学生レポート 1999 服部研究室実施 調査した村 上古賀 山口正人さん 大正12年生まれ 調査者 酒見 明博 柴田 真吾 しこ名一覧 ゼンガメ(前亀)、シンヤシキ(新屋敷)、カキノキダ(柿ノ木m) クルマヤ(車屋)、イッケンヂャヤ(一軒茶屋)、カンカンサン、 コエモンダ(糾右衛門田)、シバハラ(柴原)、トウノハラ(藤ノ 原)、シタバライ(下払)、ウーヤマ(大山)、キクンゾウ(北の 曽)、マオノツジ(馬尾ノ辻)、エボシ(烏帽子)、ボウズダニ( 彷主谷)、ヒヤーダニ(這谷) 田畑 小字新屋敷のうちに ゼンガメ、シンヤシキ 小字曽部石のうちに カキノキダ 宅地 小字前亀のうちに クルマヤ 小字新屋敷のうちに イッケンヂャヤ 小字鬼木のうちに カンカンサン 小字前田のうちに コエモンダ 小字宇土のうちに シバハラ 小字曽部石のうちに トウノハラ 小字烏帽子のうちに シタバライ 小字姥之原のうちに ウーヤマ 小字大久保のうちに キクンゾウ 山林 小字烏帽子のうちに マオノツジ、エボシ 谷 小字大原のうちに ヒヤーダニ 池 小字姥之原のうちに ボウズダニ 用水名 用水源 共有する村 前亀井手 赤穂山川 なし 車井手 赤穂山川 なし 新替井手 赤穂山川 なし 袋井手 鳥海川 なし 岡原井手 鳥海川 なし 昔の水争いの有無 袋井手と田原井手が下の部落と以前に少しのいざかい有り。 原剛ま井堰を止めたので田が乾燥しないから。 1994年 今から5年前の干ばつについて 「水はとにかく、そんときはしょうがなかったね.川の流れる水を全部 ポンプであげて、そしてその水もつきてしもうた。はっはっは。」 他のむらの水を分けてもらうことは? 「いや、もうそんなことはできんかった.」 時間給水は? 「いや、それもできんかった・もう水系がもう限られてるからね.他 の村からもらうことはまず出来ん。ああいう干ばつになればもう処 置無し。」 もし50年前だったら? 「昭和13、14も大干ばつじゃったけんね。そんときはもうどうしよう もなかった。それから昭和42も干ばつじゃった.そんときはまた ポンプはあることはあったばってん、とにかく川の水がもう流れん ごとなってしもうた昭和…年ん時も、それ以前、ポンプのない時 代はどがんもならん分けね。水はあっても。」 雨乞いは? 「昭和13、14、43の干ばつの時した。」 効果は? 「あったかね−?はっはっは。」 「結局まー、一つの気休め・農民の●お互い水がなっかたから、お互い 感情を害するわけでしょ・一つの気休めやね.雨乞いっちゅうのは。 も三しよんなかったけん、もう高い山に登って風流でもやろうっかっ て言って。」 「だいたい方法としては、ここはほら、伊万里が近いわけでしょ? 伊万里の町はずれに海の水を汲んできて、氏神に供えて雨乞いする」 「効果のほどはちょっとわからん・はっはっは。百姓の気休めです。」 米のとれる田、取れない田はあったか? 、 「今岡均整備をしてからは、そう差ができんごとなったわけ.」 差はどれくらい? 「以前は2俵ぐらいちごうとった。60キロぐらい.」 戦後化学肥料が入ったあとは? 「そうね、あの戦前からちょっとした化学肥料はあることはあったけん ね・昭和5、6年まではほとんど肥料はなかったし.まあ、肥料があっ たためにずいぶん増収はしてきたばってんね。」 化学肥料は? 「いちばん初めは生石灰。山の草とか木の芽立ちを切ってきて、田んぼ に入れて、生石灰をいれて、腐食させるわけやね.大正から昭和にか かるころまでは生石灰、あとは硫酸アンモニア,りん酸、カリ、それ ・ぐらいがずっと終戦後まできた.それから昭和30年頃からカセイ肥料、 それらの成分を全部含んだ肥料ができたわけね.今は高度化成長で、 もっと進んだ肥料ができてきたし、それに、他に鉄分などが加わった 肥料もできてきよる。今は昔と比べて肥料の面ではだいぶん、完璧と は言えんばってん、いい。」 さらに以前は? 「車と木の牙立ちだけ、春ごろ木が芽立って、なんちゅうか、若葉っち ゆうかな。新しい芽立ちだけしか田んぼに入れられん。古かとはじゃ まになるけん.」 村には電気はいつ? 「ここには大正12年。私が生まれた年に来た.はっはっは。・・・、も う76です。(笑)」 プロパンガスは? 「昭和36、7じやなかったろうか・・・」 電気、ガスが来る前は? 「電気の前はランプ。ガスの前はたきぎ.山からとってきた。」 入り会い山はあったか? 「区の山。ここは大字真手野のうちの東真手野で、その区有林があるわ け。上古賀だけの共有林はない。」 薪はどこからとる? 「自分の山からとったり、その区の山から取ったりね.」 買うことは? 「うん、買うこともあるとよ.しかし、その買うて焚くってそういうぜ いたくはやっぱりだれでもできとらん.自分たちが区の山から取って きてたく。ここんにきは昔、山師さんがおって薪を作って有田に持っ ていきよった。それ以外はね、個人が買うことはできとらん。」 米は誰に出してた? 「米を買う商人がおった。農家からずっと米を買うて、そしてまた、ふ とか米問屋があったわけ.そういう人たちが買うてまた、他に送りよ った。酒屋とか、酒の醸造元にね.」 地主と小作人の関係は? 「そうね−、はっはっはっ、それはひどかったね−、ふっふっふっ(か なり苦笑い)。地主がこりや特権階級じゃ、はっはっはっは・・・。 でも今、やっと差がなかごとなってしもうとるけん・・・」 青田売りは? 「そりや、聞いたことなか。」 家族で食べる飯米は何という? 「そりや、飯米(はんみや−)。こっちの方言でしょうね。」 保存は? 「むかし私どもの小さいころは米かんじやつた。その前は俵に入れて保存。」 種籾は? 「自分の家でとっとく.」 ねずみ対策は? 「ねずみの対策は−、もう食われるまま、はっはっはっ・・・.別にした 部屋がないからもう食われるまま。校倉式の米倉もなかったろうし、は っはっは。」 米:麦の割合は? 「そうね−。戦時中はひどかったけども、戦後になって、ま、普通のあの 小作する人は米:麦=4:6ぐらいじやなかったろうか?それに芋とか なんとか」 粟、ひえは? 「粟はたまにあったけど、ひえは全然なかった.主食はそうゆう形.」 牛や馬は? 「ずっと農家は1頭ずつおいとったね.どちらか1頭ずつ.」 雄?雌? 「そりや、どちらとも言えんかった。雌を飼う人もあるし、雄を飼う人も あるし。」 博労はいたか? 「おったよ。(ばくりゆう)っていいよった.方言でね.」 どんな人? 「まあ、普通の農家の人で。」 牛や馬を交換するんですか? 「そうそう、あのばくりゆうという人がそこに飼うとる牛を飼うてま た、子牛を入れてやるとか、そういう仕事をしよったですね。」 馬洗い場はあった? 「うん、そりやあったよ。各地にあった。川の浅いところで。」 「馬入れ川っていいよったね.そういえば.」 馬捨て場は? 「ありましたよ。」 憐の村に行く道は? 「もう、今の幹線道路がそのまま、隣に行く道やったけん、別になかった。 今の道抑とほとんど変わらん.」 「”〇〇ノウテ”というみちはあった? 「そういうの、こっちはなか。そりやあの武雄でもタチバナとかアサヒの 方には縄手というのがあるけん、こっちにはなか.」 古い道をどんなものが運ばれてきたか 「やっぱりね−、自給自足の時代だから。分からんごたあね−.家作るとも こっちの自分の木で作るし、今のようにコンクリートもせんし、そいけん 自給自足じやつたけん。この、食べ物とかも自給自足です。魚あ たりは行商人が来よったし、塩とか魚とか」 その道はどれですか 「今の道と同じ」 村の神様にはどんなものがあるか 「現任はもう、武内は武内一ケ所に武内神社としてあるだけで、以前は上古 賀は上古賀、馬場は馬場でいろいろ、天満宮さまとか祭ったばってん、大 正5年に武内は全部一ケ所に寄せた。昔は上古賀では馬尾ノ辻に天満宮が あった・それとこんぴらのところ・通称こんぴら堂っていいよった.」 祭りにはどんなものがあるか 、 「祭りは12月にあの、お宮の祭りちゅうのが、各集落で何軒かずつ、上古 賀なら上古餌でもその内でまた班があるわけで、その班ごとに、13日に 夷手野の神社の13日祭りっちゅうのがある。もとのカスガ神社、今の武 内神社・9口に大日如来を祭りよったもんね。いろいろあるとばってんね ・18日には観音様祭りとかね。たいした祭りじゃなか.集落によって1 2月にする。」 どんな組織で行うか 「上古賀は六つのグループがあるわけ・昔はチヤコウチっていいよったけど ね。そのグループごとにしよった。」 全員参加かどうか 「全員参加。家族全員.もう今はほとんどなし.」 昔、夜若者は何をしていたのか 「いわゆる、上古賀では観音像があったわけね。観音さんの夏の祇園そこ で芝居とか踊りとかやる程度で、あとは若い人は「青年クラブ」つちゅう のがあった・今いえば集落の公民館.そこに毎晩行くわけ.そしてそこで 泊まるわけ・もう小学校の尋常科と高等科と8年間義務教育終わって、1 5、6歳でいちおう青年の仲間に入るわけ.それでそこで奥さんもらうま で・場斬によっては「若もん宿」つていういうふうな言い方するところも ある。」 男だけ? 「男だけ・女はもう自分の家で働くだけで何も、娯楽もなんもなか。そして 一年に花見とか、そういうことは青年時代にありよったね。」 夜の仕事は? 「別まそこ(青年クラブ)で縄をなう・その程度。女は無か。自分の家で夜 なべ、いわゆる「母ちゃんが・・・」(歌?)、はっはっは。」 力石はあったか? 「それはあったとよ・そりや60kgぐらいあったとじゃなかろうか。へつ へっへ・(ちょっと自慢げ)米一俵ぐらいの重さの。」 干し柿泥棒したことは? 「ある・私どもの若か時分はそりゃやりよった.はっはっは.」 干し柿がないときは? 「夏はスイカ泥棒するし・しかし、そりやもう若かもんがやったっちゃろう つてことで大日に見てもろうて。」 他の何の若者が遊びに来ることはあったのか? 「ありよった・親睦あり、喧嘩あり.はっはっは。」 妨害したり、自警のように活動することはあったか? 「ありよったね。なんかあれば、はよ青年クラブに行ってたたき起こして。」 他の村の者が酒を持ってくることはあったか 「あんまりなかった。」 男女はどんな風に知り合っていたのか 「そうね−・・・、お宮の夏祭あたりじゃなかったろうか.」 恋愛の自由はあったのか 「あったね。」 村の姿の変わり方、村はどうなったのか 「そりや、恐ろしく変わっとるばってん.どがんいうんやろうかな−.まず 農栄の形が変わった。機械化されて。それから生活様式が変わってきよっ たしテレビとか袷冷蔵庫とかで高度な生活ができるようになったしね。」 これからどうなるか? 「都会並みについていくじゃろうね−.」 今後の日本農業への展望は? 「こりや暗いですね。ふふふ。(きっぱり)とにかく、まず後継者が いない。それと、経済が世界の中の経済になってきたわけでしょ.たとえ 米を増収しても、外国の米との競争になるわけ.米価が上がらん.生産コ ストが外国は安い。外国に太刀打ちできんわ。それから、あのうまいもの し好になっていくわけでしょ。結局農産物もうまいもの作らんといかんっ ちゅうこと。今はコシヒカリやヒノヒカリを作れば、結局、作りにくいわ けよね。そしたら、病気にも弱いとか、風水害にも弱いとか、そういうこ とでなかなか増収が見込めん。増収しても今のごつ、有り余って、残って 、米価が下がって、もう、生産意欲がないわ!結局もう農業の将来は暗い っちゆうこと。」 以上
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