて、それを見ながら、それぞれの田ん中のしこ名を教えて下さった。
1.田ん中のしこ名
a)小字田原のしこ名
 スミアワセ
朝重さんの所有の田だった。
 ナマコ
二つの田で一つのしこ名を持っていたが、形がナマコ状だったためという。
 カキゾエ
 タバルサンダダ(田原三段田)
朝重さんの所有の田だった。
 フダタテ(札立て)
フダタテの田の一部に、豊作を祈願した札を立てていたためで、その慣習は、つい2,3年前
まで続いていた。区長の下の「付き合い人」が中心となって立てていた。
 タチギョウジ(立行司)
大地主がいくつかの田をまとめて持っていて、それが「一人前」だったが、農地解放でそれら
は小作人のものとなった。
 ミュオー(美穂)
酒屋さんの百武さんが持っていたいくつかの田で、これもまとめて「一人前」だった。
 カワフケ
 マテノ
マテノという田の一部に塚があり、そこを、堤防を作る際の土として使うために掘り起こした
ところ、「五りんの塔」が多数発掘されたという。しばらくはそれを鳥海川の堤防に並べたり
川のくり石として使用したりした。それらはどうしてそんなところにあったのですか、とたず
ねると、伊万里市黒川町にある、真手野地区からやってきたという伝説を教えて下さったが
「そんなことがあるものか」ともおしゃった。現在それらの行方は不明であるが、朝重さんの
考えでは武内神社の裏側にあるのがそれではないかとおしゃっていた。
 フーゾーノ
蓮華草の意だそうである
 ゴーノハル
 カミツジ
 ナカツジ
 シモツジ
b)小字ノズミのしこ名
 イッポンタブ
c)小字八反田のしこ名
 ハイゾエ
 ムギヨシ
よい麦が取れたからこう呼ばれたという
 シモナカシマ
 カミナカシマ
 モトイチガブロ
田ん中の持ち主の名前がつけられたそうである。地名としても使われており、魚がたくさん取
れるところだったそうだ。
 ビルダ
 ハゲダ
2.その他の名前
 タローセ(太郎瀬)
小字田原の、鳥海川の瀬の名前である。
 キイノキデー
田原の待ちデー(水害を防ぐための堤防)の名前である。
 テークチ
小字ノズミのドイの名前である。
 ドドロ
小字八反田の川の名前である。
 クエバシ
小字八反田の橋の名前であり、鳥海川にかかっていた。
 シメジガブロ
鳥海川の地名で、洗い場として使われていた。きれいな物は上流、子どものオムツなどの汚い
ものは下流と分けて洗われていたらしい。魚もよく取れたという。
3.朝重さんの若いころのお話
朝重さんが子どものときにはまだ電気はきていなかったそうである。電気が馬場にとおったの
は大正12年の3月31日のことであった。当時の電力会社は九州電力とは言わず、東邦電力
という名前だった。電気のいろいろな器具は公民館になおしてあり、当時、作文の先生が「電
光さん」という題名で作文を書かせたこともあった。夜遅くになると電気は電力会社によって
元を断たれるので、ロウソクを主に使っていたという。三友さんの家のように「テトボシ」を
使わなかった理由は、「テトボシ」が灯油を使っていて危なかったからだそうだ。
朝重さんが若かったころの武内町では、米作や畑作の他に、養蚕が盛んで、やはり家畜を博労
に売って利益を得ることもあったという。朝重さんによれば、博労は値段の取り決めをすると
きに、手をタオルでかくし、第三者の目に触れぬように商取引をしたという。「博労といえば
こすか人」だそうである。また、山に植えてある木を売り買いすることもあり、この時の商人
を「ヤマシ」といった。当時の山で樹齢の長そうな立派な樹木はたいていヤマシの持ち物だっ
たそうである。ヤマシも博労と同じように「こすい」と朝重さんはおっしゃった。
出稼ぎに遠くへ行く人も多かったそうだが、三友さんのように造船所に働きに行けたのは、学
校の成績が優秀な人で、50人中5番以内に入っている人だけであったそうだ。
山の持ち主としては、鍋島藩の鍋島さんが、圧倒的にたくさんの山を保有していたという。
また若い人が遊ぶ場所としては、冬は公民館で、夏は涼しい山中の「山の天神さま」のところ
で遊んでいたそうである。
朝重さんはその他にも、武内町の歴史について大学ノートにまとめていらっしゃった。
まとめ、及び感想
授業で、しこ名について習ったとき、しこ名の存在は実感を伴わないものであった。田圃に名
前があった、などということは聞いたこともなかったし、それが奈良、平安時代から続いてい
たものだということも、とても信じられないものであった。しかし、実際に朝重さんからその
名前の数々を聞いたとき、僕らはある、似たような現象を思い浮かべた。子どもが、自分の大
切な持ち物に名前をつけるというあの現象だ。名前というよりニックネームのようなものかも
しれない。
それらに共通していえることは、本来名前があるとは思えないものに名前や、ニックネームを
つけるという現象であるが、それは、互いに持ち主にとって大切な何かであるという点も共通
している。
農家にとって、もしくは江戸以前の農民にとって、田圃は大切な自分の土地で、それは自分た
ちを養ってくれる母なるものであり、また、先祖から長い間に渡って世話を続けてきた、愛着
ある土地であったに違いない。そこには必然的に、自然発生的な名前がついた。「あだ名」で
あり「しこ名」である。それは単なる事務的で、業務上不可欠な名称とは別な意味と、別な語
感があったはずである。
今回授業によってそれらに触れられたことは、僕らにとって印象的なことだった。農家の人々
の田圃に対する愛着の深さもであるが、民衆の間に伝わる慣習が、われわれの先祖の生き方を
示唆するものであったということが、である。機会があれば、またこのような調査をしてみた
いし、またそれらの言葉の由来なども推測できれば、とさえ思えた有意義な活動であった。

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