毎日新聞(無断転載はお断りします) 「色定法師一筆一切経」の伝説 −−巨大プロジェクトには誇大キャンペーンが必要
服部英雄 勤務校でCOE「東アジアと日本・交流と変容」というプロジェクトに参加している。わ たしは中世の日宋関係史料の読み直しを担当した。そのひとつが興聖寺蔵(宗像大社保管) 「色定法師一筆一切経」(重要文化財指定)である。宋人綱首・張成がもたらした唐本経を もとに筆写されたという一切経(大蔵経)四千五百巻である。「綱首」とは日宋・交易船の 船長で、貿易会社社長でもあった。いま風にいえば中小銀行経営者(頭取)ぐらいの資金 力があった。鎌倉時代の初頭にその張成が輸入した経巻(唐本)が筆写された。散逸分も あって、本来、五千巻はあっただろう。 これは色定法師なる僧が文治三年(一一八七)より嘉禄三年(一二二七)まで、四十年 の歳月をかけて一人で筆写した一切経であるとされている。わたしがみたどの本にも、ど の辞典にも、そう説明されていた。奥書に「一筆書写行」と明記されている。だから一人 の筆跡となるのだろう。筆跡は同じになるはずだ。 『宗像市史』や『チャイナタウン展』図録(福岡市立博物館)に数点の写真がある。比 較してみたが、同筆という印象を受けない。別人が書いたのではないか。お経は長いもの の代名詞である。一巻平均一〇メートルの長さはある。広い畳の上で、投げるようにひろ げる。これまでの解釈のように一人で五千巻を筆写したとすると、四十年間、毎日毎日、 一日も休まずに、三日ごとにあの長大な経巻一巻を書き上げていったことになる。あり得 ないと思う。 建久十年は四月二十七日に改元され、正治となった。奥書に「正治元年六月二十四日書 之畢」とあるが、続いて「建久十年六月二十五日始之」とある。改元後の新年号を使用し た人間が、ふたたび旧年号を使用することはない。正治年号を知る人間と知らない人間が 別の場所で作業していたのではないか。 建久元年から二年にかけては「彦山三所権現貴水」を用いた。そういう記述が一年近く、 四十巻分に残っている。彦山信仰に篤い人間がいたのだろう。この記述はその後なくなる から、特定僧侶による短期間のミニキャンペーンか。 「一筆」プロジェクトは数十年もかけていく人かによって継続されていった。この間に 関わった勧進僧として良祐、経祐、栄祐、色定(識定)らの名前が見える。かれらはこれ まで同一人物とされてきた。「一筆」なのだから同一人物のはずということであろう。した がってその「悲母」(慈母)である藤原三子妙阿と藤原四子蓮阿弥陀仏が同一人物だとする 研究者までもいた。だが三女だった母親が途中から四女に変わることはない。僧も母もみ な別人と考えれば理解ができる。 綱首張成によってもたらされた、もとの一切経は、ふしぎなことに一巻も残っていない。 宋版一切経という、木版の印刷物であったとされているが、なぜそれを再度筆写したのか、 なぞも多い。全部揃っていなかったことは確実で、筥崎・香椎・雷山や京都でも補充筆写 している。新規に準備のいる大事業だった。 「一筆」とは巨大なプロジェクトの名前であろう。およそ常人ではなしえない偉大な事 業、神業。困難な事業を遂行し、完成させるためにはいくぶん誇大なキャンペーンが必要 だった。既存のものを集めてくるのではなく、新たに五〇〇〇巻を筆写し直す。その行為 を「一筆」と表現した。複数の人々が書写していることは、作成に関与した当事者はもち ろん、寄進・喜捨する人間もみな知っていた。いわば中世人にとっては暗黙の了解である。 宗教は魂の救済が使命である。信仰上の虚構はいとわないし、必要である。奇跡・偉業 は必要な、しかけのひとつである。こうした宗教特有の論理・装置を承知し理解した上で、 史実を認識すること。それが歴史学には求められよう(05/12/30訂正)。